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夜の校舎

三鷹の空気が、じっとりと肌にまとわりつく。



 あの日以来、私の歩き方は少しだけ変わった。足の付け根の奥に、消えない違和感が根を張っている。それは痛みというよりは、体の中に「他人の一部」を置き忘れられたような、生理的な気味悪さだ。

 不登校の朝は、いつも同じ色の絶望で始まる。

 カーテンの隙間から差し込む朝日が、部屋に浮遊する埃を残酷に照らし出す。学校。制服。出席確認。それらの言葉を脳が認識した瞬間、私は布団の中に深く潜り込む。そこは、私に残された唯一の、安全で孤独な繭だった。

 夕方、父が仕事(と呼べるのかも怪しい何か)に出かける気配がする。玄関の扉が閉まる「ガチャン」という乾いた音が、私への解放の合図だ。

 私は金髪を雑にまとめると、また夜の街へ出るための準備を始める。鏡に映る自分の瞳は、以前よりもさらに色を失っているように見えた。


 今夜も私は、三鷹から吉祥寺へと続く「風の散歩道」を歩いている。


 玉川上水のせせらぎが、耳の奥で誰かの囁きのように響く。あの時、ホテルの部屋で男の指が頭皮に食い込んだ感覚。無理やり喉の奥を突かれた時の、窒息しそうな苦しみ。

 不思議なことに、思い出すたびに嫌悪感が増す一方で、妙な安心感も湧いてくる。

 私は、壊れた。

 もう、まともな人間として期待されることも、慈しまれることもない。その事実が、私を何からも自由にしてくれる気がした。

 吉祥寺駅前の喧騒を避け、私は真っ直ぐに井の頭公園へと向かう。昼間は親子連れやカップルで賑わうその場所も、深夜になれば、行き場を失った孤独な魂たちが集まる「吹き溜まり」に変わる。


 いつもの、池の畔にあるベンチに座る。

 池の水面は、街の灯りを不規則に反射させて、まるで毒々しい油膜のように揺れている。私はポケットから、あの日盗み出した父のタバコとライターを取り出した。


 カチッ、という小さな音と共に、赤い火が宿る。

 二度目の煙は、一度目ほど肺を拒絶しなかった。熱い煙が喉を通り、体温をわずかに上げる。吐き出した煙が、暗い池の表面に白く溶けていった。

「……気持ち悪い」

 呟きは、夜気に溶ける。自分の体が、ひどく中古品のように思える。あんなに簡単に、見ず知らずの男にすべてを差し出してしまった。避妊もせず、動物のように扱われ、挙句の果てに唾液まみれになって。

 けれど、あの時感じた「圧倒的な虚無」こそが、私がずっと求めていたものだったのではないか。

 私は、私という存在を愛せなかった。私という器に、何の価値も感じていなかった。だからこそ、あんな風に乱暴に扱われることで、ようやく自分の「重さ」を確認できたのだ。

 池の底には、何が沈んでいるんだろう。私も、このままこの水の中に沈んでしまえば、この「人とうまく付き合っていけない」という、喉に刺さった魚の骨のような違和感から解放されるのだろうか。

 破滅願望。それは、未来がない人間の唯一の贅沢だ。


「……帰らなきゃ」

 口ではそう言ったものの、足は家とは逆の方向を向いていた。

 三鷹の静かな住宅街を抜け、私は自分の「籍」だけが置かれている場所へと向かう。

 深夜の学校。

 

 昼間、あんなに忌々しく、息苦しい場所だった校舎が、街灯の届かない闇の中に巨大な影となってそびえ立っていた。窓ガラスが月光を跳ね返し、まるで何百もの死んだ魚の目のようにこちらを見下ろしている。

 

 正門の柵を越えようとして、私は自分の胸が奇妙な鼓動を刻んでいることに気づいた。

 恐怖ではない。

 それは、暴力的なまでの高揚感だった。

 

 昼間、私を「問題児」として、あるいは「いないもの」として扱うあの教室。そのすべてが今は死に絶え、私の支配下にあるような錯覚。

 フェンスに手をかける。金属の冷たさが心地いい。

 不法侵入。補導。退学。

 頭の中に並ぶ不吉な単語が、今の私には極上のスパイスだった。

 

「ははっ……」

 

 喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。

 闇に沈む校舎は、まるで巨大な廃墟だ。誰もいない教室。体育館。

 そこには、私が学校というシステムに感じていたあの「同調圧力」の欠片もない。


 ただのコンクリートの塊。

 その無機質な威容を見上げていると、自分がこの世界のルールから完全に逸脱したのだという実感が、甘美な痺れとなって指先まで伝わってきた。

 

 壊してやりたい。

 このまま、あの窓を全部叩き割って、自分の存在をこの真っ暗な校舎に刻みつけてやりたい。

 

 私は金髪を振り乱しながら、闇に溶けた校舎をじっと見つめ続けた。

 そこには、昼間の私には決して見せることのない、剥き出しの自由が転がっているような気がした。

 

 夜の学校は、私のためにある。


 その確信が、冷え切った心に小さな、けれど激しい火を灯した。


 昇降口の脇にある、普段は誰も見向きもしないコンクリートの壁に身を寄せた。

 ざらついた壁の感触。昼間の太陽の名残をわずかに孕んだ、湿った熱。私は周囲を警戒することもなく、その冷たい塊に自分の頬を強く押し当てた。

 

 衝動が、身体の奥からせり上がってくる。

 私は震える手でジーンズのボタンを外し、下着ごと足元まで脱ぎ捨てた。

 

 深夜、誰もいない校庭。月明かりに照らされた私の下半身は、白く、不気味なほど無防備だった。

 私はそのまま、コンクリートの壁に自分の秘部を直接、押し付けた。

 

「……っ、あ」

 

 ざらざらとした石の粒子が、繊細な粘膜を無慈悲に擦り、鋭い刺激が走る。

 痛い。でも、心地いい。

 あの日、ホテルで男に抱かれた時よりも、ずっと「確かな」感覚がそこにはあった。

 

 私は壁に体重を預け、腰をゆっくりと、執拗に動かした。

 コンクリートの硬質で冷徹な拒絶が、私の中の「空洞」を埋めていく。

 学校という、私を縛り付けてきた巨大な怪物。その一部に、自分の最も秘められた部分を擦りつけ、体液を塗りたくる。

 これは、私なりの「汚染」だ。

 

 狂気だとは分かっている。

 誰もいない暗闇の中で、全裸に近い姿で学校の壁に喘ぎ声を漏らしている私。

 けれど、この歪んだ儀式を通じて、私は初めて、この場所を自分の所有物として感じることができた。

 

 摩擦の熱が、冷え切った夜気に溶け出していく。

 私は額を壁に打ち付け、快楽と苦痛が混ざり合った呻きを漏らした。

 大量の唾液をわざと口角から垂らし、コンクリートの表面に染みを作っていく。

 

 壊してやりたいと思っていたはずの校舎が、今は私の一部を飲み込んでいる。

 自分を損なうことでしか得られない、圧倒的な自由。

 私は闇に溶けた校舎を抱きしめるようにして、いつまでもその場を離れることができなかった。

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