EP 21
新たな戦場はまな板の上に
暁の空が白む前の、午前四時。
アルニア領主館、マモルのマイホームのダイニングキッチンは、凍りつくような極限の緊迫感に包まれていた。
暗闇の中、静かに、しかし確かな殺気にも似た気迫を放ちながら、一人の大男がシステムキッチンの前に立っている。
黒のタートルネックの上に、漆黒のエプロンを纏った鬼神・龍魔呂である。
彼は無言のまま、カウンターに置かれた特製の『カスタム・レザーナイフロール』をスルスルと広げた。
中から現れたのは、シャプトン刃の黒幕(仕上砥#8000以上)で極限まで研ぎ澄まされた、本焼きの最高級和包丁の数々。
柳刃包丁(330mm)、牛刀(210mm)、三徳(170mm)、ペティナイフ(150mm)。
わずかな月明かりを反射し、妖しいまでの日本刀のような輝きを放っている。
「……シューッ」
龍魔呂は、システマの呼吸法で精神を究極の「無」へと落とし込んだ。
今日から、弟のユウがアルニアの第一小学校へ通う。
それはつまり、ユウが初めて『親(兄)の目から離れて、社会という戦場へ赴く』ことを意味している。
クラスでいじめられないか。友達ができるか。
その全ては、昼休みに開かれる『弁当』のクオリティに懸かっていると言っても過言ではない。
「……いくぞ」
龍魔呂の右手が、神速の軌道でペティナイフ(150mm)を抜き放った。
標的は、まな板の上に置かれた真っ赤なタコさんウインナー用のソーセージ。
シュラララララッ!!
カリ・シラットのトラッピング技術(超近接ナイフ格闘術)を完全に応用した、視認不可能な包丁捌き。
ウインナーの足が、ミリ単位の狂いもなく正確に八等分に切り裂かれていく。
続いて、コンロの火に点火。
フライパンの上の温度を、詠春拳の『黐手(チーサオ・接触感覚)』で完璧に読み取りながら、卵液を流し込む。
ジューッ! という音と共に、陳式太極拳の『化勁』の如き滑らかな手首の返しで、焦げ目一つない黄金色の卵焼き(出汁巻き)が錬成されていく。
「ふぅ……」
「……おい」
不意に、キッチンの入り口から声が掛かった。
寝癖をつけ、ジャージ姿で目をこすりながら起きてきたマモルである。
「お前……朝の四時から、どこの要人を暗殺する準備をしてるんだ? まな板の上のソーセージが、完全に『処刑された悪党』みたいな切り口になってるぞ」
「マモルか。……悪いな、起こしたか」
龍魔呂は包丁を置き、真剣な顔で振り返った。
その額には、地獄で閻魔と戦った時以上に濃い汗が浮かんでいる。
「これは『キャラ弁』という、現代日本における局地戦用の戦術兵器だ。ユウの小学校生活のヒエラルキーを決定づける、極めて重要なミッションなんだよ」
「……ヤクザの若頭が、本焼きの最高級包丁並べて言うセリフじゃねえな」
マモルが呆れながら、冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぐ。
「で? 一体何のキャラを作ってるんだ?」
マモルが覗き込んだまな板の上。
そこには、ピンセットを使い、海苔とチーズを顕微鏡レベルの精密さで配置している龍魔呂の姿があった。
「純白の兎……俺の相棒だ。ユウを守護する想いを込めてな。……だが、海苔で目を切り抜くのが、対物ライフルでの狙撃より難しい」
龍魔呂が、ギリッと奥歯を噛み締める。
「いや、ただの可愛いウサギさんにしてやれよ。ラビーク(ガトリング持ち)のキャラ弁なんて、周りの小学生が泣くぞ」
「なに? そうなのか……!?」
龍魔呂がガタッと肩を震わせた。
「お前な、気合いが入るのは分かるが、あんまり凄すぎる弁当を持たせると、逆にユウ君がクラスで浮くかもしれないだろ。小学生ってのは『普通に美味しい唐揚げと卵焼き』が一番嬉しいんだよ」
マモルの、教師としての的確なアドバイス。
龍魔呂はハッとして、己の手元を見た。
確かに、彼の気合いが空回りした結果、弁当箱の中には「プロの料亭が作ったような芸術的な細工寿司」のような異様なオーラが漂い始めていた。
「……そうか。俺はまた、ユウを追い詰めるところだった……」
「いや、そこまで深刻になるな。ちょっと可愛くすればいいだけだ。ほら、ケチャップ貸せ」
マモルが横からケチャップを取り上げ、黄金色の卵焼きの上に、ニコニコと笑うスマイルマークをキュキュッと描いた。
「……っ!」
龍魔呂の目が、カッと見開かれた。
「これだ……! 力み過ぎていた。武術と同じだ、自然体こそが最強の『可愛い』を生み出す……! ありがとう、マモル。これで勝てる!」
「だから誰と戦ってんだよ」
マモルの的確なツッコミを背に受けながら、龍魔呂は再び包丁を握り直した。
今度は殺気ではなく、純粋な「愛情」だけを込めて。
***
一時間後。
朝日が窓から差し込み始めた頃、二階の寝室からパタパタと小さな足音が聞こえてきた。
「ふぁぁ……お兄ちゃん、おはよぉ」
目をこすりながら、寝巻き姿のユウがダイニングに降りてくる。
その瞬間。
龍魔呂の全身から、ヤクザの若頭や暗殺者のオーラが秒速で消え去り、後光が差すような「聖母(兄)」の笑顔が展開された。
「おはよう、ユウ。よく眠れたか?」
「うんっ! あ、すごくいい匂いがする! お弁当?」
ユウがトテトテと駆け寄り、キッチンを背伸びして覗き込む。
そこには、ふっくらと握られた白米のウサギさん(目は海苔でパッチリ可愛い)と、タコさんウインナー、お星さまの形をしたニンジン、そしてマモル監修のスマイル卵焼きが、宝石箱のように綺麗に詰められていた。
「わぁぁっ!! すごい! すごいよお兄ちゃん! これ、僕の!?」
ユウの瞳が、文字通りキラキラと輝いた。
「ああ。……今日から、学校だからな。しっかり食べて、友達をたくさん作ってこい」
龍魔呂が、大きな手でユウの銀色の髪を優しく撫でる。
「うんっ! ありがとぉ、お兄ちゃん!!」
ユウが龍魔呂の腰にギュッと抱き着いた。
その光景を見ていたマモルは、フッと微笑み、麦茶を飲み干した。
地獄の底を叩き斬って連れ帰った命が、今、当たり前の朝の光の中で、小さな弁当箱一つでこんなにも無邪気に笑っている。
(……この笑顔を守るためなら、神様に土下座した甲斐もあったってもんだな)
マモルは空になったコップをシンクに置き、教師としての気合いを入れるように自分の頬をパンッと叩いた。
「よし、ユウ君。着替えたら朝メシ食って、学校に行く準備だ。アルカもそろそろ起こしてこないとな」
「はーい! マモル先生!」
アルニア領の、平穏で、騒がしくて、最高に温かい朝が始まろうとしていた。
まな板の上の激闘を制した龍魔呂は、エプロンを外し、満足げにウサギのキャラ弁の蓋を閉じた。




