つむぎさんと最適化の朝
午前七時三十分。
相馬奏士の朝は、奏士向けに最適化された相棒のAI「ナビィ」の声で始まる。
『おはよう奏士。本日の生産性を最大化するスケジュール、組んどいたよ。朝食準備、移動、すべてを最短でこなせば、浮いた時間で自己研鑽が可能。我ながら完璧な采配だね』
「おう、サンキューナビィ。昨日の残業で睡眠時間が五分削られた分、朝の準備で巻くぞ」
相馬奏士、二十四歳。
人生のあらゆるプロセスを「コスト」として捉える、効率化の鬼を自称する青年である。
朝食は茹で鶏百グラム、キャベツ百五十グラム、ミニトマト六個、プロテイン一杯。
味? 彩り?
そんなものは栄養素の前では誤差である。
「朝食完了まで四分二十二秒。自己ベスト更新」
『誰と戦ってるの?』
「昨日の僕だ」
『一番面倒くさいタイプだね』
ナビィの適当なツッコミを聞き流しながら、奏士は玄関を飛び出した。
完璧な足取り。
完璧な呼吸。
完璧な通勤ルート。
そのはずだった。
「あ、オジィ! おはよー♪」
「……誰がオジィだ」
廊下の角を曲がった瞬間。
そこには、しゃがみ込んで野良猫の腹をわしゃわしゃ撫で回している少女がいた。
つむぎ。
そして、完全に骨抜きにされている茶トラ猫。
「奏士だ。そうじ。何度も言わせんな」
「えー、でもオジィっぽいんだもん。いつもキビキビしてるし」
「それ、褒めてるのか?」
「半分くらい?」
つむぎはにこにこと笑いながら、猫の首元を撫でる。
猫も猫で、ゴロゴロと喉を鳴らして幸せそうだ。
奏士はスマホを見た。
「どいてくれ。君がそこにいるせいで、通勤ルートに零・五秒の遅延が発生した」
「ふふ」
「笑うな」
「猫ちゃんのゴロゴロって、聞いたことある?」
「ある」
「ちゃんと聞いた?」
「……」
「三分だけ、一緒に聞いてみよ?」
つむぎは猫を抱き上げたまま、奏士の裾をぐいぐい引っ張る。
近い。
距離感がおかしい。
「三分? 三分あればメール一本返せるんだぞ!」
「でも、今聞かないとゴロゴロは逃げちゃうよ?」
「逃げねえよ!」
「ほんと?」
「たぶん!」
「たぶんなんだ」
猫が「にゃあ」と鳴く。
つむぎが笑う。
なぜか猫も笑っているように見える。
奏士はため息をついた。
「毎朝毎朝、君はここで何してるんだ」
「猫ちゃんとおしゃべり」
「会話成立してんのか?」
「うん」
「内容は?」
「今日は暑いねーって」
「雑談だった!」
つむぎはまた猫に頬を寄せた。
「ま、いっか」
その一言で全部終わらせるな。
奏士はそう言いかけて、結局飲み込む。
「……オジィは非論理的な話は好きじゃないんだ。出勤中なんだから失礼するぞ」
「はいはい、分かったよオジィ」
「だからその呼び方!」
「いってらっしゃーい!」
ひらひら手を振るつむぎ。
その瞬間。
ぺた。
「……ん?」
「はい、お守り」
肩を見る。
貼られていたのは、手作りのステッカー。
下手くそな猫のイラスト。
耳の位置も変だし、目も左右で大きさが違う。
「なんだこれ!」
「猫ちゃん」
「見れば分かる!」
「かわいいでしょ?」
「いや、微妙に下手!」
「えへへ」
「褒めてない!」
剥がそうとして、奏士はスマホを見た。
電車まであと二分。
「くっ……剥がす時間がない!」
「また明日ねー!」
つむぎは猫と一緒に手を振っている。
奏士は舌打ちしながら駅へ向かって走り出した。
だが、走りながらも肩のステッカーはそのままだ。
「……ナビィ」
『なに?』
「明日の出勤ルート、検証のためにあそこを通る設定にしておけ」
『検証?』
「そうだ。ステッカーの耐久性を調査する」
『へぇ』
「あと猫の行動パターンも」
『へぇ』
「あと……」
『つむぎさんの生存確認?』
「断じて違う!」
『はいはい』
ナビィの呆れたような声がイヤホンから聞こえる。
『検証だもんね』
「そうだ、検証だ」
奏士は坂道を駆け下りた。
肩には、下手な猫のステッカー。
そして明日の朝も、なぜかあの廊下を通る予定が、いつの間にか組み込まれていた。
最適化の鬼・相馬奏士の日常は。
予定外の隣人によって、少しずつ、でも確実に狂わされ始めていた。




