孤独と崩壊
三鷹の夜は、ひどく潔癖だ。
深夜二時。閑静な住宅街を貫くアスファルトは、昼間の喧騒を完全に濾過し、冷え冷えとした静寂だけを沈殿させている。等間隔に並んだ街灯が、ナトリウム色の光を無機質に路面に落とし、私の影を長く、細く、病的なほど鋭く伸ばしていた。
私はその影を、自ら踏みつけるようにして歩く。
十七歳。高校二年生という肩書きは、今の私にはサイズ違いの古着のようにひどく居心地が悪い。不登校――「行ったり行かなかったり」という、その中途半端な響きが、自分という人間の曖昧さを象徴しているようで嫌いだった。
私の髪は、地毛の黒を無理やり脱色した安っぽい金髪だ。根元が三センチほど黒く変色し始めているが、鏡を見るたびにその「境界線」が、自分の中の何かが腐っていく速度のように思えて、放置している。
家を出る前、リビングの光景を思い出す。そこには「死骸」が転がっていた。
正確には、私の父親だ。安物のカップ酒を飲み干し、つけっぱなしのテレビをBGMに、ソファで口を開けて寝入っている男。机の上には、灰が溢れんばかりの灰皿と、コンビニの割り箸。
母親が出ていったのは三年前だ。不倫相手の男と、文字通り夜逃げするように消えた。それ以来、あの男は「裏切られた被害者」という唯一のアイデンティティにしがみつき、ただ緩やかに、自分の人生を放棄し続けている。
私にとって、あの家は「生活の場」ではない。ただ、酸素が薄く、過去の幽霊が蔓延るだけの、密閉された箱だ。
だから私は、夜を歩く。肺いっぱいに冷たい夜気を吸い込み、自分がまだ「無機質な物体」ではないことを確かめるために。
三鷹駅前を通り過ぎる。
バスロータリーには一台の車両もなく、無人のエスカレーターが機械音を立てて、虚空を運び続けていた。自販機の青白い光に群がる羽虫。それを見つめていると、胸の奥がチリチリと焼けるような感覚に襲われる。
友達はいない。
教室で交わされる、意味のない笑い声や、未来についての薄っぺらな会話。そのすべてに同調できない自分を、私は「特別だ」と思いたい反面、ただの「欠陥品」だとも自覚していた。人とうまく付き合っていけないフラストレーション。それは誰かにぶつけるにはあまりにも実形がなく、ただ自分の内側を鋭く削っていく。
玉川上水沿いの「風の散歩道」に入る。左手には、暗く濁った水路が続いている。太宰治が身を投げたというその水の音は、夜になると、妙に甘く響く。「死ぬ勇気なんて、あるわけないのに」。独り言が、冷たい風にさらわれて消える。私にあるのは「死」への渇望ではなく、今この瞬間の自分を「壊してしまいたい」という、もっと卑近で汚い破滅願望だ。
やがて、街の空気が変わる。吉祥寺。
深夜でも、この街は眠りきらない。サンロードを抜け、ネオンが毒々しく明滅する繁華街の裏路地へと足を踏み入れる。ビルの隙間から漏れるカラオケの重低音、酔客の怒鳴り声、雨も降っていないのに湿った路面。ここは、三鷹の「清廉な静寂」が届かない場所だ。
路地裏の自販機の横に立っていると、一人の男が近づいてきた。
二十代半ばくらいだろうか。清潔感のあるシャツを着ているが、その瞳には獲物を探す獣特有の、濁った欲望が貼り付いている。「ねえ、お姉さん。寂しくない? 俺も今、一人なんだよね」。男の言葉は、使い古された台本のように安っぽかった。
連れて行かれたのは、ラブホテル街の片隅にある、壁の薄いビジネスホテルだった。
狭い部屋。タバコと芳香剤が混ざったような不快な匂い。
男は私の意思を確認することもなく、乱暴に私をベッドに沈めた。
「……あ」
最初に訪れたのは、屈辱よりも先に、呼吸を奪われるような圧迫感だった。
男は跪く私を冷たい目で見下ろすと、有無を言わさず、熱を持った自身の肉棒を私の口内に押し込んできた。未経験の喉が異物を拒絶し、激しくせり上がる。けれど、男は私の金髪を鷲掴みにし、逃げ場を奪うように強く固定した。
「動くなよ」
低い声と共に、男の腰が機械的に振られる。
