第二話 母殺しの日
日が高くなるまで、スズは屋根を下りなかった。
明け方に山から流れてきた火の粉は、朝の風に押されて、里の東の畑へ多く落ちた。刈り入れを待っていた粟が、三枚ぶん焼けた。焼けた穂が、黒い針のように畝に立っている。家は焼けなかった。人も焼けなかった。
最後のひとつを斬ったとき、スズの腕は肩から上がらなくなっていた。刃を鞘に納めるのに、二度しくじった。
「寝なさいよ」
納めかけた刃の隙間から、姉が言った。
「寄り合いがある」
「寝てから出ればいい」
「昼だ」
鈴が鳴って、姉の声は鞘の中へ消えた。
井戸端を通ると、水を汲んでいた女たちが話をやめた。明け方の石段でのことは、もう里を一周したらしい。
◇
寄り合いは、母の社の拝殿で開かれた。
ほかに里の者がそろって入れる屋根がない。焦げた天井には三つの穴があいていて、そこから昼の光が、細い柱になって床まで落ちていた。光の中を、灰がゆっくり舞っている。
男も女も、板の間にひしめいて座った。赤子を抱いた女もいる。誰も、光の柱の中には座らなかった。
スズは、いちばん後ろの柱にもたれて座った。剣を膝に横たえ、左の親指で鍔を押す。刃が、指一本ぶんだけ鞘から出た。
その細い鋼に、姉の片目が映った。
「狭いね」
「黙ってて」
スズは唇だけで言った。隣に座っていた機屋の女が、ちらりとスズを見て、尻ひとつぶん離れた。
前のほうでは、もう声が上がっていた。
「川下へ移るしかねえ。山から離れりゃ、火の粉も届かねえ」
「川下は、よその里の田だ。誰が入れてくれる」
「焼けるのを待つよりましだろう!」
声を荒らげたのは与平だった。女房が袖を引いても、止まらなかった。
「母の社に火が落ちたんだぞ。母さまが、もうこの里を守っちゃくださらねえってことだ」
何人かが、天井の穴を見上げた。
「だいたい、火を斬る者がいて、なんで家が焼ける」
誰かが言った。何人かの肩が、後ろの柱のほうへ回った。
「火を斬るどころか。姉を斬った娘だぞ。本人がそう言ったって話じゃねえか」
拝殿が、ざわりと揺れた。いくつもの顔が振り返り、スズを見て、すぐに前へ戻った。スズは剣を膝に置いたまま、動かなかった。
上座で、里の長が杖の先を床に落とした。
こつ、と乾いた音がした。
それだけで、拝殿は静かになった。
「サヤは、火に呑まれた」
長は、誰の顔も見ずに言った。
「それで済んだ話だ。蒸し返すな」
スズは、口を開かなかった。明け方、ウメ婆の前で言ったことを、もう一度言う気にはなれなかった。長の声が、言うなと言っていた。
「……済んだ話、だって」
鋼の中で、姉がつぶやいた。平たい声だった。
◇
「子らを、前へ」
長が言った。
母親たちに背を押されて、小さな子らが前へ出てきた。十人ばかりいる。機屋の子も、その中にいた。
寄り合いのたびに、長は子らにあの日を語らせる。語り終えるまで、大人は口をはさまない。スズも、姉も、そうして覚えた。
「いつの話だ」
「むかしの、むかしの話です」
子らは声をそろえた。節がついている。歌うような、唱えるような節だった。
「母がおられた。母は、わたしたちの祖であった」
「母は、火の子を産んだ」
「火の子は、産まれたときから燃えていた」
「母は、その火に焼かれて、死んだ」
そこで、子らは一度、息を吸った。
拝殿の大人たちが、声を合わせた。
「あの日、野が焼けた」
スズの口も、勝手に動いていた。
「七日七晩、野が焼けた。山の麓から、川の端まで」
子らの声に、大人の声が重なっていく。低い声が床を伝って、スズの膝の上の鞘まで響いた。
「古き主は嘆いて、剣を抜いた」
「古き主は、火の子を八つに斬った。右の足、左の足、右の手、左の手、腹、腰、胸、頭」
「古き主は、八つを山に並べて封じた。足を麓に、頭を頂に」
「剣は火守に預けられ、火守は、山からこぼれる火を斬る者になった」
「この日を、母殺しの日という」
最後の一句は、子らだけが言った。
声がやむと、灰の舞う音まで聞こえそうだった。
スズは、膝の上の刃に目を落とした。
わずかにのぞいた鋼の中で、姉は目を閉じていた。唇が動いていない。子どものころ、この語りをいちばん大きな声で唱えていたのは、姉だった。スズの手を握って、節の切れ目ごとに、その手を振った。あの日、野が焼けた、のところでは、決まって握る手に力がこもった。
