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第85話

 息を切らしながらあたりを見渡す。しかし、追っていた白シーツ姿は何処にも見当たらない。僕たちは完全に撒かれてしまったようだ。


「あんな目立つのに見失うとかあるか?」


 恨みがましくそう零すと、隣にいる椛が苦笑いしながら言う。


「あはは、なんかスピードというより逃げる方向が巧みだったよね」


 そう、恐らく見失うことになった最大の要因はその逃走経路。曲がり角や分かれ道、人混みを上手く使い、こちらがやっと姿を見つけたと思ったらすぐに姿をくらますような方向に移動していくのだ。明らかにこちらの視線を切るような進路をとっており、忍者か何かかよと思わざるを得ない。


 あるいは、ストーカー対策の教育の賜物だろうか。確か三橋の話では、あの中身である伊集院さんは良いとこのご令嬢だったはずだ。お嬢様たるもの身代金目的の誘拐など、身の危険に備えるべく、護身術的なものを仕込まれていても何ら不思議はない。あの人混みを縫う様な動きはその成果だと言われれば納得もいくというものだ(世良町の偏見で語る英才教育その1、なお打ち切り)。最強の護身術はそもそも相手と接触しないこと、すなわち逃げることだと本で読んだことがあるが、まさにその通りである。手も足も出なかったし。


「しかし、凄いな椛」


「凄い?何が?」


「だって全然息切らしてないじゃないか。あんなに走ったのに」


 膝に手をついて肩を上下させている僕に対し、けろっとした表情の椛。確かに椛は運動もできる子だが、ここまで体力に差があるのかと思うと男子として思わないことがないわけでもない。


「あー、えっとぉ」


 僕の指摘に椛は少し気まずそうな顔をした後、頬を掻きながら言った。


「私、匠君ほど本気で追ってなかったから、かな?」


「え?」


 なして?


「匠君が追いかけたのは、その私とハグしてるとこ見られちゃって口止めしようってことだと思うんだけど……私は別に言いふらされても構わないっていうか。それで外堀埋まる分には約束破ったことにはならないかなって」


 照れくさそうに、少し頬を赤らめながら少女は言った。


 僕が椛とハグをするに至った経緯は、そもそも現状の僕が椛と一緒に行動して、周囲から「そう言う目」で見られるのを避けたかったから。その僕の要望を呑む代わりに一時的な抱擁を椛が望んだわけだが、当然それを見られては元も子もない。むしろ被害はより甚大とすら言える。


 だが、この思考はあくまで僕の物。椛からすれば、たとえ目撃者がおしゃべりで、あることないこと言いふらし噂の火種をまき散らそうとも、問題ないどころかむしろ大歓迎なスタンスだったらしい。椛の言葉には僕に向けられる矢印の大きさと、それを届かせようとする強かさを再認識せざるを得ない。


「なあ、椛」


 僕が呼びかけに首を傾げて続きを促す椛。しかし、僕は発しようとした言葉を呑み込んだ。なぜか?逆に聞くが、どこの誰が「僕のどこをそんなに好きになってくれたのか?」と正面から尋ねることができるだろうか。そんな肝が据わっていれば僕の人生はもっと違うものになってたはずである。思い切りの良さも度胸も持ち得ないからこそ、こんな状況になっているわけで。


 と、とにかくだ。僕が何の対策もせず、些細な隙でも見せようものならそのまま椛に押し切られるかもしれない。僕は椛に向かって手を差し出した。


「はいっ!」


「待て待て」


 僕が言葉を発するよりも早く手を握ってきた椛を慌ててセーブする。「むぅ」と頬を膨らませる少女を直視するとこちらが危ういので、いかにも「呆れてます」感を出しながら告げた。わざとらしいため息は、自分の照れ具合を少しでも隠すためである。


「腕章を返してくれ」


「えー」


 不満げな声を漏らす椛だったが、「でも約束だしなぁ」と渋々しまった腕章を取り出して僕に渡してきた。やはり根は真面目である。


 腕章の装着を皮切りに思考を切り替える。ここからは仕事モードだ。


「僕はまず、近くの投票箱そのものを調べてみる」


 不正にしろ、何か集団での大きな動きがあったにせよ、何かの痕跡が残っている可能性がある。僕がまず当たるのはそこからだ。


「うーん、それじゃあ私は少し近くで聞き込みしてみるよ。できるだけ自然に、ね」


 適材適所。椛は僕とは正反対でそのコミュニケーション能力を生かした方向で動くらしい。では一旦別れるかと思ったところ、椛は自分の分の腕章を僕に手渡してきた。


「はい。聞き込みの時はない方がいいかもだし、匠君がもってて」


 それなら腕章は閉まっておけばいい話。それにもかかわらず、わざわざ取り出して僕に渡すということは……さしずめ「後で取りに来るからね?逃げちゃだめだよ?」という意味だろうか。


「分かった。それじゃあちょっと後で」


「うん、またね」


 早速人混みに溶け込んで、会話を切り出す椛の背中を見届けてから僕は投票箱まで歩みを進めるのだった。

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