登校
昨夜のあの狂おしいまでの恐怖は、一体どこへ消えてしまったのだろう。
三鷹の静まり返った街路を抜け、私は吸い寄せられるように井の頭公園へと足を踏み入れた。昨夜、死の化身が蠢いていると錯覚したあの巨大な闇。けれど今夜のそれは、牙を抜かれた老犬のように大人しく、私を迎え入れている。
「……ただいま」
誰にともなく呟く。池の畔、いつものベンチ。そこはやはり、私にとっての安息の地だった。ナトリウム灯に照らされた水面は、私自身の内面を映し出す鏡のように静まり返っている。昨夜のパニックは、きっと孤独が限界まで膨れ上がって弾けた、一瞬のバグだったのだ。
けれど、安息の中にいても、私の心はどこか別の場所を求めていた。脳裏に浮かぶのは、あの「ゴミ仲間」の濁った笑い声だ。アルコールの臭い、安っぽい裂きイカの匂い。吉祥寺の駅前に行けば、またあの男に会えるかもしれない。私は煙草を一本吸い終えると、迷うことなく繁華街の方へと歩き出した。
吉祥寺駅前、昨日と同じシャッターの前。おじさんは相変わらず、薄汚れたネクタイを緩め、地面に座り込んでワンカップを煽っていた。
「おーおー、生き残ったんだな、お嬢ちゃん」
「……おじさんもね」
私はおじさんの隣に腰を下ろし、差し出された缶チューハイを煽る。おじさんは自分がかつて「まともな社会」でどんなに無能だったかを話し、私はそれを真剣に聞いていた。名前も知らない男と過ごす、目的のない時間。それは、私の心の中にあったトゲを、少しずつ丸く削っていくような不思議な感覚だった。
東の空が白み始める頃、私はおじさんと別れて三鷹の家へ向かった。アルコールが微かに残る頭の中は、奇妙に澄み渡っていた。
「……行ってみるか」
ふと、そう思った。おじさんとの対話が、私の何かに一時的なエネルギーを充填したのかもしれない。二週間、放置していた「現実」の場所へ。
家に戻ると、玄関の鍵が開く音と重なった。父だった。土気色の顔をして、作業着のまま、重い足取りで入ってくる。鉢合わせた私たちは、一瞬、お互いを異物を見るような目で見つめ合った。私は、二週間ぶりに制服に腕を通していた。金髪を隠すつもりもないが、とりあえず櫛を通した。父は、私の姿を見て、ひび割れた声を出した。
「……なんだ。今日は学校行くのか」
「まあな」
それだけ言って、私は父の脇をすり抜けた。父はそれ以上、何も言わなかった。背後で、重い溜息と、安物の煙草に火をつける音が聞こえた。あの男は、私の何を見ているのだろうか。あるいは、私の向こう側に、出ていった母の残像を追いかけているだけなのか。
三鷹から学校までの道のりは、夜とは一変して、眩暈がするほどの光に溢れていた。自転車で走り抜ける学生、整然と並んで歩くサラリーマン、掃除をする主婦。彼らは皆、「正しい時間」を生きているという確信に満ちていて、その生命力の放射が、私には毒ガスのように感じられた。
校門をくぐった瞬間、空気の色が澱んだ。
学校という場所は、醜悪だ。一歩足を踏み入れれば、そこには「平均」という名の定規を持った大人たちと、その定規に自分を合わせることに必死な子供たちがひしめき合っている。
昇降口で靴を履き替える。周囲の視線が、私の金髪に、そして二週間分の「欠落」に突き刺さる。けれど、誰も声をかけてはこない。ひそひそとした囁き声さえ、私の耳に届く前に霧散する。彼らは私を恐れているのだ。根元が黒ずんだ金髪、虚ろな目、何を考えているか分からない沈黙。それらが、彼らにとっては「関わってはいけない暴力の予感」として映っている。
教室の扉を開けると、そこには物理的な「断絶」があった。
扉が開いた瞬間、沸き立っていた教室のざわめきが、波が引くように一瞬だけ静まり返る。級友たちの視線が私を捉え、そして反射的に逸らされる。そこには嫌味も、嘲笑もない。ただ、透明な壁が一枚、私と彼らの間に建ち上がった。
私の席は、窓際の後ろから二番目。そこへ向かうまでの通路が、左右から押し寄せる「忌避」の圧力で狭く感じられた。
私が歩くたびに、列の生徒たちが無意識に身体を強張らせ、机を数センチだけ私から遠ざけるのが分かる。それは彼らにとっての本能的な自衛であり、私にとっては徹底的な排除の儀式だった。
ホームルームが始まっても、私の周囲だけは真空地帯のように静かだ。
