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幻想

おじさんの隣に座った瞬間、私の内側を埋め尽くしていたおりが、決壊したダムのように溢れ出した。

 

 新宿での凄惨な日々。見知らぬ男たちに肉体を切り売りし、快楽と苦痛の境界で自分を壊し続けたこと。私を蝕んでいた「命」の胎動。そして、それを自らの手で葬り去り、逃れようのない自責の念に苛まれていること。


 私は、震える声で、時折嗚咽に言葉を詰まらせながら、そのすべてを正直に話した。

 おじさんは、途中で口を挟むことも、説教をすることも、ましてや軽蔑の眼差しを向けることもなかった。

 ただ、夕闇に溶け込んでいくような静かさで、私の支離滅裂な告白をすべて聞き届けてくれた。

「……話してくれて、ありがとうな。お嬢ちゃん」

 話し終えた私に、おじさんはそう一言だけ告げた。

「辛かったなあ……。本当によく、耐えてきたな」

 その掠れた声の響きは、凍えきった私の心に、じわじわと染み渡る温かい熱のようだった。

 おじさんの節くれだった、煙草の匂いのする手が、私の色褪せた金髪をゆっくりと撫でる。

 私は、泥のような疲れに身を任せ、おじさんの膝の上に頭を預けた。

 不潔なズボンの感触、安酒の匂い。

 それが、この世界で唯一の、私に許された安息の地だった。

 私は数時間ぶりに、あの赤ん坊の泣き声を聞くことなく、深く、深く、吸い込まれるように眠りに落ちた。


 ふと目が覚めたとき、街の空気はすっかり入れ替わっていた。

 駅前を歩く人々の足取りは速くなり、酔客たちの騒がしい声が混じり始めている。夜の闇が完全に吉祥寺を支配していた。

 私は、重い頭を上げて周囲を見渡した。

 

 隣には、誰もいなかった。

 

 おじさんの姿はどこにもない。飲みかけのワンカップも、レジ袋の音も。

 ただ、座っていた場所に少しだけ体温のようなぬくもりが残っている気がしたが、それも夜風に吹かれてすぐに消えてしまった。

 

「……おじさん?」

 

 呼びかけても、喧騒が答えを飲み込む。

 もしかすると、最初からあそこに誰か座っていたなんて、私の思い込みだったのではないか。

 寂しさと虚しさが、再び胸を締め付ける。

 私は夜のベンチで独り、溢れ出す涙を拭うこともせずに泣き続けた。

 

 三鷹の自宅に帰ると、家の中は相変わらず静まり返っていた。

 暗い廊下を通るのがあれほど怖かったはずなのに、不思議と、あの赤ん坊の泣き声は聞こえなくなっていた。

 おじさんに話したことで、何かが成仏したのだろうか。

 それとも、私の脳がこれ以上の恐怖に耐えきれず、感度を摩耗させてしまったのか。



 翌日から、私の生活は表面上だけ「正常」に戻った。

 夜の散歩をやめ、昼間は学校に行くようになった。

 

 相変わらず授業の内容なんて一文字も頭に入らないし、先生の言葉は記号のように通り過ぎていく。それでも私は毎日、朝一番に自分の席に座り、終業のチャイムが鳴るまで「無」の状態で居続けた。

 クラスメイトたちは、遠巻きに私を見守るか、あるいは完全に存在しないものとして扱った。

 

 けれど、以前のような嫌悪感は沸き上がってこなかった。


 周囲がどれほど凡庸で偽善的に見えても、この世で最も醜く、悍ましく、嫌悪すべき存在は、自分自身であると知っていたからだ。

 



 ただ、時折。




 たまらなく胸が騒ぐ深夜に、私は吸い寄せられるように吉祥寺へと足を運んだ。

 

 かつての場所、おじさんがいたシャッターの前。

 けれど、やはり見つからない。

 一ヶ月、二ヶ月と時間が過ぎていくうちに、ある疑惑が私の頭をもたげ始めた。

 

(……そもそも、あのおじさんは実在したの?)

 

 暗闇から私を襲った、あの這い寄る赤ん坊と同じように。

 あまりの孤独と罪悪感に耐えきれなくなった私の脳が、自分を慰めるために作り出した、都合の良い「幻覚」だったのではないか。

 

 その考えが浮かぶたびに、私は必死に否定した。

 確かに、人の温もりがそこにはあった。

 安酒の、あの鼻を突く匂いだって覚えている。

 おじさんからもらった酒を、私は確かに飲んだのだから。


 ふと気になって、私は財布を整理し始めた。

 内ポケットの奥深くに、指先に触れる紙屑があった。

 

 財布の中身を確認し、私はその場に凍りついた。

 

 吉祥寺のコンビニのレシートが二枚。


 私には身に覚えのない「ワンカップ大関」の文字。

 「スルメ」と、私がつまみに選びそうもない品の品目。それから缶チューハイ。

 

 時間は――1枚は深夜2時を回っていた。

      もう1枚は夕方17時



 レシートの日付を確認する。

 それは、私が「おじさん」と出会い、共に酒を飲んだと思い込んでいたあの日、あの夜と、先日の夕方だった。

 

 一瞬、思考が真っ白になった。

 

 ……なぜ、私がこのレシートを持っている?

 おじさんが買ったのなら、レシートは彼が持っているはずだ。あるいは、店で捨ててくるはずだ。

 

 脳裏に、ある凄惨な仮説が浮かび上がる。

 

 深夜、誰もいないコンビニ。

 疲れ果て、目が虚ろになった金髪の女子高生が、一人でレジにワンカップを置き、自分では食べもしないスルメを買う。


 そして独り、夕暮れの駅前のベンチで酒を煽り、誰もいない隣の空間に向かって、自分の罪を独り言のように喋り続ける。

 

 私は、私の手で。

 おじさんという名の「幻」を、演じ続けていただけだった。

 

「……ああ……っ」

 

 私は、吉祥寺の街角でその場に崩れ落ちた。

 おじさんは、いなかった。

 私を肯定してくれた唯一の存在。

 「辛かったなあ」と言ってくれた、あの優しい手。

 それらはすべて、狂い始めた私の精神が、崩壊を防ぐために作り出した最後の防波堤だったのだ。

 

 私は最初から最後まで、たった一人で地獄の底を這いずっていた。

 

 握りしめたレシートのインクが、私の汗で滲んでいく。

 おじさんという名の救済を失った私は、本当の意味で、独りになった。

 

 夜の吉祥寺。

 明るすぎるネオンが、絶望に震える私の影を、アスファルトの上に無残に引き延ばしていた。

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