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手の中のレシートが、あまりにも軽くて、あまりにも重い。


 ワンカップ大関、スルメ、缶チューハイ。

 

 私はその白い紙切れをじっと見つめ、喉の奥からせり上がってくる乾いた笑いを抑えることができなかった。

 おじさんは、いなかった。

 私が縋り、膝を貸してもらい、頭を撫でてくれたあの中年男は、私の孤独が、私の罪悪感が、暗闇の中に投影した都合のいい「影」に過ぎなかった。

 

 おじさんが狂人だったのではない。私が、狂っていたのだ。

 

 そう自覚した瞬間、私の周囲からすべての色が剥ぎ落とされた。吉祥寺の街灯も、派手なネオンも、深夜まで営業する居酒屋の喧騒も、すべてが安っぽい舞台セットのように見えた。

 私は、自分が演出し、自分が主演を務め、自分が観客として泣いていた一人芝居の舞台に、たった一人で立ち尽くしていた。

 

 けれど、不思議なことに。

 絶望の果てに辿り着いたその場所は、驚くほど静かだった。


 私はレシートを丁寧に折り畳み、財布の奥へと仕舞い込んだ。

 幻覚だった。それは動かしがたい事実だ。けれど、あの日、私の頭を撫でたあの感触だけは、脳が作り出した電気信号だったとしても、私にとっては唯一の「真実」だった。

 

 おじさんが実在しなかったのなら。

 私を許し、「辛かったなあ」と言ってくれたのは、私自身の深層心理だったということになる。

 自分をゴミだと蔑み、汚辱にまみれて壊れようとしていた私の中に、まだ、私を抱きしめようとする「私」が残っていた。

 その事実に気づいたとき、止まっていた涙が、また一筋だけ頬を伝った。

 

 私はゆっくりと立ち上がり、吉祥寺駅の改札へと向かった。

 もう、おじさんを探す必要はない。

 おじさんはどこかへ行ったのではない。最初から、私の中にいたのだから。



 三鷹の自宅に戻ると、東の空が白み始めていた。

 

 私は自分の部屋に入り、乱れた服をすべて脱ぎ去った。

 鏡に映る自分を見る。

 ガリガリに痩せ、痣の跡が残り、土気色をした、救いようのない女子高生の姿。

 

 私は風呂場へ行き、熱いシャワーを浴びた。

 新宿の男たちの匂い、安ホテルのカビ臭さ、中絶手術のあとの血の感覚、そして自分を塗りつぶしていた金髪の染料。

 それらを丁寧に、丁寧に洗い流していく。

 

 排水溝へ流れていく濁った水を見つめながら、私は心の中で、あの名もなき赤ん坊に語りかけた。

 

(ごめんなさい。……でも、私は、もう少しだけ生きてみるよ)

 

 赤ん坊の泣き声は、もう聞こえなかった。

 ただ、シャワーの音だけが、狭い浴室に響いていた。


 数時間後。私は再び、学校の制服に身を包んだ。

 

 髪は、根元の黒い部分を隠すのをやめた。プリン状になった不恰好な頭のまま、私は家を出た。

 リビングを通るとき、帰ってきた父と目が合った。

 父は何かを言いかけ、けれど結局、何も言わずに目を逸らした。

 

 それでいいと思った。

 私たちは、お互いに欠けた人間同士、この冷え切った家で、ただ静かに「存在」しているだけでいい。

 

 学校に着き、自分の席に座る。


 以前声をかけてくれた女子生徒が、遠くから心配そうにこちらを見ていた。

 私は彼女に、微かな、本当に微かな会釈を返した。

 

 授業が始まる。

 窓から差し込む光が、私の机の上に四角い輪郭を描いている。

 

 私は教科書を開いた。

 内容なんて、やっぱり一つも頭に入ってこない。

 けれど、私はノートの端に、小さな、小さな一文字を書いた。

 

 「生」

 

 私はゴミだ。

 自分を汚し、命を捨て、幻影に縋った、救いようのないゴミだ。

 

 けれど、ゴミ箱の底には、ゴミ箱の底なりの空が見える。

 汚泥にまみれたこの手で、いつか誰かの温もりを、幻覚ではなく、本当の体温として触れられる日が来るまで。

 

 私は、この境界線の上で、息を吸い続ける。

 

 吉祥寺の街に、また夜が来る。

 けれど、今の私はもう、闇を恐れてはいない。

 

 私の中には、あの臭くて優しい、私だけの「おじさん」が、今も静かに笑っているから。


(完)

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