31 決心
3年前――
ハリドワール区
チョードリー宅
夕暮れ時の涼しい風が古い建物の間を吹き抜けていき、複数の大家族が暮らす近所から子どもたちの声が絶えない。それでも、奥まった場所にあるおかげでチョードリー宅は静かだった。
サビルは小柄で、亜麻色の真っ直ぐな髪を短く整え、亡き姉のナビナそっくりの太陽のような明るい笑顔を見せる30代半ばの青年だった。彼は、コックとしてこの街でレストランを経営していた。しかし、数日前から体調を崩し始めた。「とうとう自分の番が来たのか」とサビルは病院で悟った。
チョードリー家には代々遺伝的な疾患があり、ある年齢に達するとDNA欠損が始まる。一度発症すると、重度の場合は彼の姉のように出産で命を落とすことも稀ではなく、軽度の場合ですら一生薬を服用し続けなければならない。
ただし、着床前のDNA修復技術を用いた医療施術を行うことで完治可能である。しかし、この施術はヴァルナではナヴァラ・ドームシティでのみ可能だが保険適用外の非常に高額である。それ以外は第一惑星のプラカーシャに移住することで保険適用の常識的な費用で可能だが、ドームシティ居住資格を持つものが一旦惑星を離れると、厳しい身体チェックとさらなる手続費用などがかかり、最悪資格剥奪の可能性もある。
ビカシュ・ミルザは、前妻ナビナを亡くした後も、彼女の弟であるサビル・チョードリー宅を定期的に訪ねていた。彼はサビルのことを本当の弟のように気に掛けていた。それと同時に彼自身、サビルを支えることで亡き妻を思い出し、それは心の慰めになっていた。
サビルは他人思いで情に厚く、それでいて自立した男だった。彼がレストランを開いたのもこの貧困街の人たちを支えるためだった。いつしかプリヤが彼を思って宮殿のコックの仕事を充てがおうしたことがあったが、彼はきっぱり断った。プリヤは理解に苦しんだが、ビカシュは「彼はそういう男だ」と意味深に笑ってみせた。
小さなキッチンのテーブルでビカシュが深く頭を垂れて言った。
「すまない、サビル」
「ビカシュ、謝らないでくれよ。いつか発症することは分かっていたんだ。幸い症状は薬で抑えられる。ただ、シンハ・ドームシティには住めなくなるだけさ」
「知り合いの弁護士になんとか法の抜け穴を探ってもらっていたんだが……やはり遺伝的な疾患で、しかも発症してしまった場合は、法律により即時別のドームへ移住しなければならないらしい。だから、ここに8千万クレジット用意した。今はこれで──」
「ダメだ! 受け取れない。あなたには今までどれだけ良くしてもらったか。これ以上迷惑はかけられない」
サビルは彼のUNIを押し返した。
「そんな事言わないでどうか受け取ってくれ。私たちは家族じゃないか?」
「あなたはいつでもいい人間だ、ビカシュ。ナビナの死後直ぐにプリヤ王女と婚約したこと、今でも負い目を感じているのだろう? しかし、あれはアミタのために決断したことだと僕は知っているんだ」
ビカシュは驚いた目でサビルを見た。
「知っていたのか……いつから」
サビルは微笑みを見せながら言った。「最初からだよ。実はナビナとプリヤ王女との約束のことも全部知ってるんだ。あなたには話すなと言われていたんだけどね」「そうなのか……」
「アミタの出産で自分が命を落とすことを……ナビナはずっと前から知っていたんだ。だから自分の死後、アミタに完璧な人生を与えるために、必ずビカシュと結婚するようプリヤ王女に約束させたんだよね……それをあなたは後から聴かされたんだ。本当に辛かっただろう」
サビルはビカシュの手を強く握った。
「君は、そういうところまで愛するナビナにそっくりだ。約束する。何があろうとアミタが完璧な人生を送れるように、彼女の最高の父親あるように努力を続けるよ」
ビカシュがそう言うとサビルは太陽のような笑顔を見せた。
「さあ、そろそろ引っ越しの準備をしないと。と言っても、大した荷物もないんだけどね」
それから3ヶ月後――
メーラト・ドームシティ
パトナ区
サビル・チョードリーは今にも倒れそうな古い部屋の寝室で、息も絶え絶え状態でいた。彼の妻シャンティとその娘たち2人が不安そうな顔で彼を見つめていた。
シャンティは心を決めて彼の傷だらけのUNIを取り出し、ビカシュ・ミルザが残した緊急用の連絡先に触れた。
しばらくしてビカシュの顔が表示される。
「サビルか?……いや、あなたは?」
「私はサビルの妻、シャンティです。どうか、彼を助けて……」
彼女は泣き崩れてしまった。
「どうか落ち着いて! 一体サビルに何があったんですか?」
シャンティはゆっくりと落ち着きを取り戻して話した。
「現在メーラト・ドームは大変なことになっています。政府は機能せず暴動が起き……ああ、サビルに必要な薬も2週間前に届かなくなってしまって、彼はずっと寝たきり状態なの……お願い助けて」
彼女は動揺して言葉にならなかった。
「シャンティ、必ずなんとかします。彼に必要な薬の情報をこちらに送信して下さい。数時間以内に必ず届けます」
ビカシュはそう言って通話を終えると、保安部署にいる旧友に連絡をした。
「ノエル、至急潜水艇がいるんだ。いや、未登録でしかもセンサードローンにかからないタイプのものが欲しい。ああ、責任はすべて私が……頼む、ありがとう。」
1時間後──
ビカシュはサビルに必要な医薬品と食料などを有るだけかき集め、シンハラージャ宮殿の旧ドームポート(海底港)へ向かった。そこには旧友のノエル・ハリントンがセンサードローンにかからない特殊なシールドを施した潜水艇を用意してくれて彼を待っていた。
彼らは潜水艇に乗り込むと、メーラト・ドームシティに向かった。
ドームシティはほぼ壊滅状態で、なんとか施設自体は構造を維持しているが、環境システムが故障しているのか、空気は異臭を放ち蒸し暑かった。人口太陽は通常の半分程度の明るさで、時折不具合で明滅を繰り返していた。街中で暴動が起き、そこらかしこで火の手が上がっている。「ビカシュ、これは酷すぎる……」ノエルが大きな肩を落としたて呟いた。
「こんな事が起きているなんて、政府は一体何をしているんだ! しかし今は一刻も早くサビルのところへ」
「シャンティ! ビカシュです」
彼が戸口でドアを叩くと、青い顔をした30代の女性が泣きはらした顔でヨロヨロと出てきた。
彼女の表情でビカシュは理解した。
「ああ…そんな」ビカシュは膝から崩れ落ちた。
彼らが来る30分ほど前に、サビルは家族に看取られて亡くなっていた。
「ごめんなさい。私がもっと早く連絡していれば……でも彼に」
「ええ、分かっています。彼が私に連絡するのを必死で止めたのでしょう。ええ、よく知っていますとも。けれど、これで私の決心が付きました」
ビカシュが見回すと、彼の家族だけではなかった。今も、別のところから誰かの死を悼む声が聞こえている。
このドームシティの住民をなんとかしなければ。
ゆっくりと立ち上がったビカシュの決心に満ちた眼差しで、ノエル・ハリントンもすべてを理解し、共に戦うと決めて強く頷いた。