◇
「封が、ほころびかけておる」
長が言った。
「火の粉がこれだけ降るのは、頭が起きかけておるからだ。放っておけば、いずれ手も足も起きる。そうなれば、あの日がもう一度来る。母の社も、この里も、野と一緒に焼ける」
誰かが、赤子をきつく抱き直した。
「では、どうするんで」
与平が言った。さっきよりも、声が小さい。
「古き主がなさったことを、もう一度する」
長は、拝殿のいちばん後ろへ目を向けた。
人の頭が、ひとつ、またひとつ、振り返った。
スズは、振り返った顔を順に見た。与平。与平の女房。ウメ婆。機屋の女。光の柱の向こうで、どの顔も、スズの顔より少し下を見ていた。膝の上の剣を見ていた。
「スズ」
長は、ゆっくりと言った。
「山へ登れ。八つの門をくぐり、頂で、火の子の首を落とせ」
杖が、もう一度床を鳴らした。
「もう一度、火を斬れ」
長の目は、スズの膝の上にあった。刃に映った姉の目と、長の目とが、鋼一枚をはさんで向き合っている。長に見えているのは、鞘からのぞいた細い鋼だけだ。
姉が、目を開けた。
長を見ていた。
スズには、その顔が読めなかった。子どものころ、叱られる前の姉が、ときどきこういう顔をした。口の中まで出かかった言葉を、噛んで、飲みこむときの顔だった。
◇
「娘ひとりに、山を登らせるんですか」
声を上げたのは、ウメ婆だった。
「火を斬れるのは、あの剣だけだ」
長は短く答えた。
「そして、あの剣を持てるのは、いまはスズだけだ」
ウメ婆は口を閉じた。ほかに、声を上げる者はいなかった。
スズは、姉の目を見ないまま、指で刃を鞘に押し戻した。姉の片目が、鋼と一緒に鞘へ沈んだ。
立ち上がる。膝が鳴った。夜通し屋根にいた体は、まだ重い。
「行きます」
拝殿の空気が、ゆるんだ。誰かが長く息を吐き、誰かが母の名を唱えた。与平の女房が、両手を合わせてスズを拝んだ。
スズは、その手から目をそらした。
拝殿を出ようとしたとき、袖を引かれた。ウメ婆だった。
「明け方のこと、あたしは誰にも言っちゃいないよ。あの子が、母親にしゃべっちまったんだ」
婆さまは、スズの顔を見ずに言った。
「言っても、構わない」
「構うさ。あんたが山へ行くんなら、なおさらだ」
婆さまは、灰で黒くなった指で、スズの手に何かを押しつけた。焼け残った檜皮のかけらだった。裏に、母の社の印が墨で書きつけてある。
「母さまの屋根だよ。持っておいき」
スズは、それを懐に入れた。檜皮は軽く、端に触れると黒く崩れた。
◇
寄り合いが解けたあと、スズは焼けた粟畑のほとりに立っていた。
黒い畝の向こうに、火封山が座っている。昼の光の中で見ると、ただの大きな山だった。頂から細い煙が一本、まっすぐ空へ昇っている。
麓の森が、一か所だけ切れている。そこから、苔に埋もれた古い石段が、木々の奥へ消えていく。子どものころ、あの石段の一段目にさえ足をかけるなと、何度も言われた。その先に、一つ目の門がある。そう聞かされてきた。見たことはない。
支度に、二日もらった。三日目の朝に、発つ。
剣を抜いた。
刀身いっぱいに、姉の顔が映った。
「……引き受けちゃったね」
「断れると思った?」
「思わない」
「さっき、唱えなかったね。あの日の語り」
「喉がないもの」
姉は軽く言った。刃の中の顔は、笑っていなかった。目は、スズの肩の向こうの山を見ていた。
スズも山を見た。
あの山の頂に、母を焼いたものがいる。里に火を降らせているものがいる。それを斬れば、火の粉はやむ。与平の家も、機屋の軒も、母の社も、もう焼けない。
そうすれば、三年前のあの一太刀にも、きっと意味ができる。
懐の檜皮に、スズは手を当てた。焦げた匂いが、指に移った。
「姉さん」
「なに」
「一緒に、来てくれるよね」
姉は、少し笑った。
「剣の中にいるんだよ、わたし。置いていけるなら、置いていってごらん」
いつもの姉の声だった。
スズは剣を納めた。鈴が鳴った。
鞘の中に戻る寸前、姉が何か言ったような気がした。三つか四つの音だった。鈴の音に紛れて、聞き取れなかった。
スズは、剣をもう一度わずかに抜いた。
「いま、何か言った?」
「なんでもない」
姉は、笑っていなかった。




