第一話 抜く
柄の鈴が、ちりと鳴った。
スズは藁屋根を踏みしめ、鞘を払った。
抜いた刃が、屋根に落ちたばかりの火の粉を二つに割った。
割れた火は藁の上で一度だけ身をよじり、煤になって消えた。細い煙がひとすじ立ち、風にちぎれた。
刀身に、女の顔が映った。
「また抜いたの」
スズと同じ切れ長の目で、目尻だけがわずかに下がっている。十七の頃のままの顔が、刃の中からスズを見上げていた。
「今夜で何度目?」
「数えてない」
「わたしは数えてる。九度目」
「十度目は、来ないかもしれない」
「来るよ。ほら」
頭の上から、また降ってくる。
赤い粒だった。ひとつ、またひとつ、里の夜空をゆっくり落ちてくる。里の北には、山がひとつ、膝を抱えた人のように座っている。火封山という。見上げると、その頂が、灰をかぶせた熾火のように鈍く光っていた。
火の粉が繁く降るようになったのは、この春の終わりからだ。それまでは、年に一度あるかないかだった。はじめは月に一度、それが十日に一度になり、夏が過ぎるころには、三晩と空かなくなった。そのたびにスズは日暮れから屋根に上がり、明け方まで下りない。里の者は戸を閉めて眠る。眠れない者は、戸の隙間から空を見ている。屋根の上の娘と、娘の腰の剣を見ている。
「西だ、西の納屋!」
下の泥道を、桶を抱えた男たちが駆けていく。スズは屋根から飛び降り、男たちとは逆へ走った。
納屋に燃え移った火なら、水で消える。
山から落ちてきた火そのものは、水では消えない。
◇
機屋の軒で、それが燃えていた。
梁に、火の粉がひとつ食いこんでいる。握りこぶしくらいの火だった。桶で三杯かけられて、梁は黒く濡れ、湯気を上げている。それでも火は濡れた木の上で、瞬きもしない目のように赤かった。
「スズだ。スズが来た」
機屋の女が、子を抱えて後ずさった。子は五つか六つで、母親の肩ごしに、スズの手元をじっと見ていた。
スズは梁の下に立ち、刃を上げた。切っ先が、腕よりわずかに遅れてついてくる。
刀身に、火が映った。その横で、女の顔が梁を見上げていた。
「十度目。つけ根のほう、深く食いこんでる」
スズは答えず、梁の火に刃を当てた。
斬るというより、なぞるだけだった。刃が火の腹を抜けると、火は音もなく二つに離れ、縮み、灰になって落ちた。濡れた梁から、今度こそ湯気だけが上がった。
「スズ、袖。焦げてる」
見ると、左の袖口が黒く縮れて、細い煙を上げていた。スズは手のひらで叩いて消した。
「……助かったよ」
機屋の女が、スズの足もとのあたりに向かって言った。
「かあちゃん、あのひと、また剣としゃべってる」
子が母親の耳に言った。母親は子の頭を押さえ、自分の胸に顔を埋めさせた。
里の者に、刀身の顔は見えない。声も届かない。彼らに見えるのは、夜ふけに抜き身を下げて、ひとりごとを言う娘だけだ。
スズは袖で刀身を拭った。拭っても、顔は消えない。
「嫌われたね」
刃の中で、姉が言った。
「前からだ」
「前はね、もう少しましだったよ。あんたが笑わなくなるまでは」
スズは剣を鞘に納めた。鈴が鳴った。
三年前から、この剣は人ひとりぶん重い。
◇
鐘が鳴ったのは、そのすぐあとだった。
里の真ん中、母の社のほうからだった。
社は、里でいちばん古い建物だ。火守の里の者はみな、母の末を名乗る。遠い昔、火の神に殺された母を祀るその社には、火を入れない。灯明さえ置かない。火は母の仇だからだ。
祖母の祖母の代から、社にだけは、火の粉が落ちたことがなかった。
その屋根が、燃えていた。
檜皮葺きの三か所に、赤い点が並んでいる。まわりに人が集まり、桶の列ができかけていた。女たちは子を抱いて石段の下まで下がり、年寄りの誰かが、母の名を唱えている。
「タギさまが、起きなすった」
腰の曲がった爺さまが、山を見上げて言った。誰も返事をしなかった。返事をすれば、本当になる気がしたのだろう。
「どけ」
スズは人垣を割り、社の脇の杉に取りついた。
登るとき、腰の剣が幹に当たって、重い音を立てた。
枝から屋根へ移る。檜皮が足の下で熱く、草鞋の裏から細く煙が上がる。抜く。
「右の棟に一つ。その奥に、もう一つ」
刃の中から、姉の声がした。先代の目は、スズより早く火を見つける。
