第八話
評価・ブックマークお願いします!
日曜日、午前十一時。
約束の時間通り、僕は隣の家である碧原家の玄関前に立ち、緊張した面持ちでインターホンを押した。
「はーい、ちょっと待ってねー!」
家の中から聞こえてきたのは、いつものように聞き慣れた明穂の明るく弾んだ声だった。
ガチャリと小気味よい音がして鍵が開き、扉の向こうから現れた明穂は、動きやすそうなスウェット地のパーカーに可愛らしいエプロンを重ね着した姿だった。
学校の制服や、先日のデートで着ていた大人っぽいロングコートとはまた違って、いかにも「家の中でリラックスしている女の子」という雰囲気だ。
その予想外に無防備でラフな姿に、僕は内心で不意を突かれ、何だか少しだけドキッとしてしまう。
「あ、志雄、いらっしゃい! ちょうど今、お母さんと一緒にお昼ご飯の準備をしてるところなんだ」
「お邪魔します。……って、お昼って言ってもまだ十一時過ぎだぞ」
「ふふ、だって志雄が来るから、お母さんが気合入れてハンバーグ作ってくれるって言ったからさ。早く食べたくなっちゃって。お部屋とかの準備も早く終わっちゃったんだもん」
明穂は嬉しそうに目を細めると、玄関で僕のためにサッとスリッパを出してくれた。
幼い頃からお互いの家を行き来しているから、もう勝手知っている者のはずなのに、今日はなぜか足元が落ち着かないような、新鮮すぎる緊張感がある。
リビングに通されると、台所の方から香ばしくて美味しそうな匂いが鼻をくすぐった。
キッチンからは、明穂のお母さんの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
「あら、志雄くんいらっしゃい! ちょうどいいところにきたわね、もうすぐハンバーグが焼き上がるところよ」
「おばさん、お邪魔します。今日もすごくいい匂いがしますね」
僕が丁寧に挨拶をすると、お母さんはニヤリと意味深で茶目っ気のある笑みを浮かべた。
「もう、志雄くんは相変わらず口が上手いんだから。ほら、明穂の部屋で勉強道具出して待ってなさい。ご飯ができたら呼ぶからね」
「あ、ありがとうございます」
僕は少し照れくさい気持ちになりながら、明穂に促されて二階にある彼女の部屋へと向かった。
階段を上がり、廊下の突き当たりにある部屋のドアが開き、僕は中に足を踏み入れた。
明穂の部屋に入るのは、中学の時に理科の自由研究の課題を一緒にやって以来かもしれない。
部屋の中は、白と薄いピンクを基調にした落ち着いたインテリアで統一されていた。
ほんのりと甘い柔軟剤とシャンプーの香りが漂っていて、いかにも女の子の部屋という感じで居心地が悪いような、どこか落ち着かないような不思議な気分になる。
「ほら、そこに座っていいよ。私も勉強道具すぐ出すから」
明穂は自分の学習机の椅子を引き、僕を机の前にあるクッションへ座るように促した。
僕がカバンから教科書やノート、問題集を取り出していると、明穂はテキパキと自分の参考書や文房具を並べていく。
「ええと、まずは苦手な数学からやろっか。私、ここの二次関数の単元がどうしてもよく分からなくてさ、志雄に教えてもらいたくて。」
明穂が解けなかった問題が並ぶノートを僕の前に差し出してきた。
覗き込むと、几帳面に書かれた綺麗な文字の横に、赤いペンで解けない印のマークがいくつかついている。
「どれどれ……あー、ここは、こうやって公式を当てはめればすぐ解けるだろ」
「えっ、ほんとだ……! 私、全然違う公式に当てはめてたから、そりゃあ何度やっても解けないわけだよね」
明穂は感心したように目を丸くし、僕の顔を至近距離で覗き込んできた。
あまりの近すぎる距離感に、ふわりと髪から香るシャンプーの甘い匂いが鼻をかすめる。
思わず体が硬直してしまい息を止めていると、明穂はハッと気づいたように少しだけ頬を赤らめて体を引いた。
「な、なんでもないよ! 次の問題も教えて、志雄先生!」
照れ隠しのように茶化してくる明穂を見ながら、僕は自分の激しく高鳴る心臓を必死に落ち着かせるのに必死だった。
それから僕たちは、時間を忘れて黙々と机に向かった。
分からないところを教え、明穂が納得したようにうなずき、また次の問題に進む。
幼馴染という気安さがありながらも、こうして机を並べて真面目に勉強していると、お互いに少しだけ大人になったような気がして不思議な感覚になる。
「――そこまで! 二人とも、お昼ご飯の準備できたわよー!」
階下から響いてきたおばさんの明るい声に、僕たちはホッとしたような、もう少しこのままでいたいような複雑な気持ちでペンを置いた。
「ふう、お疲れ様! けっこう順調に進んだね」
「だな。明穂が普段より真面目にやるから、意外と捗ったわ」
「なにそれ、普段は不真面目みたいに言わないでよ!」
ムッとした顔で頬を膨らませる明穂を連れて、僕たちはリビングへと階段を降りた。
食卓には、湯気を立てるふっくらとしたジューシーなハンバーグと、色鮮やかな野菜サラダが並んでいる。
「さあ、冷めないうちに召し上がれ。今日はたくさん作ったから、遠慮しないでいっぱい食べていいからね」
「いただきます!」
僕たちが手を合わせ、さっそくハンバーグにナイフを入れると、肉汁がじゅわっとあふれ出した。
一口食べてみると、慣れ親しんだ安心する味が口いっぱいに広がる。
「うまっ……やっぱり、おばさんの作るハンバーグは世界一だな」
「でしょ? 私もこれが大好きなんだから」
明穂も嬉しそうに自分の分のハンバーグを美味しそうに頬張っている。
向かい側に座るお母さんは、そんな僕たちの様子を温かい目で見てから、ふっとまたあの悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「それにしても、こうやって二人でお昼を食べてる姿を見ると、昔と全然変わらない可愛い子供の頃のままなのに、なんだか不思議な感じがするわね」
「どういうことですか?」
僕が首をかしげると、お母さんはクスリと楽しそうに笑った。
「ううん、何でもないの。ただね、明穂が学校が休みの日も『志雄くんと一緒にお出かけした』って、すごく嬉しそうに話してくれたから、お母さんも何だか嬉しくなっちゃってさ」
「ちょっ、お母さん! そんなことまでわざわざ言わなくていいでしょ!」
明穂が顔を真っ赤にして、おしゃべりなお母さんの腕をパタパタと叩いた。
「あら、事実じゃない。恥ずかしがらなくてもいいのに、可愛いんだから」
お母さんの言葉に、僕まで急に恥ずかしくなってしまい、手元のお皿から目を離せなくなってしまった。
(明穂、そんなふうにおばさんに話してたのか……)
胸の奥が、何とも言えない温かさとこそばゆさで満たされていくのを感じる。
お昼ご飯を食べ終えた後も、僕たちは午後の時間を使って残りのテスト勉強をしっかりとやり切った。
夕方になり、帰る準備をして玄関に向かう僕を、明穂は少しだけ名残惜しそうに見送りながら言った。
「志雄、今日は長い時間付き合ってくれてありがとう。すごく楽しかった!」
「こちらこそ、美味しいお昼ご飯をご馳走様。テストもこれだけやれば何とかなるだろ」
「うん! 一緒にがんばろね!」
帰り道、夕暮れに染まる住宅街を歩きながら、僕は自分の胸の中で確かな変化が広がっているのを感じていた。




