闇の恐怖
三鷹の自宅を出る時、いつもより空気が重いと感じていた。
湿り気を帯びた五月の風が、金髪を濡らす。私はいつものようにリビングを抜け、夜の帳へと滑り出した。
これまでの私にとって、夜は唯一の「味方」だった。まともな生活、まともな学生、まともな娘。そういった「まとも」という名の同調圧力から私を匿ってくれる、深くて冷たいシェルター。闇の中にいる時だけ、私は自分が空っぽであることの自由を享受できた。誰の目も届かない場所で、コンクリートに肌を擦りつけ、煙草の煙に自分を溶かす。そんな普通じゃない何かこそ、夜闇だけが与えてくる特権だった。
だから、恐怖なんて感じるはずがなかった。死んでいた方がマシだと思っていたし、自分を壊すことに悦びさえ感じていたのだから。
いつものように三鷹から玉川上水沿いを歩き、吉祥寺の井の頭公園へと辿り着く。深夜三時を過ぎた公園は、もはや静寂というよりは沈黙だ。月光すら届かない池の畔、いつものベンチに深く腰を下ろす。
バッグから煙草を取り出そうとした、その時だった。
背筋の産毛が、一斉に逆立つ感覚。心臓の鼓動が、不自然なほど大きく耳の奥で跳ねる。
「……え?」
指先が凍りついたように止まった。
目の前の闇が、変質していた。これまではただの「色のない空間」だったはずの闇が、今夜は、意思を持った「質量」としてそこに存在していた。池の対岸、木々の隙間、茂みの奥。そこにある漆黒が、ずるり、と蠢いたような気がした。
それは幽霊なんて生温いものではない。もっと根源的で、異形で、巨大な何か。夜の底から這い出てくる「虚無の化身」が、私という存在を認識し、じっと獲物を見定めるように凝視している。そんな、逃げ場のない視線を感じた。
動けない。指一本、睫毛一つ動かすことができない。
脳内では「逃げろ」という信号が火花を散らしているのに、肉体はコンクリートに塗り込められたかのように硬直している。背中を冷たい汗が流れ、パーカーがじっとりと肌に張り付く。
初めてだった。闇を怖いと思ったのは。自分を飲み込む闇を、これほどまでに「忌まわしい」と感じたのは。
これまでの私は、破滅を望んでいたはずだ。いつ壊れてもいい。誰に汚されてもいい。このまま消えてしまっても構わない。そう嘯いて生きてきた。けれど、今、目の前にある「死」を想起させる恐怖を前にして、私の奥底にある本能が、激しく叫び声を上げていた。
(死にたくない)
そんな惨めな言葉が、脳裏に浮かんだ。あんなに自分を蔑ろにし、ゴミのように扱ってきたくせに。いざ、底知れない恐怖に直面した瞬間、私は無様に「生」を求めていた。
闇から、何かがこちらへ一歩踏み出したような音がした。
カサリ。その小さな音が、私の麻痺していた神経を強引に引きちぎった。
「っ……!」
次の瞬間、私はベンチを蹴るようにして立ち上がっていた。
走った。全力だった。
背後に、あの異形の何かが、長い手足を引きずりながら追いかけてくる錯覚に襲われる。振り返ったら最後、あのドロドロとした黒い渦に飲み込まれ、私のすべてが消滅してしまう。そんな予感が、私を狂わせた。
木の枝が頬を掠め、土が跳ねる。呼吸が苦しい。肺が焼ける。
公園の出口が見える。街灯のオレンジ色の光が、天国からの梯子のように見えた。
階段を駆け上がり、吉祥寺の駅前通りへと飛び出す。
明るい大通りに出た途端、魔法が解けたように、あの異様な気配は霧散した。
街灯に照らされたアスファルト、等間隔に並んだガードレール。そこには、化け物も幽霊もいやしない。
「……はぁ、……はぁ、……っ、あはは……」
私は膝を突き、喉の奥から乾いた笑いを漏らした。
分かっている。あんなものは存在しない。全部、私の脳が作り出した卑屈な錯覚だ。孤独を、自由だと思い込もうとしていた反動が、極限の孤独に耐えきれずに、恐怖という形を借りて逆流してきただけなのだ。
自虐的な納得。それでも、震えは止まらない。
私は、なるべく人がいる方向を目指した。
これまでの夜、私は人を避けて歩いていた。なのに、今の私は、他人の存在を、他人の体温を、切実なまでに求めていた。誰か、生きた人間がそこにいることを確認しなければ、またあの「自分の心が作り出した闇」に食い尽くされてしまいそうだった。
吉祥寺駅のロータリー。
深夜四時の静けさの中に、不規則な怒鳴り声が響いていた。
「おーい! こら! 待てっつうのよ!」
シャッターの降りた駅ビルの前。一人の冴えない中年男が、虚空に向かって千鳥足で叫んでいた。
おじさんは、フラフラと近づいてきた私に気づくと、焦点の合わない目を丸くした。
「おーおー……なんだ、金髪の。お前、幽霊か? 真っ白な顔してよぉ」
「……幽霊じゃない。人間」
声が震えていた。おじさんは「ははっ!」と下品に笑い、私の隣にドスンと座り込んだ。
「なんだ、お前もか? お前も、世界に見捨てられた口か?」
「……別に。ただ、ちょっと。……母親が、不倫して出ていった」
自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。
おじさんは一瞬、驚いたように私を見たが、すぐにまた「ははっ!」と笑った。
「そうか! じゃあ、俺たちは仲間だな。俺は嫁に逃げられて、会社もクビだ。このクソみたいな街に捨てられた、ゴミ仲間だ」
おじさんは、足元に置いてあったレジ袋をガサガサと漁り、もう一本の缶チューハイを取り出した。
「ほら、お嬢ちゃん。そんな顔してねえで、これ飲め。孤独にはアルコールが一番効く。お天道様が昇る前に、全部忘れちまえ」
私は躊躇した。でも、すぐに手を伸ばした。
プルタブを引くと、パシュッという軽い音が深夜のロータリーに響く。
人工的な甘味料と、喉を焼くアルコール。
「……にが」
「だろ? 人生の味だ。不味くて飲み込めねえけど、飲まなきゃやってらんねえ」
おじさんと並んで、シャッターの前に座り込む。
他人から見れば、落ちぶれたおじさんと、自堕落な不登校のヤンキー娘。滑稽で、哀れな図像に違いない。
けれど、さっきまでのあの「死」の恐怖が、アルコールの回り始めた血流と共に、少しずつ薄れていくのを感じていた。
「なあ、おじさん」
「なんだよ」
「……生きたい、なんて。思っちゃったんだよね、さっき。あんなに、どうでもいいと思ってたのに」
おじさんは、自分の缶を高く掲げ、月に向かって乾杯するような仕草をした。
「いいじゃねえか。ゴミはゴミなりに、生き汚くてもよ。どうせ最後はみんな灰だ。それまでは、こうやって夜の街を這いずり回るんだよ。俺もお前も、同じ泥船の乗組員なんだからな」
私は、おじさんのワンカップから漂う安い酒の匂いを嗅ぎながら、ようやく、冷え切った肺に深い呼吸を取り戻した。
夜は、まだ明けない。
けれど、私はもう、逃げるのをやめていた。
冷たいアスファルトの上で、私はゴミ仲間と肩を並べ、朝焼けがやってくるのを静かに待っていた。