いちばん手前の火に刃を入れる。消える。二つ目。消える。
三つ目は、屋根の端にあった。
「跳ぶよ」
姉が言うのと同時に、火が跳ねた。
風上へ、ひと息に。社の屋根から隣の家の軒へ、火は自分の足で跳んだように見えた。乾いた藁が、待っていたように燃え上がった。
「与平の家だ!」
「中に誰かいるか!」
「いねえ、みんな出てる!」
スズは屋根を蹴って、隣の軒に跳んだ。
遅かった。
藁屋根を舐めているのは、もうただの火だった。山から落ちた火は、藁に火を移すと、屋根のどこかで灰になっていた。残ったのは、斬っても消えず、水で消すしかない火だ。男たちの桶がそれに追いつくまで、スズは軒の端で刃を下げたまま、立っていることしかできなかった。
与平の家は、半分焼けて残った。
与平も、女房も、年寄りの母親も、石段の下で煤だらけになって座りこんでいる。年寄りの母親は、焦げた鍋をひとつ、胸に抱えていた。誰も、焼けてはいなかった。
与平の女房が、屋根から下りてきたスズを見上げた。何か言いかけて、口を閉じた。代わりに、焼け残った柱のほうへ顔を向けた。
スズは刃を下げたまま、女房の前を黙って通り過ぎた。背中に、いくつもの目が貼りついてくる。
「あんたのせいじゃないよ」
刀身の中で、姉が言った。
「知ってる」
◇
明け方が近づくと、火の粉はやんだ。
スズは社の石段に腰を下ろし、刃を拭っていた。刀身に、また顔が浮かぶ。
「母の社に火が落ちたの、はじめてだね」
「知ってる」
「祖母ちゃんが生きてたら、腰を抜かしてた」
「知ってる」
「あんた、今夜それしか言ってない」
「ほかに言うことがない」
「昔は、うるさいくらいしゃべったのにね」
石段の下から、社守のウメ婆が上がってきた。灰をかぶった髪を撫でつけ、焼けた与平の家のほうを見て、長い息を吐く。それから、腰の竹筒をスズに差し出した。スズは一口だけ飲んで返した。水は、煤の味がした。
「サヤがいたころは、火の粉なんて、年に一度落ちるかどうかだったのにねえ。あの子は、よく笑う子だった」
婆さまの後ろに、機屋の子がくっついていた。まだ眠そうな目で、スズの抜き身と、婆さまの顔とを見比べる。
「サヤって、だれ」
「スズの姉さまだよ。先代の、火を斬るお役目でね。かわいそうに、三年前、火に呑まれて——」
「火じゃない」
スズは刃から目を上げなかった。
「わたしが斬った」
ウメ婆の口が、半分開いたまま止まった。子は意味がわからないまま、婆さまの袖をつかんだ。
刀身の中で、姉は何も言わなかった。
ただ、スズの手元のほうへ、目を落とした。
杉の上で、朝の鳥が一羽鳴いた。ウメ婆は黙って子の手を引き、石段を下りていった。途中で一度振り返り、スズの持つ剣を見た。ただの鋼を見る目だった。
◇
「スズ」
石段の上に、里の長が立っていた。
白い髭に灰が積もっている。長は、スズの顔を見て、それから抜き身の刀身に目を落とした。そこに映る顔には、目を留めなかった。見えないのだから、留めようがない。
「昼に寄り合いをする。出ろ」
「わかりました」
長は焦げた社の屋根を見上げた。檜皮の三か所が、黒くえぐれている。
「母の社に、火が落ちた」
誰に言うでもなくそう言って、長は石段を下りていった。
「寄り合い、なんの話だろうね」
姉の声は、いつもより低かった。スズが刀身を見ると、姉は長の背中の向こうの山を見ていた。
姉は、山の話をしない。もう、ずっと。
スズも、山へ目を移した。
火封山の頂が、明けかけた空の下で、まだ赤い。
その赤が、ふっと膨らんだ。
遠く、腹の底に響くような音がした。頂から、ひと筋の火が、夜明けの雲を焦がして高く昇り、ゆっくりと崩れて散っていく。散った火は細かな粒になり、山の斜面を撫でながら、こちらへ流れてくる。
ゆうべより、ずっと多い。
起きなすった、という爺さまの声が、耳の奥に残っていた。
里のあちこちで、戸が開く音がした。誰かが、また鐘を打ちはじめた。
スズは立ち上がった。夜通し握っていたせいで、指が柄からうまく離れない。剣は抜いたままだった。
「……姉さん」
「なに」
「なんでもない」
「そう」
石段を下りかけて、スズは一度だけ、刀身を見た。
姉は、目を閉じていた。
三年前、この刃を受けたときも、姉は目を閉じていた。




