第三話 鞘
支度の二日は、人が来てばかりいた。
一日目の朝には、与平が草鞋を三足ぶら下げてきた。半分焼けた家の、焼け残った藁で編んだという。
「山道じゃ、一足目は二日ともたねえ」
与平はそれだけ言うと、土間に草鞋を置いて、礼も聞かずに帰っていった。
昼には機屋の女が来た。火の粉の夜に焦がした小袖を出せと言う。スズが出すと、女は焦げた左の袖口を鋏で切り落とし、持ってきた端切れを継いだ。糸を噛み切るまで、ひと言もしゃべらなかった。
継いだ布は、藍が少し濃かった。
「縫い目が、きれいだね」
壁に立てかけた剣の、鞘からわずかに出した刃の中で、姉が言った。
女には聞こえない。女は小袖をたたんでスズの膝に置き、戸口で一度だけ振り返った。
「うちの子が、あんたに悪いことを言ったって」
「言ってない」
「……そうかい」
女は帰っていった。
「あの人、謝りに来たんだよ」
「わかってる」
スズは、継いだ袖に指を通した。藍の濃いところだけ、布がまだ硬かった。
◇
二日目は、ウメ婆が干し飯と塩を持ってきた。長の使いの若い衆が、火打ち石と油紙を置いていった。里の子らが、戸の外から中をのぞいては逃げていった。
逃げずに残ったのは、機屋の子だけだった。戸口の柱につかまって、土間に並んだ草鞋を数えている。
「スズ姉ちゃん、帰ってくる?」
「帰る」
「いつ」
スズは答えに詰まった。頂まで、何日かかるのか知らない。頂で何をしたら帰れるのかは、知っている。
「火の粉が、やんだら」
子はうなずいて、走っていった。
刃の中の姉は、子の走っていった戸口を見ていた。
支度の二日のあいだ、姉はよくしゃべった。
干し飯は小分けにして、雨に濡らさない包み方をしろ。草鞋の紐は、濡れると縮むから緩めに結べ。水は沢で汲め、溜まり水は腹を下す。
どれも、姉がお役目についたころ、祖母が姉に言い聞かせていたことだった。スズは、それを横で聞いていた。十かそこらだった。
「覚えてる?」
「覚えてる」
「嘘。あんた、あのころ寝てたでしょう」
姉は笑った。
笑いながら、姉は一度も山の話をしなかった。どの門がどこにあって、どんな道で、何が出るのか。スズが水を向けても、姉は干し飯の話に戻った。
日が暮れかけたころ、長が戸口の前を通りかかった。足を止め、中へは入らずに、スズの肩ごしに山を見た。
「発つときに、社へ寄れ。母さまに、挨拶をしていけ」
それだけ言って、長は行ってしまった。
◇
出立の前の夜、スズはひとりで夕餉を食べた。
この家に、いまはスズしかいない。炉端に座るのも、椀を洗うのも、ひとりだ。棚の上には、姉の使っていた柘植の櫛が、姉がいたころと同じ場所に置いてある。スズは一度も動かしていない。
食べながら、スズはその櫛を見ていた。
箸を置いて、立ち上がる。櫛を手に取った。三年ぶんの埃が、指の腹についた。袖で拭って、支度の包みの底へ入れた。干し飯の下、いちばん濡れないところへ。
なぜそうしたのかは、自分でもよくわからなかった。
椀を片づけてから、灯明を引き寄せて、剣を抜いた。
刃に油を引く。布で、根元から切っ先まで、ゆっくり拭う。拭うたびに、灯明の火が刃を滑っていく。その光の中に、姉の顔があった。
姉は、しばらく何も言わなかった。
スズが切っ先を拭い終えて、布を置いたとき、姉が口を開いた。
「行くな」
短い声だった。
スズの手が、柄の上で止まった。
「……なに」
「行くな、って言ったの。スズ。あの山へは、行くな」
聞き違いではなかった。
スズは刃を見た。姉の顔は、いつもの顔ではなかった。目尻の下がった目が、灯明の火を映したまま、まっすぐスズを見ていた。
姉は、スズを止めたことがない。
八つのスズが、はじめて母屋の屋根に登ったときも、姉は下から笑って見ていた。十二のスズが、姉の留守にお役目の剣をこっそり抜いたときも、叱らなかった。三年前、その剣が自分に振り下ろされたときでさえ、姉は目を閉じただけだった。
その姉が、行くなと言っている。
「どうして」
「おまえは、あの山のことを何も知らない。長も。語りも」
おまえ、と姉は言った。姉がスズをそう呼んだことは、一度もなかった。
「……どういうこと」
姉は答えなかった。
「何を知ってるの。姉さん」
「言えない」
「言えないって、何」
