消えた記憶
虐殺の光景を目の当たりにしていたのは真だった。
超人たちの動きについて行ける能力を持つ真だったが、結希の動きを捉える事はできていなかった。ストロボ撮影のように、時折姿を見せる結希、傷つき肉体を破壊されていく男たち。やがて、男たちの顔から血の気が抜け、崩れ落ちると、その頭部を踏みつぶして、冷たい笑みを浮かべているのは紛れもない結希だった。
やがて、立ちあがっている超人の姿は無くなり、リビングだった部屋は肉片と血が飛び散った血の池地獄さながらとなっていた。
そこに一人立つ結希の顔には、笑みが浮かび上がっていた。
結希の笑みに背筋に冷たいのを感じながら、真が結希の足元まではい寄り、すがりつくようにしながら、結希に言った。
「結希ちゃん。
正気に戻ってくれ」
真を見下ろしている結希の表情に変化があった。冷たい笑みは消え、何かに驚いたような顔つきになった。
ゆっくりと辺りを見渡したかと思うと、両手で口と鼻の辺りを覆い、ぽそりとつぶやいた。
「これは?
私がやったの?」
結希の瞳はくるくると視点が動き、彷徨い始めた。明らかに目の前の光景に焦点を合わせてはおらず、記憶の中をまさぐっているらしいと、真は感じた。
子供の頃、男の人の腕を握り潰して殺した事が、結希に大きなショックを与えた事を知っている真としては、今回の事件はそれと比較にならないほどのショックを与えるに違いない事に気づいていた。
「大丈夫だから。
これは違うから」
その声をかき消すように、結希の絶叫が響いた。
「いやぁー!」
結希は頭を抱えて、しゃがみ込んだかと思うと、そのまま倒れ込んでしまった。
血と肉の地獄の池に倒れ込んだ結希を助け出そうと、真が結希の体を抱えはしたが、体力の限界に阻まれ、それ以上の行動をとる事はできなかった。
開いてしまったパンドラの箱。
その箱の中から飛び出したものは人類に災厄をもたらす。
神は知っていたのかもしれない。超越した力を得た人間が暴走することを。
そして、その箱の中に残された物。それは本当に希望なのか?
その残された物が結希の中にだけある。ひっそりと。
少女は目を覚ました。少女の視界に映る見慣れぬ天井には、蛍光灯が白く輝いていた。
ここはどこ?
少女が辺りを見渡すとそこは小さな部屋の中だった。
少女には見覚えのない部屋。
そこに一人の見知らぬ若い男の子がいた。
目覚めた少女に気づいたその男の子が、微笑みかけている。
「ここはどこ?」
「結希ちゃん。目が覚めた」
「ゆきちゃん?」
少女にも、それが人の名前である事は分かった。
誰の名前?
私の名前?
あれ?
私の名前は?
思い出せない。
「どうしたの、結希ちゃん」
戸惑った表情を浮かべ、男の子が語りかけてきた。
ゆき。それは私の名前なのだろうか。
「ゆきって、私の名前?」
戸惑いながら、聞いてみた。
「何言ってるの。そうじゃないか。どうかしたの?」
「ゆき?」
自分の名前を全く覚えていなかった。
いや、名前どころか、どうしてここにいるのか、今までどうやって暮らして来ていたのかさえ覚えていなかった。
「本当に覚えていないの?」
男の子が心配そうな顔で言うと、こくりと頷き返した。
どうやら、この人は私の事を知っているらしい。
でも、この人は誰で、私とどう言う関係なのかも分からない。
「あの。あなたは?」
「真、河原真だよ。本当に覚えていないの?」
「うん。かわはらさんと私はどう言う関係?
兄妹?
恋人?
それともただの知り合い?」
「ふぅー」
男の子は深いため息をつきながら、天井を見上げた。
「本当の本当に、覚えていないの?
幼馴染と言うか、ずっと一緒に暮らしていたんだけど」
「幼馴染で、一緒に?
恋人で同棲していた?」
「いや、そうじゃないけど」
「私は誰で、どうやって暮らしていたの?」
知りたかった事をその人にぶつけてみた。
「名前は早川結希って言って、高校生なんだ。
ここから少し離れた街の中に大きな家があって、そこで暮らしていたんだ」
「じゃ、そこにお父さんやお母さんが?」
「ごめん。僕も君も両親はいないんだ」
「えっ? そうなの?
私に家族は?」
「今はいない」
「私って、独りぼっちなの?」
男の子はうなずいてみせた。
何だか、悲しかった。
この世に家族がいないなんて。
心細さから、そう思った少女の瞳から涙があふれて来た。
「結希ちゃん」
少女を見つめながらそう言った男の子の言葉には温かさがあった。
それを感じ取った少女は、その男の子に救いを求めようとした。
「一緒に暮らしていたって言ったよね。
これからも、一緒に暮らすのかな?」
男の子は少し戸惑った表情をした後、ゆっくりと話し始めた。
「そうだね。どこか、知らない場所で、一緒に暮らそうか?」
「どうして?
家があるんでしょ?
それに、この部屋も?」
「ああ。だけど、そうしよう」
「何か、私が何も覚えていない事と関係あるの?
私はどうして何も覚えていないの?」
「嫌なことでもあったんじゃないかな。
思い出したくないなら、思いださなくていいよ」
「でも。
ごめんなさい、ごめんなさい。
私が悪い事を」
「結希ちゃん」
男の子はそう言うと、少女をぎゅっと抱きしめた。
今の少女にとってみれば、知らない人だったが、嫌な気はしなかった。いや、それどころか心が落ち着いてきた。
きっと、記憶を失う前に頼りにしていたいい人なんだろう。
そう感じた少女は男の子の背中に、両手を回して、ぎゅっと抱きしめた。
「忘れてしまいたい事は忘れて、やり直せばいい。
でも、これだけは覚えておいて。僕はどんな時も結希ちゃんの味方さ」
「うん」
少女は自分の事が気にならなくなった訳ではなかったが、何故だかこの人の言葉を受け入れ、そう言いながらうなずいていた。
「ずっと、隠してたけど、本当はずっと前から好きだったんだ」
少女は自分自身、何だかよく分からなかったが、その瞳から涙があふれだしてきていた。
きっと、元の私は心の奥底で、その言葉を待っていたのかもしれない。
そう思った少女は小さくうなずくと、その男の子の背中にまわしている両腕に力を込めた。
自分の事を想ってくれる人の腕の中で守られた時間。
この瞬間さえあれば、他には何も無くていい。
全ての不安が消え去り、少女はこのまま時が止まってもいいと思った。
少なくとも今の少女は幸せだった。




