残香
あれから1年後、私は高校を卒業した。
吉祥寺の駅前にあるコンビニで深夜のアルバイトを始めた。
あの日、レシートを握りしめて崩れ落ちた、あの場所から目と鼻の先にある店だ。
深夜二時のコンビニは、独特の静寂と、剥き出しの蛍光灯の光に支配されている。
客足が途絶えた店内。私は棚の品出しをしながら、自動ドアが開くたびに、心臓の鼓動がわずかに跳ねるのを感じていた。
期待しているのだ。
あの、安酒の臭いをさせ、薄汚れたレジ袋を抱えた中年男が、ふらりと入ってくるのではないかと。
「よう、お嬢ちゃん。頑張ってるな」なんて、あのかすれた声で笑いかけてくれるのではないかと。
たとえ、あのレシートが「彼」の不在を証明していたとしても。
私の脳が、私の指が、自分で缶チューハイとワンカップをレジに通したのだと突きつけてきたとしても。
私はまだ、この街のどこかに、私を救ってくれた「おじさん」が実在していることを、祈るように信じたがっていた。
レジに立つと、さまざまな中年男性がやってくる。
仕事帰りの疲れたサラリーマン。夜勤明けの工事作業員。そして、おじさんのように、行き場を失ったように夜を彷徨う人々。
ある夜。
ワンカップ大関を差し出してきた男の手が、ふとおじさんの手と重なった気がした。
節くれ立ち、爪の間に汚れが溜まり、震える指先。
私は反射的に、その男の顔を覗き込んだ。けれど、そこにいたのは、死んだような目をした全くの他人だった。
その時、鼻腔をくすぐったのは、微かな「臭い」だった。
安酒と、使い古された油と、タバコのヤニ。そして、何十年も染み付いたような、生活の疲れが発酵したような、独特の体臭。
その瞬間、私は雷に打たれたような衝撃を受けた。
(……ああ、この臭い)
それは、おじさんの臭いだった。
そして同時に――それは、三鷹の家で、一度も私と目を合わせようとしない「父親」の臭いと同じだった。
気づいてしまえば、あまりにも単純な話だった。
母が不倫して出ていき、家の中で置物のようになってしまった父。
私を叱ることもなく、愛でることもなく、ただそこに「いる」だけで、私を透明な人間として扱い続けた父。
私は、あの冷え切った家で、父からの「言葉」を、父からの「肯定」を、飢えた獣のように待ち望んでいたのだ。
「大丈夫か?」
「辛かったなあ」
その言葉を、私は本当は、あの背中を丸めて食事を啜る父に言ってほしかった。
けれど、父は何も言わなかった。
だから私は、自分の孤独を極限まで薄めて、おじさんという幻覚を作り出し、そこに「理想の父性」を詰め込んだ。
私を撫でてくれたあの手。
私の不潔な過去を丸ごと受け入れてくれた、あの寛容さ。
それは、私がかつて幼い頃に、あるいは思春期の入り口で、父にしてほしかったことの集大成だった。
私は、自分を蹂躙した男たちの金で、父と同じ匂いのする酒を買い、父に似た幻影の膝で眠っていた。
あまりの切なさに、レジ横のホットスナックのケースが、視界の中で歪んでいく。
バイトの休憩中、私はコンビニの裏手で、夜空を見上げた。
三鷹の空と同じ、無関心で高い空。
私は今でも、父とまともに会話ができていない。
朝、家を出る時にすれ違い、夜、私がバイトから帰る頃に父が眠る。
同じ屋根の下、同じ血が流れているはずなのに、私たちは、あの吉祥寺の駅前ですれ違う見知らぬ他人よりもずっと遠い。
私は、おじさんという幻に、私の「初恋」のような、純粋な父への渇望をぶつけていた。
自分を売って得た金で、私は偽りの家族を買い、偽りの愛に縋っていた。
「……お父さん」
口の中で、その三文字を転がしてみる。
ひどく苦くて、酸っぱい、あの胃液のような味がした。
私が中絶したことも、大久保公園に立ったことも、きっと父は知らない。
知ろうともしないだろう。
けれど、私は今日も、父と同じ匂いがする中年男性たちに「ありがとうございました」と頭を下げる。
それは、一生届くことのない、私から父への、祈りにも似た謝罪だった。
バイトが終わる朝の五時。
私はエプロンを脱ぎ、店の外に出た。
空は白々と明け始め、街は新しい一日を迎えようとしている。
私は、おじさんがかつて座っていた、あのシャッターの前を通り過ぎる。
今はもう、そこにおじさんの姿を期待することはない。
彼が私の作り出した「透明な父」であったことを認めた今、幻影は役目を終えて、私の内側へと溶けていったからだ。
三鷹へ向かう電車の中。
窓に映る自分の顔を見る。
黒髪に戻り、少しだけ健康的な色を取り戻した頬。
けれど、その瞳の奥には、一生消えることのない「切なさ」が沈んでいる。
家に着き、玄関を開けると、父の脱ぎ捨てた靴が乱雑に転がっていた。
その靴から、微かにあの匂いがした。
私は靴を揃え、父の寝室の前を通り過ぎる。
ドアの向こうから聞こえる、重苦しい寝息。
「……ただいま」
聞こえないくらいの小さな声で、私は呟いた。
私は、これからも生きていく。
自分を汚し、命を捨て、幻に縋った過去を、決して「なかったこと」にはしない。
いつか、この喉の奥に詰まった言葉が、本当の意味で父に届く日が来るのかはわからない。
それでも、私は今日も、父と同じ匂いがするこの街で、誰かのためにレジを打ち続ける。
おじさん。
私の、もう一人の、偽物で本物の、お父さん。
私は、もう少しだけ、頑張ってみるよ。
三鷹の朝風が、私の頬を優しく撫でて通り過ぎた。
それは、あの日のおじさんの手のひらと同じ、切なくて、確かな温度を持っていた。
(物語・真終)
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