刃の中の姉の唇が、言葉の形に開いて、そのまま震えた。
「……言えないの」
姉の唇が、きつく結ばれた。寄り合いで長を見ていたときと、同じ顔だった。口の中まで来た言葉を、噛んで、飲みこむときの顔だ。
スズは、灯明の火が小さく揺れるのを見た。自分の息で揺れたのだと、しばらくして気づいた。
「長は、行けと言った。里のみんなも、行けと言ってる。姉さんだって、寄り合いのあとで言った。置いていけるなら、置いていってごらんって」
「言った」
「じゃあ、どうして」
「行かせたくないからよ」
「理由を言って」
「スズ」
「理由を言ってくれたら、考える」
姉は、目を伏せた。
灯明の芯が、じ、と小さく鳴った。姉は、それきり口を開かなかった。
スズは、待った。息を十数える間。二十数える間。刃の中の姉は、動かない。
手の中で、柄が重くなった気がした。重さは変わっていない。ずっと、人ひとりぶんのままだ。重くなったのは、握る手のほうだった。
「言わないなら、聞けない」
自分の声が、思ったより低く出た。
「火の粉は、明日の夜も降る。その次の夜も降る。与平の家は、次は全部焼ける。母の社も焼ける。わたしが斬らなきゃ、誰も斬れない。姉さんが何を知ってても、言わないなら、それは無いのと同じだ」
「スズ、お願い。聞いて」
「聞いてる。姉さんが何も言わないだけだ」
「あんたを、なくしたくないの」
姉の声が、かすれた。
スズは、刃の中の顔を見た。姉がこんな声を出すのを、聞いたことがなかった。三年前にも。
「……なくすなら」
言いかけて、スズは唇を噛んだ。
「わたしは、もう、なくしてる」
姉の目が、わずかに見開かれた。
「姉さんを斬ったのは、わたしだ。あの一太刀に意味をくれるのは、あの山の頂にいるものだけだ。それを斬って、はじめて」
「意味なんか——」
姉は、そこで言葉を切った。続きは、いつまで待っても来なかった。
スズは、剣を鞘に納めた。
刃が鞘に沈んでいく。姉の顔が、鍔のほうから順に消えていく。最後に、何か言いかけた唇が見えた。
鈴が鳴った。
「スズ……」
鞘の中から、くぐもった声がした。壁の向こうで人が呼ぶような声だった。
「スズ、開けて」
スズは、剣を膝から下ろした。炉端の板の上に、横たえた。
「お願いだから」
姉の声は、何度かスズを呼んで、やんだ。
家の中が、急に広くなった。姉を斬った夜から、この家で姉の声がしない夜はなかった。
◇
灯明を消して、スズは横になった。
眠れなかった。
闇の中で、剣は炉端に横たわっている。見えないが、そこにあるのはわかる。三年、手の届かないところに置いて眠ったことはなかった。寝返りを打つたびに、耳が炉端のほうを向いた。鞘の中は、静かなままだった。
姉に逆らったのは、初めてだった。
十七年で、一度も。姉がやれと言えばやった。やめろと言われたことは、なかった。止められるようなことをしても、姉はいつも笑っていた。
不意に、スズは思い出した。
寄り合いのあと、粟畑のほとりで剣を納めたとき、鈴の音に紛れて、姉が何か言った。三つか四つの音だった。聞き返したら、なんでもない、と姉は言った。
い、く、な。
あのときから、言うつもりだったのだ。二日のあいだ、干し飯と草鞋の紐の話をしながら、ずっと。
スズは、闇の中で目を開けた。
炉端のほうへ手を伸ばしかけて、やめた。開けて、何を聞く。聞いて、何が変わる。姉は言わない。言わないことが、何よりもはっきりした答えのような気がした。何の答えなのかは、わからなかった。
姉は、山の何を知っているのか。
スズは、その問いを最後まで考えなかった。考えれば、明日、戸口を出られなくなる気がした。
そのとき、外で音がした。
雷だった。
スズは跳ね起きて、戸を細く開けた。
空は晴れていた。雲ひとつない。星が、火封山の肩のあたりまでびっしりと出ている。頂は、あいかわらず鈍く赤い。
里は、しんとしていた。いつもなら夜通しどこかで吠えている犬が、一匹も鳴いていない。
それなのに、もう一度、雷が鳴った。
山のほうからではなかった。里の上の、何もない空の真ん中から、一度だけ、乾いた音が落ちてきた。音の落ちたあたりの星が、ひとつ、白くにじんで見えた。
炉端で、鈴が、ひとりでに小さく鳴った。




