第74話
「お帰りーお兄!ねぇねぇ、文化祭で明日私が行くのにオススメの場所とか……お兄、何かあった?」
「あ、いや。ただいま」
椛との別れ際からどこかおぼつかない足取りだったはずの僕は、いつものように、まるで呼吸をするかの如くドアノブに手をかけていたらしい。たとえ考え事をしていようとも、染みついた動きというのは変わらずこなされるようで、いつの間にか家の玄関にいた。
「心ここにあらずって感じ?何かトラブル?」
「大丈夫だ。ちょっと疲れただけ」
荷物を置いて、土間に腰掛ける。その時、がさッと隣で物音がした。
「クッキー?」
思考を乱したきっかけであるラッピングされた小さな包み。靴を脱ごうと鞄の上に一旦置いたその瞬間、それを持ち上げてしげしげと見つめる妹の呟きだった。僕は慌てて由愛の手からそれを取り上げる。
「文化祭で配られたの?」
「ああ」
「うそ」
由愛の指摘に動きを止めた。
「だったらそんな勢いで取り返す必要ないでしょ。それに私、女の子だから分かるよ。それ、明らかに『誰か1人のため』に作られてる。絶対配るようなものじゃない」
その指摘を受けて、僕は由愛から手にした袋へと視線を落とす。透明な袋は赤色のリボンで口を縛られており、内容物が見ることができた。クッキーは丸いきつね色のシンプルなものが多数だが、確かにその中には貰った時には見えなかった形がある。それは、由愛の言う様に「配布する」ものとしては適している形とは言えないものかもしれない。
「由愛」
「なに?」
「宝くじが当たったとしよう」
僕の言葉に「ええ、いきなり何」と口に出さずとも露骨にめんどくさそうな顔をする我が妹。だが、ため息を1つついたのち、会話を続けてくれた。
「夢みたいな話だね」
「ああ。その夢心地に最初こそ幸福感に包まれる。だが、その後に来るものは何だと思う?」
僕がそう尋ねてみると、由愛は数秒思案して答えた。
「分かんないけど、実感なさそう?」
「なるほど、それもある意味正しいだろう。だけど、僕が思うに『恐怖』が生まれるんだ」
宝くじの高額当選。その事象の後に必ず『恐怖』が訪れる。自分で稼いだわけでもない大金がごろっと懐にやってくる。それは「狙われるのでは?」という不安の肥大化で精神を蝕んでいくのだ。実際、「宝くじ当選後は人間不信になる」「家族にも当選したことは喋ってはいけない」なんて話も聞く。
そして、僕の手元にあるこのクッキーも、それに近しいものがある。狙われる……いや、多少の嫉妬こそあれ、障害沙汰につながるとは思っていない。問題は他にある。この品はきっと、大勢の男子が憧れる様なものだ。校内有数の美少女が不特定多数への配布目的ではなく、明確に定められた誰かのために作ったのではないか、そう指摘された品。その指摘は間違っていないだろう。だって、2-Cでは持ち帰りの品なんて提供していないからだ。それに、店内で提供されていたクッキーにこの形状もなかったはず。
となると、どうしても気になる。僕は、これを手にするほどのことを相手に提供したのだろうか。これを渡すだけのメリットが僕にあったのか。
僕の答えはNo。より正確に言えば、『渡されるほどのことをした覚えがない』のだ。故に疑念が、そして恐怖が僕を襲っている。
日暮椛は魅力的な女の子だ。外見は言うことなし、スタイルだって抜群。声が可愛く、明るく元気。勉強も運動もできる文武両道。夏場は染谷を気にかけてくれたように、困っている人を嫌な顔1つせず、周囲を助けてくれる優しい性格をした人でもある。まさに非の打ち所がない様な少女だ。
僕は一人の人間として椛を尊敬しているし、人間性を好ましいとも思う。だが、それゆえに分からない。椛は周囲に平等な存在で、誰にでも分け隔てなく接する。だが、今回の行動は明らかに一線を画したものだ。僕とわざわざ帰ろうと切り出した瞬間から、これを渡すことを考えてくれていたのだろうか。そうだとしたら、なぜ?
何かのお礼?だが、僕が椛に感謝することこそあれ、椛から僕にお礼をするようなことがあるだろうか?夏は染谷の件、文化祭では吹部との交渉に当たっての情報収集など、僕が世話になって例はいくらでもあるが、逆に僕が椛に何かできたことは……少なくともすぐには思い至らない。では、バレンタインにおける友チョコあるいは義理チョコのようなもの?だが、だとしたら僕にだけ渡したことが説明できない。
このように考えられる可能性を1つ1つ削除していくと、どうしても残る物がある。
「そんな難しく考えなくていいんじゃない?」
それを、妹は指摘するのだ。
「好きなんだよ」
───好意。あるいはそれは贈り物という事象に沿う感情として、真っ先に思いつくものでもあるのかもしれない。僕がそれに気づかなかったのは、あるいは見て見ぬふりをしようとしたのは。
「いつもみたいに小難しいこと言ってるけど、お兄は誰かにこんな分かりやすく好きって気持ちを伝えられたことがなくて混乱してるだけだよ。あと、その混乱が分かんないから恐怖って表現するのは相手にも失礼」
「それは……」
否定できなかった。
僕はそれが勘違いだったとき、己が抱えることになるであろう惨めさがたまらなく怖い。言葉にされなかった感情に、自分で勝手に名前を付けてしまうのが怖いのだ。僕は、自分に自信があるわけではない。己の顔、体、頭脳、運動能力、性格……そう言ったものが、異性に恋愛的な意味で好かれる程の魅力があるとも思えない。だからこそ、どうしても不安が拭い切れない。
だが、もし。もしも本当に、このクッキーが由愛の言う様に椛の僕に対する好意の表れだったのなら。
椛は、僕の何を好いてくれたんだろう。




