EP 18
暗闇の底で見つけた光
地獄の空が、ひび割れたガラスのように崩れ落ちていく。
死のシステムを統括していた閻魔が消滅したことで、冥界の空間そのものが維持できなくなり、音を立てて崩壊を始めていた。
どんよりと淀んでいた瘴気は晴れ、裂け目からは、この世界にあるはずのない生者の世界の光が、帯のように差し込んでいる。
ザクッ、ザクッ。
賽の河原の小石を踏みしめ、龍魔呂は歩みを進めた。
巨大な真紅の機神『ラビーク』の足元。
崩れかけた石の塔の陰で、小さな影が、両手で耳を塞ぎ、ガタガタと震えながらうずくまっていた。
ボロボロの衣服。泥と血に汚れた、細く小さな手足。
そして、暗闇の中でも仄かに光を反射する、銀色の髪。
龍魔呂は、その小さな背中の前で歩みを止め、ゆっくりと、片膝をついた。
「…………」
言葉が、出なかった。
十年間、一日たりとも忘れたことのない姿。
どんなに血に塗れても、どんなに絶望に呑まれても、己の魂の底で必死に守り続けてきた、たった一つの光。
龍魔呂は、血と硝煙に塗れた己の右手を、ためらいがちに伸ばした。
これまでに数え切れないほどの命を奪い、粉砕してきた、呪われた処刑人の手。
こんな汚れた手で、この無垢な魂に触れていいのだろうか。
空中で指先が震え、躊躇いが生じた――その時。
『……おにい、ちゃん……?』
震える小さな声が、静寂に響いた。
銀髪の少年が、ゆっくりと顔を上げた。
泥だらけの頬。大きな瞳には、恐怖と、そして信じられないものを見るような驚きが浮かんでいる。
無理もない。少年が死んだ日、兄はまだ15歳の傷だらけの少年だった。
目の前にいるのは、身長190センチを超え、黒と赤のレザーに身を包んだ25歳の大男だ。
だが、それでも。
魂は、魂の形を忘れない。どれだけ歳月が流れ、外見が変わろうとも、その瞳の奥にある「絶対的な優しさ」と「温もり」を、少年が見間違えるはずがなかった。
「あ……」
龍魔呂の口から、掠れた声が漏れる。
「……ああっ……!!」
龍魔呂は、躊躇うのをやめた。
己の太い両腕で、その小さな身体を、壊れないように、だが二度と逃がさないように、力強く抱きしめた。
「お兄ちゃ……あああんっ!! お兄ちゃあああんっ!!!」
ユウが、龍魔呂の広い胸にしがみつき、声を上げて泣きじゃくった。
十年間。この暗く冷たい地獄の底で、来る日も来る日も石を積み、鬼に壊され、泣きながら兄の名を呼び続けてきたのだ。
その果てしない孤独と絶望が、涙となって溢れ出す。
「すまない……! ユウ、すまない……ッ!」
龍魔呂は、弟の銀色の髪に顔を埋め、男泣きに泣いた。
地獄の鬼を殺す時も、閻魔の『死の概念』に肉体を焼かれた時も、決して涙一つ見せなかった鬼神が、ただの「兄」に戻って声を上げて泣いていた。
「遅くなって……本当に、すまない……! 俺が、俺がもっと早く……!」
「ううん……ううんっ! お兄ちゃん……来てくれた、迎えに、来てくれたぁ……!」
冷たかったユウの身体に、龍魔呂の確かな体温が伝わっていく。
龍魔呂の目から溢れ落ちた涙が、ユウの頬の泥を洗い流し、地獄の冷たい大地に染み込んでいく。
それは、過去の呪縛が完全に解き放たれ、血塗られた処刑人『DEATH4』の魂が、本当の意味で救済された瞬間だった。
『……よかった。本当によかったね、たつまろ……!』
ラビークのコックピットの中で、雷帝神ユイが、モニター越しにその光景を見つめながら、ボロボロと嬉し涙を流していた。
「……おいおい、地獄の底で感動の再会ってのもオツだが、そろそろ潮時だぜ」
そこへ、足音を立ててマモルが歩み寄ってきた。
彼の手には、救出された他の子供たちの小さな手がしっかりと握られている。
マモルが空を見上げると、地獄の空間の崩壊はさらに速度を増していた。
空に走った亀裂から、周囲の空間がガラスの破片のように剥がれ落ち、虚無の闇へと吸い込まれていく。
閻魔というシステム管理者を失った冥界は、今まさに完全に消滅しようとしているのだ。
「ルチアナのゲートが閉まる前に、元の世界に帰るぞ。……そのガキの涙を拭いてやれ、龍魔呂」
マモルが、優しく微笑みかける。
「……ああ。そうだな」
龍魔呂は、右手の袖で自分の涙を乱暴に拭い、そして、ユウの頬の涙を優しく拭ってやった。
ユウはしゃくりあげながらも、大好きな兄の顔を見て、えへへ、と嬉しそうに笑った。
「帰ろう、ユウ。……もう二度と、絶対に離さない。俺がお前を、光の当たる場所へ連れて帰る」
龍魔呂はユウをしっかりと腕に抱きかかえ、立ち上がった。
その背筋は真っ直ぐに伸び、どこまでも誇り高く、揺るぎない。
龍魔呂が視線を向けると、機神ラビークが自動操縦で片膝をつき、搭乗を促すようにコックピットを開いた。
龍魔呂はユウを抱えたまま、一足飛びでコックピットへと乗り込む。
「ガジェット。機体を回収させてもらうぞ」
龍魔呂がインカムに告げる。
『ヒャッハー! 上等だ! ミザリーにバレる前に、とっとと要塞に引き上げさせてもらうぜ! お疲れさん、ブラザー!』
ガジェットの陽気な通信と共に、ラビークのシステムが「帰還モード」へと切り替わる。
「マモル! ランクルの運転は頼む!」
「任せろ。ペーパードライバーじゃないんでね」
マモルは子供たちをランドクルーザーの後部座席に押し込み、自らは運転席へと乗り込んだ。
キュルルルッ! ズォォォン!!
V8エンジンが、地獄の崩壊音を掻き消すように咆哮を上げる。
「しっかり捕まってろよ、ガキども。アルニア直通のジェットコースターだ!」
マモルがアクセルをベタ踏みする。
ランドクルーザーと、巨大な機神ラビークが、崩れゆく賽の河原を蹴り飛ばし、ルチアナが開いた上空の「次元のゲート」へと向かって猛烈なスピードで駆け上がっていく。
背後で、音を立てて完全に崩壊していく地獄の底。
だが、龍魔呂はもう振り返らなかった。
彼の胸の中には、温かい命の鼓動がある。失われたはずの時間が、今、彼の腕の中で確かに息づいていた。
しかし。
彼らの戦いは、まだ終わっていない。
地獄から連れ帰ったユウの魂は、このまま生者の世界へ出れば、肉体を持たないために霧散して消滅してしまう。
「待っていろ、ユウ。……俺たちが、お前の『死』を、なかったことにしてやる」
次元のトンネルを抜け、生者の世界(アルニア領)へと帰還する光の中。
龍魔呂は、弟の小さな背中を抱きしめながら、最後にして最大の「神への反逆(因果律の改変)」に向けて、強い決意を瞳に宿していた。




