第四話 兄
スズは炉端に這い寄り、剣をつかんだ。
鞘を払う。ためらいはなかった。ためらったのは、刀身をのぞくことのほうだった。
灯明は消えている。戸の隙間から入る星明かりだけで、刀身がかすかに白い。その白の中に、姉の顔があった。
「……開けたね」
姉の声は、さっきよりずっと小さかった。
「いまの雷、聞こえた?」
「聞こえた」
「出ないで、スズ」
スズは答えずに、抜き身を下げたまま戸を開けた。
◇
里は寝静まっていた。犬は、まだ一匹も鳴かない。
井戸端に、男がひとり座っていた。
井戸の縁に腰をかけ、長い脚を片方だけ投げ出している。白い衣が、星明かりを吸って青く見えた。夜露の降りた草の上にいるのに、裸足の足はまるで濡れていない。年は二十を少し出たくらいに見える。膝の上に、鞘に納めた細身の剣を横たえていた。その鞘のまわりで、ときどき、小さな光がぱちりと弾けた。
男は、スズを見なかった。
スズの手の、刀身を見ていた。
「起きているな。先の妹」
スズの足が止まった。
男の目は、まっすぐ刀身の中の姉に向いていた。姉の目も、男を見返していた。
三年だった。三年のあいだ、スズのほかに、姉の顔を見た者はいない。長も、ウメ婆も、里の誰ひとり。
「……見えるの」
「見える。声も聞こえる」
刃を握る手から、力が抜けかけた。スズは、あわてて握り直した。
「姉さん。この人を、知ってるの」
「……知らない」
姉は、男から目を離さずに言った。
男は立ち上がった。背が高い。スズは半歩下がって、刃を上げた。
「誰」
「ナルカ。天つ座から来た」
聞いたことのない名だった。天つ座という言葉だけは、祖母の昔話で聞いた覚えがある。空のずっと上にある、神々の座だ。
「火の子を切り捨てに来た。長が、おまえに頂へ行けと言ったろう。あれは天つ座の意向でもある」
「なら、わたしが斬る。あなたは要らない」
「おれには斬れん」
ナルカは、自分の剣を持ち上げてみせた。鞘の中で、また光が弾けた。
「この雷剣は、魂なら何でも消せる。だが、火の子にだけは届かん。あれを斬れるのは、あの日あれを斬った刃だけだ。つまり、おまえのその剣だけだ」
スズは、手の中の剣を見た。
「だから、頂まで付いていく。おまえが斬るところを見届ける」
「好きにすればいい」
「そうする。そのかわり、ひとつ教えておく」
ナルカは、刀身の姉に目を戻した。
「その剣は——イツハは、斬った者を宿す。おまえも知っているとおりだ」
剣の名を口にする者は、里にはいない。スズも、祖母から一度聞いたきりだった。
「宿せば、重くなる。いまは一人ぶんだ。山には、門ごとに守がいる。守を斬れば、二人、三人と増える」
ナルカは、刀身の姉を見たまま続けた。
「宿した者が抱えているものが重ければ、そのぶん剣も重くなる。重さに耐えきれなくなったとき、継ぎ手は潰れる。中に宿した者も、ひとり残らず散って消える」
「……散る」
「消える。どこにも残らん」
夜の風が、井戸の縄を揺らした。
「おまえの前の継ぎ手は、みんなそうなった。弟も、妹も。おれは、ひとり残らず看取ってきた」
「……弟、妹」
「おれは剣の子だ。あの日、その刃についた血から生まれた。だから、その剣を継いだ者は、みんなおれの弟妹だ。おまえも」
ナルカは、スズを見た。はじめて、まっすぐに。
「妹だ」
刀身の中で、姉が息をのむ気配がした。
ナルカは、井戸の底をのぞくように目を落とした。
「最後の弟は、十九だった。中に宿した者たちの声が大きくなって、自分の声が聞こえなくなった。剣を抱いたまま山道に座りこんで、それきりだ。中にいた者も、あいつと一緒に消えた」
十九。スズより、二つ上なだけだ。
「……どうして、そこまでする」
「弟や妹が潰れるのを、もう見たくない。それだけだ」
◇
「宿すな」
ナルカの声は、叱る声ではなかった。
「斬るときに、中へ入れずに斬る作法がある。天つ座の作法だ。そうして斬られた者は、どこにも残らない。重さも残らない。教えてやる」
ナルカは、スズの刀身を指さした。
「まずは、その姉からだ」
姉は、唇を結んだまま、ナルカを見返していた。
「先の妹。おまえからも言ってやれ。宿されたまま山へ入れば、どうなるか。わかっているだろう」
