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第75話

「ただいまー」


 家に帰っても返事はない。それは私にとって決して珍しいことではなかった。


 ローファーを脱ぎ、中へと上がる。歩き慣れた家の中は電気が消えていても大抵どこに何があるのか把握でき、右手を伸ばせば寸分の狂いもなく照明のスイッチに手が届いた。パチッという音の後、白く照らされた室内。テーブルの上にはいつものようにメモが1枚。


『帰りは明後日になるから、買い物があったらこれで』


 達筆な字の横に添えられた1万円札。高校生の身からすればとてつもない大金のそれを、私は一旦財布にしまう。でも、これを使うつもりはない。確か冷蔵庫の中にまだ食材があったはず、後で軽く何か作らなくちゃ。


「明後日かぁ。お母さん、ちゃんと寝れてるのかな」


 私のお母さんは、いつも仕事で帰宅が遅い。最後にご飯を一緒に食べたのは、いつだっただろう。少なくとも、私が文化祭の実行委員になって準備をはじめてからは一緒に食卓を囲んだことはない。ううん、きっともっと前から。


 家庭のことは放置で仕事一筋。幼少期からそれが当たり前で、昔はそれを寂しいと何度も感じたけれど、今ではそれも仕方がないのだと割り切れるようになった。私が住む場所に困らないのも、毎日3食食べることができるのも、部活動に必要な道具を揃えられるのも、お母さんが一生懸命に働いてくれているから。ましてや今は母子家庭、家に割く時間なんてあるはずもない。だから私は、それを責めようだなんて思わなかった。たとえ世間一般に見て、私のお母さんが「良くできた母親」でなかったとしても。


 お父さんとお母さんが離婚したのは今から10年以上前、私が小学生の時になる。弟をお父さんが、私をお母さんが引き取った。2人にどうしてそこまで亀裂が生じてしまったのか、その理由を実は聞かせてもらっていない。でも、もしかしたらって思うことはある。私はお父さんから養育費を貰っているわけではないし、逆に弟の養育費をお母さんが払っているわけでもない。つまり、私の両親はお互いに子供1人を養えるだけの経済力を有していたということを知ったのは結構最近になってからだ。


 以前、学校の保健体育の授業で聞いた覚えがある。自立というのは、依存先を増やすことだって。極端な話、好きなものがお酒だけっていうのは何かあった先の避難先がお酒だけになるからダメ。お酒以外にも、体を動かす趣味とか、あるいは恋人とか、家族とか。自分が寄りかかれる存在をたくさん用意し、避難先を分散させることが大事なんだってお話だった。


 その点、私のお母さんとお父さんはお互いにとって依存先ではなかったのかもしれない。収入という分かりやすい指標に始まり、様々な能力が、性格が、きっといろんなものが対等すぎた。お母さんもお父さんもいつしか、お互いに寄りかかる相手ではなくなってしまった。自立した、しすぎた2人の大人が一緒にいる目的を、意味をなくしてしまったことが離婚の原因だったんじゃないかな、なんて私は考えている。答え合わせは、まだするつもりはないけれど。あるいはもっと私が傷ついてしまう理由だったら、というのはちょっと想像したくないから。


「あんまり考えないようにしてたのに、ダメだなぁ私」


 勇気を振り絞って何かを実行したとき、その後いつも私はこんな風に言いようのない感覚を抱える。真っ白な部屋に真っ白な紙を1枚、くしゃくしゃにして放ったような、そんな感覚。達成感とか安堵とか、そんな晴れ晴れとしたものじゃない。何か消し去り切れない懸念が、不安が残っているような。そこからいつも、ずるずると、あまりよくない方向へと思考が加速してしまう。それは今日の出来事も例外ではなくて。迷惑だったんじゃないか、困らせてしまったんじゃないか。嫌な女だって思われてないか、そんなことばかり次から次へと浮かんでくる。


 だけど、そんな自分との付き合いだって長いもので。めぐる思考の中、一瞬の隙間を縫って、私は自分の頬を両手でパチンと挟むのだ。そのまま胸を張って、背筋を伸ばす。大きく深呼吸して……そしてやっと目を開く。


「……どっちにしたって、絶対後悔しただろうし。うん、だったら頑張った私偉い!自分くらい、自分のこと褒めてあげなきゃ」


 文化祭は一年で一番カップル数が増える日だって聞いたのは部活動の最中、先輩の雑談で。非日常的な時間、物事に協力して取り組むというその過程は、異性の距離がぐっと近くなるんだって。実際に私も、それを自覚していた。自分と彼との距離という意味でも、彼と他の子との距離という意味でも。


『匠君は明日がオフなんだよね?誰と回るとか決めてるの?』


『あー、一応な』


 そんな些細な相槌に、胸がチクッと。肝心な時の自分のクジ運を恨んでしまう。でも、人生は思い通りに行くことの方が少なくて。だから起こったことを悔やむというのは、言ってしまえばエネルギーの無駄なんだ。それが自分の努力や準備の不足によるものなら反省しなきゃだけど、そうじゃないなら仕方がない。先のことを考えた方が、きっと気持ちはずっと楽だ。


 だから私は、ちょっと予定を早めてクッキーを渡した。本当は、一緒にケーキ屋に行ったあの日から、文化祭の終わりと同時に渡そうと思っていたけど。明日、彼が一緒に回る相手がいると聞いて、もしその子が女の子だったら……彼とその子の関係が一歩近づく前の、ささやかな牽制をしなきゃなんて思ってしまった。ふとした瞬間に、彼の頭に過ってくれればなんて期待を込めた行為(好意)


 それは、皆の良く知る、頼りにしてくれる日暮椛としては褒められたことではないかもしれないけれど。ズルや、意地の悪い事と言われるかもしれないけれど。明日の貴方を、困らせてしまうかもしれないけれど。


 頑張り屋さんで、実は周りをよく見てて、誰かのために動ける貴方のことを素敵だと思ってしまったから。


 資料に書き込む、あなたの指が。眠そうだったり、悩んでたり、恥ずかしがったり、隠せずにコロコロ変わる、誰かに似た幼さの残る横顔が。お話の中で、楽しんで、楽しませようとしてくれるその言葉や間が、愛しくなってしまったから。


 再び、大切なものが離れて行くのを指をくわえて見ているのは嫌だったから。


 もしかしたら、そんな理由とか理屈とか関係なしに。なんとなく、ただ何となく。あなたの隣が心地よいから。


 ───だから私は。あなたを困らせるよ。

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