頭蓋に響く鈍い衝撃。喉の奥を突かれるたびに、生理的な涙が溢れ、鼻の奥がツンと痛む。苦しくて、酸素を求めても、そこにあるのは男の体臭と、不快なぬめりだけだ。
溢れ出す唾液を飲み込むことも許されず、私はただ、シーツの上に大量の糸を引く唾液を吐き散らしながら、嘔吐感に耐え続けた。自分が人間ではなく、ただの便利な穴として、あるいは汚物を処理するための容器として扱われている事実に、心臓の奥が冷え切っていく。
やがて、そのまま押し倒された。
ゴムを用意する様子はない。それどころか、私の痛みに配慮する素振りすら皆無だった。
内側を無理やり抉られるような、暴力的な摩擦。
痛い。
熱い。
けれど、私は声を上げなかった。天井の隅にある小さなシミを見つめながら、私は自分の「輪郭」が、この見知らぬ男の欲望によって汚され、摩耗していくのを冷徹に観察していた。
(これでいい)
大切なものを、自分からドブに捨てる。
母親に捨てられ、父親に見捨てられた私の価値なんて、この程度だ。
男の荒い鼻息が耳元で鳴り、私の体の中に、得体の知れない熱い不快感が流れ込んでくる。それは私を「女の子」から「壊れたモノ」へと作り変えるための、呪いの儀式のように思えた。
行為が終わると、男はシャワーも浴びず、財布から千円札を数枚机に置いて、逃げるように部屋を出ていった。
残されたのは、湿ったシーツと、私の体の中に残る冷たい、得体の知れない「違和感」だけ。
私は服を着直し、鏡を見た。
金髪は乱れ、瞳は死んでいる。
私は、自分がようやく「一人の少女」という器を壊し、ただの「肉塊」に成り下がれたような気がして、薄く笑った。
ホテルを出て、私は這うようにして井の頭公園へと向かった。
午前四時。空の端が、わずかに白み始めている。
公園の池を見下ろすベンチ。私はそこに深く腰を下ろし、冷え切った手をポケットに突っ込んだ。
足の付け根に残る鈍い痛み。
自分が先ほど経験した「初体験」という名の暴力が、現実のものとしてじわじわと意識に浸透してくる。
切なかった。
けれど、それは恋が終わったとか、誰かに振られたとか、そういう可愛げのある切なさではない。もっと重く、冷たい。「私はもう、あちら側には戻れないのだ」という、確信に近い諦念。
井の頭池の水面は、真っ黒なインクを流し込んだようで、そこに映る月さえも歪んでいる。不登校になってから、ずっと自分を探していた。でも、今日見つけたのは、探し求めていた「本当の自分」なんかじゃなく、ただの「空洞」だった。
私はこのまま、夜の底を泳ぎ続ける金魚だ。金色の尾ひれを振りまきながら、誰にも気づかれず、酸素のない水の中で窒息していく。「……寒い」。呟きは、誰にも届かない。ベンチの木材の冷たさが、ジーンズ越しに伝わってくる。その冷たさだけが、今、私に寄り添ってくれる唯一の真実だった。
三鷹の自宅へ戻ると、リビングはまだ真っ暗だった。
父はソファで寝返りを打ち、いびきをかいている。机の上には、先ほどと同じ灰皿。
私は、その灰皿の隣に置かれた父親のタバコ――『セブンスター』の箱を、震える指で手に取った。父が、そして私を捨てた母が吸っていた、あの忌まわしい匂い。
私はベランダに出ると、ライターの火を灯した。
初めて吸い込む、生の煙。
「……っ、げほっ、……うっ」
肺が焼ける。心臓が跳ねる。あまりの苦しさと不味さに、涙が溢れた。
これのどこが良いのか、全く分からない。けれど、私は無理やり、もう一度煙を吸い込んだ。喉を通る熱い痛み。それは、私の体の中に残る「男の残滓」を、熱で焼き払ってくれるような気がした。
あるいは、私を捨てた両親と同じ「毒」を自分に流し込むことで、ようやく彼らの仲間入りができたという、歪んだ充足感。
紫煙が、白み始めた三鷹の空に溶けていく。
私はタバコを指に挟んだまま、朝焼けを見つめた。
今日もまた、地獄のような一日が始まる。けれど、私の心の中には、昨日の私にはなかった、新しい「暗闇」が根を下ろしていた。




