第84話
回収した投票用紙に大量の白紙が含まれていることが発覚したのは、本部である視聴覚室にて集計を開始してからのことと聞く。これは投票箱から用紙を取り出した際、回収にあたった実行委員はその内容までチェックをしていないからというのが理由らしい。実行委員は他にも仕事が大量にあり、用紙の回収そのものに時間を割くことはできないのだから仕方ない。箱に入れられた紙に関して縦横揃えるだけでも丁寧な対応と言えるだろう。実際、昨日の時点で僕と三橋が回収した際もそんな細部までは確認していなかっ……うわ柔らかっ。
そして、投票用紙が視聴覚室に運ばれてからすぐに集計が行われたわけではない。これも実行委員の仕事量が関係しており、予定としては今日の午後の回収の後、非番の実行委員も集まってから一斉に集計作業に入る手はずだった。今回、白紙が大量に紛れていることに気が付いたのは本当にたまたまのことで、下手をすれば2回目の用紙回収の後、いざ集計しようというタイミングで発覚していた恐れもある。そうなれば被害は今の比じゃない。……うわいい匂い。
「って!椛!」
「あ、やっと喋ってくれた。なぁに?」
やっと、という言葉から数秒自分がフリーズしていたことが伺える。
「いや、いつまで腕を組んでらっしゃるんでしょうか?」
僕と椛の距離、特に物理的な距離は今、ゼロである。左腕には少女の両腕が絡められており、ふわりと花束を彷彿とさせるフローラルな香りが鼻をくすぐり、もにゅっと腕がどこかに沈み込む。その感触は男性が決して持ちえないもので、意識するなというのが無理なのは男の性という奴だろうか。さっきから白紙投票の件に思考を逃がそうと試みているものの、ちょっと体を動かした衝撃で意識が全部そっちに持っていかれる。こんなんもはや凶器だろ。どうしろと?
「言ったでしょ、私の夢だって。こうやって腕を組んで回りたかったんだ」
「いやこれは仕事」
「分かってるよ。だから目的の場所につくまでで良いよ。私の我儘。それに」
椛はそう言うと、ぎゅっと腕に入れる力を少しだけ強めた。
「さっきの質問の答えを聞いた以上、私は遠慮しないよ?」
椛は僕を上目遣いで見上げ、ニコッと微笑む。その間も腕はがっちりホールドされたまま。幸い、さっきから人とはすれ違っておらずこの光景を見られてもいない訳だが、いつ誰に見られるかという心配はずっとある。だというのに、その表情を見ただけで気恥ずかしさと己の隠し切れない嬉しさが全部洗い流してしまう。
「この状況、もし誰かに見られたら、どう取られるかは分かってるんだよな」
「匠君こそ。私の言葉、聞いてなかったとは言わせないよ?これでも勇気振り絞ったんだから」
つまり、さっきのは聞き間違いでも勘違いでも、言葉の綾でもないということ。
付き合っている人はいるかという問いに対して、僕は正直にいないと答えたわけだが、まさか椛がここまで踏み込んでくるとは思わなかった。精神的にも、物理的にもだ。
「少しだけ、待ってくれないか」
僕にはそうお願いすることが精いっぱいだった。
現在、染谷にも随分と甘えてしまっている。この状況で、僕が対外的に椛と「そういう関係」として見られるような行動をするのはあまりにも不誠実極まりない。それは人間として、一人の男として容認される様な事ではない。
「その感じ……もしかして今日一緒だったっていう子からも告白、されたのかな」
察しのいい椛は僕の様子からそう問いかけてくる。
「はっきりとはまだだが、近しいことは」
「ふーん?じゃあ、その子と私をキープしてるってこと?」
「ち、違……うとは言えない状況だよな」
「うん、そうだね」
可愛らしい声でグサッと鋭利に一突き。決して都合が良いから保留でという邪悪な思想の下行動しているわけではないのだが、傍から見ればそんなことは関係なくて、僕は絶賛クズムーブの最中である。違うのだと否定したいが、それは言い訳にしかならない。
「ふふっ、そんな顔しなくていいよ。迷いなく私を選んでくれないこと、悔しいけど……そんなところも好きになっちゃったから」
「椛……」
「でも、私が腕を組んだままアピールしたら外堀は埋められるよね?」
「!?ちょ、ちょっと待ってくれ」
「冗談だよ。……いや、冗談でもないのかな?本当はそうしたいところだけど、迷惑をかけて匠君が私を選んでくれなくなっちゃったら本末転倒だし」
椛はそう言うと僕から腕を離して、正面に立った。
「でもさ、匠君。匠君の我儘に付き合ってあげる私には何か埋め合わせがあっても良いと思うんだ」
「と、言いますと」
椛は両腕を広げて満面の笑みで言った。
「ぎゅっとして?」
「いや、それは」
「あれ、良いのかな?恋する乙女は強硬手段に出ちゃうかもよ?」
可愛い顔と声、仕草に伴う脅し。強硬手段というのが何を指すのかは考えるまでもない。そして、僕に選択肢が存在しないことも。椛は腕を組んで回ることが夢でもあると言った。それを自身の都合で無下にする。代替案として一瞬の抱擁というのは、随分と譲歩してもらったのだろう。他者に見られるという事態を避けられるのだから。しかし、他の人なら男女問わず喜んで飛びつく様なこの提案に色々考えている自分は何と罰当たりなことか。
僕は脳内で必死に染谷へ謝罪した後、恐る恐る椛へと歩み寄る。周囲に人がいないことを確認し、震える腕を少女の背中へと回した。羽に触れるように丁寧に、慎重に。
制服越しに感じられる胸元の豊満な弾力。サラサラでよく手入れの行き届いた紙。細い体、白い肌。長いまつ毛と甘い匂い。高鳴る胸のドキドキが相手にも聞こえてしまっているのではないかと錯覚する。確認するまでもなく、自分の耳が真っ赤になっていることが分かる。恥ずかしい、けれどどこか安心する。
「えへへ……好き。大好きだよ匠君」
耳元で吐息交じりにそう告げられる。顔に帯びた熱とは違う温かさがじんわりと、胸の奥底から湧き上がるような……
がたっ
「!?」
突如響いた物音に慌てて振り向く。
そこにいたのは、白いシーツを被った……古代エジプト神。
「……」
そいつはくるりと踵を返すと、ものすごい勢いで階段を駆け下りて行った。
「おい待てやコラぁ!」
僕は過去類を見ない程の大声を上げて、全速力で駆けだした。走りに伴う風が火照った顔を冷ますのに一役買ってくれることになったのは、不幸中の幸いだったかもしれない。