教師の無機質な声が響く。出席確認。私の名前が呼ばれた時、教室の空気が一段と冷えた。
「……はい」
自分の声が、自分のものではないように聞こえる。ホテルの天井を見ていた時の声、公園で独り言を漏らした時の声。それらがこの清潔な教室には、あまりにも不釣り合いで、穢らわしい異物として浮き上がっている。
一時間目、数学。
黒板を叩くチョークの音が、鋭い打音となって私の鼓膜を攻撃する。整然と並んだ数字、論理、正解。それらが私を追い詰める。
級友たちは皆、その正解に辿り着くために必死にペンを動かしている。彼らは決してこちらを直視しない。けれど、私は感じていた。背中越しに、あるいは横目から、私という「理解不能なサンプル」を観察する無数の視線を。
「……あいつ、何しに来たんだよ」
そんな思考が、言葉にならずに教室中を浮遊している。
彼らにとって、私は「ヤンキー」という記号に守られた猛獣だ。何を言われるか分からない、何をされるか分からない。その恐怖が、彼らに沈黙を強いている。
誰も私を揶揄わない。誰も私に嫌味を言わない。
そのことが、何よりも私を孤独にした。
私がどんなに絶望していても、どんなに体が汚れていても、彼らには関係のないことだ。彼らにとって私は、ただの「景観を乱すノイズ」でしかない。
隣の席の女子生徒は、教科書を開く際、私の側に肘が出ないよう不自然に肩を縮めている。私が消しゴムを落としても、彼女はそれを見なかったことにするだろう。拾ってあげる優しさも、笑いものにする残酷さも、私には向けられない。ただ、私がそこに「存在しないこと」を全員が必死に演じている。
休み時間になると、教室の「普通」がさらに強調される。
グループごとに固まり、昨日のテレビの話、誰と誰が付き合ったという噂話。
私の机の周りだけが、ぽっかりと穴が空いたように無人だ。
彼らは、集団の中にいることで自分の輪郭を保っている。
私は一人でいることで、自分の輪郭を削り続けている。
廊下ですれ違う教師たちの目は、もっと酷い。
彼らは私を恐れてはいないが、ひどく面倒な「バグ」として扱っている。
腫れ物に触れるような、事務的な対応。
「……おう、来れたんだな。無理はするなよ」
その言葉の裏側にある、「問題を起こさずに早く帰れ」という本音が、私の皮膚を逆なでする。
ここは、死んだ場所だ。
いや、私が死んでいるから、ここが墓場に見えるのか。
私は、窓の外を流れる三鷹の空を眺めた。
あの夜、学校の壁に肌を擦りつけた時の感触。
あのみっともなくて、変態的な、剥き出しの自分。
それに比べれば、今ここで「お行儀よく」座っている自分の方が、よほど狂っているように思えた。
四時間目が終わるチャイムが鳴った。
昼休みの始まり。一斉に椅子を引く音、弁当を広げる匂い。その「まっとうな生活」の気配が、私の吐き気を頂点へと押し上げた。
誰一人として、私を昼食に誘う者はいない。もちろん、私の方から声をかけることもない。
私が立ち上がると、近くにいた生徒たちが、まるでモーゼが海を割るように、さっと道を空けた。
その滑稽なほどの拒絶。
その無言の「あっちへ行け」という圧力が、私の最後の糸を断ち切った。
「……っ」
私は教科書を机の中に押し込むことすら忘れて、立ち上がった。
周囲の驚いた――いや、怯えたような顔なんて見ない。
私は教室を飛び出し、廊下を全速力で駆け抜けた。
無理だ。
あそこは、私が生きる場所ではない。
明るい場所、正しい場所、未来がある場所。
そのすべてが、私を窒息させる。
校門を飛び出し、住宅街の路地へ逃げ込む。
陽光は相変わらず眩しく、私を「不正解」だと糾弾し続けている。
全力で走り抜け、家へと逃げ帰る。
リビングには、父が食い散らかしたゴミが転がっている。あの澱んだ、死んだ空気。
けれど、あの教室の酸素のない清潔さよりは、よほど呼吸がしやすかった。
私は制服を脱ぎ捨て、乱暴にパーカーを羽織った。
心臓が痛いほど脈打っている。
私は、昼間だというのに厚いカーテンを閉め切った。
早く。早く夜になってほしい。
私の異物としての存在を、私の汚れを、すべて包み隠してくれる、あの漆黒の夜が。
私はそのことだけを願いながら、真っ暗な部屋で、浅い呼吸を繰り返していた。




