EP 10
静寂なる夜想曲(第5章完)
深夜のアルニア公爵領。
大通りの喧騒はとうに静まり返り、二つの月が巨大な都市のシルエットを青白く照らし出している。
看板の明かりが落とされたBAR『鬼龍』の店内には、静謐なピアノの旋律だけが流れていた。
ショパン:『夜想曲 第20番 嬰ハ短調 遺作』。
貸し切り状態となった仄暗いカウンターの片隅に、カトウ・マモルは一人で座っていた。
いつも騒がしい居候たち(天使や竜)は家に帰し、エドガーたちも領主館へ下がらせた。今夜のこの場所には、領主としての護衛も、教師としての威厳も必要ない。
ただ一人の友人として、戦場から帰還する男を待っていた。
――ドルルルルルッ……。
店の外で、重厚なVツインエンジンの駆動音が響き、やがてフッと途切れた。
カラン、コロン……。
静かにドアが開き、夜風と、微かな硝煙の匂いを纏った龍魔呂が店内に入ってくる。
「……」
「……」
二人の間に、気の利いた「おかえり」や「ただいま」の言葉はなかった。
龍魔呂は無言のまま、カウンターの奥――マスターの定位置へと歩みを進める。
血に濡れた革手袋を外し、重いレザージャケットをハンガーに掛けた。ワインレッドのタートルネック越しにも、彼が今夜どれほどの絶望と暴力をくぐり抜けてきたのかが、その疲労しきった背中から伝わってくる。
龍魔呂はカウンターに両手をつき、小さく息を吐き出した。
そして、ポケットからいつもの『マルボロ赤』の箱を取り出す。
箱をコツコツと叩いて一本を咥えようとしたところで、ふと、その動きを止めた。
彼は視線を上げ、カウンターに座るマモルを見た。
「……吸うか?」
短い問いかけ。
合気道を嗜み、健康的な家庭菜園を趣味とする元教師のマモルは、普段は絶対にタバコなど口にしない。それを知っていての、龍魔呂なりの不器用な気遣いだった。
マモルは少しだけ目を伏せ、やがて、短く笑って頷いた。
「……たまにはな」
龍魔呂は箱からもう一本の赤マルを引き抜き、マモルへと差し出した。
マモルがそれを指に挟み、咥える。
カチャッ。
龍魔呂が、真鍮製のオイルライターを取り出した。
悪党たちにとっては死を告げる処刑の弔鐘。だが今、このカウンターで鳴るその金属音は、ただ友人に火を貸すための、ひどく静かで温かい音だった。
シュボッ。
小さなオレンジ色の炎が、暗い店内で二人の顔を照らし出す。
龍魔呂が手を添え、マモルの咥えたタバコに火を点けた。続いて、自分のタバコにも火を移し、ライターの蓋をカチン、と閉じる。
スゥゥゥ……。
マモルはゆっくりと煙を吸い込み、天井に向かって紫色の煙を細く吐き出した。
肺に染み渡る、強いニコチンとタールの苦味。
「……あぁ、旨いな」
マモルがポツリと漏らしたその言葉は、強がりでも何でもなく、心の底からの本音だった。
龍魔呂もまた、目を閉じて深く煙を吸い込み、静かに吐き出す。
ショパンの哀愁を帯びたピアノの音色と、タバコの煙が、店内の空気にゆっくりと溶け合っていく。
「……マモル。アンタは、いいのか」
不意に、龍魔呂が口を開いた。
「俺は今夜、多くの人間を殺した。法も何もない、ただの復讐鬼としてだ。アルニアの領主であるアンタが、こんな殺人鬼と酒を飲んでいていいのか」
それは、龍魔呂なりの「境界線」だった。
これ以上、表の世界を生きるマモルを、自分のドロドロとした暗黒の世界に引きずり込みたくないという拒絶の言葉。
だが、マモルは咥えタバコのまま、フッと笑った。
「言っただろ。俺は教師だ。……生徒がどんな泥沼に足を踏み入れてようが、見捨てる選択肢は最初からねえんだよ」
マモルはタバコを灰皿に置き、真っ直ぐに龍魔呂の目を見据えた。
その瞳には、かつてないほどの真剣な光が宿っている。
「龍魔呂」
「……なんだ」
「ユウ君を助ける方法は、俺に任せろ。……考えがある」
その一言に、龍魔呂の目が僅かに見開かれた。
ユウを助ける。それはつまり、「因果律を書き換える」という、神の領域への侵犯を意味する。
「……正気か、アンタ。俺の目的は単なる蘇生じゃない。ユウが地獄に堕ちたという『事実そのもの』を消し去ることだ。そんなことをすれば、世界のシステムを管理している神……アンタの家にいる駄目女神や、始祖竜を敵に回すことになるんだぞ」
「分かってる」
マモルは力強く頷いた。
「だが、理不尽な神のルールのせいで、罪のない子供が地獄で泣いてるなんて……そんな教育上よろしくないシステム、教師が認めるわけにはいかねえ」
マモルはカウンターに身を乗り出した。
「時間を巻き戻す力も、地獄の扉を開く権限も、全部俺の『家』の中にある。……俺が、あいつらを説得する。ルチアナが首を縦に振らないなら、三節根で叩き直してでも分からせてやる」
「マモル……」
「だから、お前はもう、一人で暗闇の中で引き金を引かなくていい。……ここからは、大人の喧嘩でいくぞ、龍魔呂」
それは、マモルからの確固たる「共犯」の誓いだった。
同じ日本という世界からやってきた、全く違う生き方をしてきた二人の『加藤』。
合気道で世界を真っ当に導こうとする光の男と、殺戮の業を背負い暗闇を這いずる影の男。
決して交わるはずのなかった二つの運命が、今、完全に一つに重なり合ったのだ。
龍魔呂は、じっとマモルの顔を見つめていたが――やがて、フッと自嘲するように笑い、タバコを灰皿に押し当てて消した。
「……とんでもない熱血教師に、捕まっちまったな」
「だろ? 補習は厳しいぞ」
二人の間に、初めて、対等な男同士の穏やかな笑いがこぼれた。
龍魔呂の胸の奥で、10年間ずっと凍りついていた『ゴミ捨て場』の記憶が、ほんの少しだけ、温かな光に照らされたような気がした。
「……頼む、マモル。俺に、アンタの考えに乗らせてくれ」
龍魔呂が、深く頭を下げる。
マモルは「ああ、任せとけ」と短く応え、残っていたタバコの煙をゆっくりと燻らせた。
夜のBAR『鬼龍』。
ショパンのノクターンが静かに終わりの和音を奏でる。
凄惨な暴力と絶望が吹き荒れた夜は終わり、彼らの運命はついに「神の理」へと真っ向から牙を剥く、次なるステージへと動き出した。
それは、一人の無力な弟を救うための、二人の男たちによる「世界への反逆」の始まりであった。