刀身の中で、姉の唇が一度だけ動いた。声にはならなかった。姉は、ナルカの言うことを、ひとつも打ち消さなかった。
スズの指が、柄に食いこんだ。
「宿した者も、おまえが作法で斬り直せば消える。いまのうちに軽くしておけ。山で守を三人も宿せば、おまえは頂まで持たん」
「姉さんは、斬らない」
「情けで言っているなら——」
「もう斬った」
自分の声が、夜の庭に硬く響いた。
「一度、斬った。二度は斬らない」
ナルカは、しばらくスズを見ていた。怒った顔ではなかった。何度も見てきたものを、また見ている顔だった。
「そうか」
ナルカは、剣を腰に戻した。
「これまでの弟や妹も、はじめはみんな、そう言った」
それから、思い出したように付け足した。
「あの日、同じ刃の血から生まれたのは、おれだけではない。山で会うかもしれん。そのときは、おれを呼べ」
「呼ばない」
ナルカの口の端が、わずかに上がった。笑ったのだと、スズはしばらくしてから気づいた。
雷が、ひとつ鳴った。
スズが瞬きをしたとき、井戸端には誰もいなかった。星がひとつ、白くにじんでいた。
スズは、手の中の剣を見下ろした。
三年前から、この剣は人ひとりぶん重い。慣れたと思っていた。慣れたのではなかった。姉が、ここにいる重さだった。
山で守を斬れば、二人ぶん、三人ぶんになる。
刀身の中で、姉がスズを見上げていた。何か言いたそうな顔で、何も言わなかった。
◇
スズは、朝まで眠らなかった。
◇
夜明けに、スズは母の社へ行った。
長と、里の者がそろっていた。焦げた屋根の下で、スズは母に頭を下げた。顔を上げると、長と目が合った。
「首を、落としてこい」
長は、それだけ言った。与平がうなずき、機屋の女が子の肩を抱いていた。ウメ婆が、口の中で母の名を唱えていた。
誰も、剣の中の姉を知らない。姉のために頭を下げた者は、ひとりもいなかった。
スズは、懐の檜皮に一度だけ手を当てて、社を出た。
森の手前まで、機屋の子が走ってついてきた。母親に呼び戻されても、足を止めない。
「スズ姉ちゃん。火の粉、やませてね」
「やませる」
子は、それを聞くと、くるりと向きを変えて母親のほうへ駆け戻っていった。
◇
麓の森の切れ目に、苔に埋もれた石段があった。
一段目にさえ足をかけるなと、子どものころから言われてきた。
スズは、その一段目を踏んだ。息を詰めていたことに、踏んでから気づいた。何も起こらなかった。苔が、草鞋の下で少し沈んだだけだった。
二十段ばかり上がったところに、ナルカが立っていた。木にもたれて、腕を組んでいる。
「行くか」
「行く」
ナルカは何も言わずに、スズの後ろへ回った。三歩ぶん離れて、ついてくる。
石段の途中で、スズは一度だけ振り返った。
杉の間から、里が見えた。朝の煙が、家々から細く上がっている。半分焼けた与平の家。焦げた屋根の母の社。黒く焼けた粟畑。どれも、小さかった。
スズは前を向いて、また登りはじめた。歩きながら、剣をわずかに抜いた。
刀身の中で、姉は目を伏せていた。夕べから、姉はまだ一度も「行くな」を取り消していない。
「姉さん」
「……なに」
「置いていけないから、連れていく」
姉が、目を上げた。何か言いかけて、やめた。それから、ほんの少しだけ笑った。
「ずるい言い方」
目をそらして、付け足した。
「行くなって言ったの、取り消さないからね」
「知ってる」
姉は、ちらりと後ろを見た。
「……あの人、裸足だったね。夜露の中なのに、足が濡れてなかった」
「見てたの」
「見るでしょう、ふつう」
後ろから、ナルカの声がした。
「姉を斬らないなら、せめて守は宿すな。作法で斬れ」
「斬り方は、わたしが決める」
ナルカは、それ以上は言わなかった。
石段は、霧の中へ続いていた。長いこと、人の通った跡のない道だった。腰の剣が、一段ごとに重く揺れた。
登るにつれて、里の音が遠くなる。鐘も、犬の声も、もう聞こえない。
かわりに、上のほうから、音が降りてきた。
とん、とん。
木を叩く音だった。小さな手の拳で叩くような、軽い音だった。間を置いて、もう一度。とん、とん。
誰かが、戸を叩いている。
刀身の中で、姉が、音のするほうへ顔を向けた。
「戸だ」
後ろで、ナルカが言った。
「一つ目の門だ」
とん、とん。
音は、まだ続いていた。




