つむぎさんと猫のステッカー
朝。
相馬奏士は鏡の前でネクタイを締めながら、肩に貼られた下手くそな猫のステッカーを見つめていた。
「……耐久性、良好」
『貼って二十四時間。粘着性能の経時変化を観察するんだっけ?』
「そうだ。純粋な検証だ」
『ふーん』
ナビィの返事は明らかに信じていない。
だが奏士にとって、あくまでこれは検証である。
断じて剥がすのが惜しくなったわけではない。
決して。
そんなことはない。
会社に着くと、奏士はすぐに仕事モードへ切り替わった。
「資料、昨日のうちに整理しておきました」
「試験結果のまとめも完了しています」
「次回の打ち合わせ資料、こちらです」
手際よく仕事を片付ける奏士。
会議室では、若手社員の田辺が感心したように言った。
「相馬さん、相変わらず仕事速いっすね」
「無駄を削れば誰でもできる」
「いや、誰でもは無理ですよ」
そのとき。
「相馬さん」
「ん?」
「肩」
「肩?」
「猫いますよ」
「……は?」
周囲の視線が一斉に集まった。
奏士は恐る恐る自分の肩を見る。
下手くそな猫。
堂々と貼られている。
「あー!」
「かわいい!」
「お子さんですか?」
「娘さんの絵?」
「いや待て!」
奏士は慌てて否定した。
「これは違う! 性能試験だ!」
「性能試験?」
「粘着力の経時変化の観察!」
「会社で?」
「そう!」
「猫で?」
「……そう!」
静まり返る会議室。
田辺がぽつりと呟いた。
「相馬さん、意外とかわいい趣味あるんすね」
「違う!」
「猫好きなんですね」
「違う!」
「照れなくていいですよ」
「だから違うって!」
結局、誰も信じてくれなかった。
昼休み。
自席で茹で鶏とキャベツを食べていると、田辺が弁当を持って近づいてくる。
「相馬さん、毎日それっすか」
「必要な栄養は足りている」
「楽しくないでしょ」
「食事に楽しさは不要だ」
「そう言いながら、猫ステッカー貼ってる人に言われてもなぁ」
「ぐっ……」
『論破されてるね』
「うるさい」
『ちなみに猫の耳、ちょっと曲がってるところが味があっていいと思うよ』
「評価するな」
夕方。
仕事を終えた奏士は駅からマンションへ戻ってきた。
すると。
「あ、オジィ!」
聞き慣れた声。
つむぎが廊下で座り込み、例の茶トラ猫と向かい合っていた。
「お帰りー」
「誰がオジィだ」
「今日も貼ってる!」
つむぎの目がぱっと輝く。
「えへへ、まだ貼ってくれてたんだ」
「違う。検証だ」
「うんうん」
「信じろ」
「うんうん」
「適当に返事するな」
つむぎは立ち上がると、じっと奏士の肩を見つめた。
「ちょっと端っこ浮いてる」
「え?」
「ここ」
ぺたぺた。
つむぎは当たり前のように奏士の肩に手を伸ばし、浮きかけた部分を指で押さえた。
「よし」
「……」
「これであと三日はいける!」
「なんで寿命を延ばす方向なんだ!」
「だって猫ちゃん寂しいもん」
「猫は紙だ!」
すると足元の茶トラが「にゃあ」と鳴いた。
「ほら、猫ちゃんも喜んでる」
「だから別の猫だろ!」
つむぎはくすくす笑う。
「オジィ、今日もお仕事頑張った?」
「……まあな」
「えらいえらい」
ぽんぽん。
なぜか頭を撫でられた。
「ちょっ、おい!」
「よく頑張りました」
「子供扱いするな!」
「じゃあ、おじいちゃん扱い?」
「悪化してる!」
つむぎは楽しそうに笑った。
その笑顔につられてか、茶トラもゴロゴロと喉を鳴らしている。
奏士はため息をつく。
「……ナビィ」
『なに?』
「明日も検証を継続する」
『うん』
「ステッカーの耐久試験だ」
『うんうん』
「別に、あいつが喜ぶからじゃない」
『知ってる知ってる』
「なんだその言い方」
『奏士って、分かりやすいよね』
夕焼けの廊下。
つむぎは猫を抱き上げながら、にこっと笑った。
「また明日ね、オジィ!」
「だからオジィじゃ……」
最後まで言い切る前に、つむぎは手を振って走っていく。
奏士は肩の猫を指で軽く押さえた。
「……剥がすの、面倒だしな」
『うんうん』
「なんだよ」
『なんでもないよ』
最適化の鬼・相馬奏士。
今日もまた、非効率な優しさに少しだけ振り回されていた。




