EP 9
ダニー・ボーイ(鎮魂の旋律)
圧倒的な破壊の嵐が過ぎ去った地下実験施設には、硝煙と、血と、焼け焦げたコンクリートの臭いだけが淀んでいた。
静寂。
耳鳴りがするほどの静けさの中、龍魔呂の全身から噴き出していた赤黒い闘気が、まるで燃え尽きた炎のように揺らぎ、徐々にその密度を失っていく。
やがて、その禍々しい力は完全に霧散し、彼の左手に嵌められた『鬼王の指輪』の奥底へと吸い込まれていった。
ガチャン。
ガチャン。
弾を撃ち尽くし、熱を持ったままのサブマシンガンが、龍魔呂の手から滑り落ちて床に転がった。
「…………」
理性を失っていた『DEATH4』の瞳に、再び人間としての光が戻る。
正気に戻った龍魔呂は、自分の手で文字通り「更地」に変えてしまった地下施設の惨状を、一切の感情を排した目で見渡した。
魔獣キメラの巨体も、外道の神官バレリウスも、跡形もなく消し飛んでいる。
彼はゆっくりと、重い足取りで歩みを進めた。
向かった先は、破壊された培養タンクの残骸。
緑色の培養液が干上がり、ひび割れた特殊ガラスが散乱する床に、キメラの血肉に混じって、わずかに残された『銀色の髪の毛』のひと房が落ちていた。
龍魔呂は、エンジニアブーツの歩みを止め、その銀髪の前に静かに膝をついた。
(……偽物だ。分かっている)
あれは弟のユウではない。
バレリウスが過去の細胞から錬成した、ただの空っぽの器に過ぎない。
それでも。あの顔が、あの姿が、再び無残に奪われる光景は、龍魔呂の魂を削り取るには十分すぎるほど残酷だった。
龍魔呂は、血と泥に汚れた革手袋を外し、素手でその銀色の髪の毛にそっと触れた。
冷たい。何の温もりもない。
10年前のゴミ捨て場で触れた弟の頬と同じ、生命の無い冷たさだった。
『……龍魔呂』
頭上の虚空で、ホログラムの映像が微かに揺れた。
いつもなら陽気に騒ぎ立てるマッドサイエンティスト・ガジェットが、今はコーラもハンバーガーも手に持たず、ただ痛ましそうな顔で画面の向こうから親友を見下ろしていた。
『……悪党は、消えたぜ。……通信、切るな』
狂気の天才はそれだけを言い残し、自らホログラムの通信を遮断した。
今、この男に必要なのは慰めの言葉ではない。完全なる「孤独」であると分かっていたからだ。
一人残された龍魔呂は、ポケットから真鍮製のオイルライター……ではなく、鈍く光る『銀色のハーモニカ』を取り出した。
血のついた手でそれを包み込むように持ち、ゆっくりと、己の唇に当てる。
静かに、深く、息を吹き込んだ。
――ピーィ、プー、ファ……。
血塗られた地下の廃墟に、透き通るような、それでいてひどく哀愁を帯びた音色が響き渡った。
アイルランド民謡、『ロンドンデリーの歌』。
戦地へ赴く息子を想い、あるいは死に別れた愛しい者を想って歌われる、別離と鎮魂の調べ。
銀座のBARのカウンターで、彼が一人きりの夜にだけ吹くその旋律が、今はただ、理不尽な世界に弄ばれた「偽物の命」と、地獄で泣いている「本物の弟」へ向けた祈りとして紡がれていく。
外傷は何もない。
だが、彼の心からは絶えず血が流れ続けている。
その血の滴りを音符に変えるかのように、龍魔呂は目を閉じ、ただ静かにハーモニカを吹き続けた。
メロディが、廃墟の壁に反響し、夜の冷たい空気の中へ溶けていく。
涙一つ流さない。咽び泣きもしない。
ただ、圧倒的な暴力の後に残された途方もない「虚無」を、ハーモニカの音色だけが慰めていた。
……やがて。
最後の一音が、ふわりと空気に消える。
龍魔呂はハーモニカを唇から離し、再びポケットへとしまった。
そして、床に落ちていた銀髪のひと房を拾い上げると、真鍮製のオイルライターを取り出す。
カチッ。
小さな炎が、銀色の髪を包み込む。
チリチリと燃え尽きていくそれを最後まで見届けると、龍魔呂はライターの蓋を閉じ、無言で踵を返した。
ザクッ、ザクッ。
VIKTOSのブーツがガラスの破片を踏み砕く音だけを残し、龍魔呂は地下施設を後にした。
***
砦の外に出ると、アルニアの夜風が彼の火照った頬を冷たく撫でた。
そこには、彼を待つ漆黒の鉄馬『パンアメリカ(Pan America 1250 Special)』が、主の帰還を静かに待っていた。
龍魔呂はバイクに跨り、キーを回す。
水冷60度Vツインエンジンの、心臓の鼓動のような重低音が夜の闇を震わせる。
左腕のチューダー・ブラックベイの針が、深夜を回ったことを告げていた。
掃除は終わった。過去の亡霊は、今度こそ完全に灰となった。
だが、彼の本当の戦い――「過去(因果律)そのものを書き換える」という神への反逆は、まだ一歩も進んではいない。
キュオンッ!!
クラッチを繋ぎ、スロットルを捻る。
パンアメリカは一本の黒い矢となり、ルナミス帝国の国境から、マモルの待つアルニア領へと向かって疾走を始めた。
背後に残された廃墟は、やがて夜の闇に完全に呑み込まれ、見えなくなった。




