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第8話 勘違いの卵焼き ②

「……辺境伯、妃?」


 言葉が耳を通り抜けていくのに意味が追いつかない。そんな私を置き去りにアベロは机の上の本を開いた。


 辞書のような厚み、擦り切れた革の表紙が私のトラウマを抉ってくる。


「オブセルヴィ様の妻となる者が、この地の歴史を知らぬなど許されません」


 アベロは容赦なく文字の詰まったページを私に突きつけてきた。それを見た瞬間、思わず顔をしかめて身を引く。


 文字が頭に入ってこない!


 フォリオ家にいた頃から勉強は大の苦手だった。追放されてから学びは私の人生でもっとも縁遠いものになったはずなのに。


「ちょ、ちょっと待ってください。アベロ、絶対に勘違いしています」

「見苦しい言い訳はよしてください、奥様。まずは初代辺境伯の功績から暗記していただきます」

「お願いだから話を聞いて!?」


 話がまるで通じない。壁に向かって喋っているのか私は。


 暗記なんて御免被りたいと、口から魂を飛ばしていた私の隣から小さな手がぴょんと上がった。


「僕、本って読むのはじめてやねん! お勉強って楽しそう」

「なんと熱心な……素晴らしい!」


 レイが目を輝かせて分厚い本を覗き込んでいる。上下逆さまになっているのが可愛らしい。アベロの厳格な顔も驚くほどほどけていた。


「では、レイ坊ちゃまにはこちらのバーナルリーモの歴史がわかる絵本をお貸ししましょう」

「ありがとう、アベロさん!」


 レイに絵本を渡すとアベロは私に向き直る。一瞬で元の険しい表情に戻っていた。切り替えが早すぎる。


「奥様、レイ坊ちゃまを見習ってください」

「奥様じゃないですって」

「では貴女は、旦那様のなんだと言うのです?」


 それは……と言葉に詰まる。フォリオ家を追放され、もはや貴族ではないだなんてあまり言いたくない。


 そんな私を置いてアベロは畳み掛けるように続けた。


「奥様は旦那様のどこを慕っておられるのですか? それすら答えられぬなら、お二人とも屋敷からつまみ出します。プリンもなしです」


 まずい。追い出されること自体はそれほど大きな問題ではない。いざとなれば魔法で相手を黙らせることもできる。


 けれど、隣から「ぷりん……」というか細い声を聞いてしまったらどうすることもできない。レイが今にも泣きそうな顔になっていた。


 潤んだ瞳がこちらを見つめる。プリンを人質に取るなんてあまりにも卑怯だ。


 セルヴィという彼の名を呼ぶのだってやっと慣れてきたばかりなのに……好きなところ!?


 でもやるしかなかった。愛しいレイのために覚悟を決めるしかない。私は拳に力をこめた。


 顔に熱が上がるのを自覚しながら、地の底から引きずり出すような声を出す。


「……小言は多いけど」

「けど?」

「っ、わ、私たちのことを心配してくれて」

「してくれて?」

「不器用だけど守ろうとしてくれるところ!」


 頭の中が真っ白になる。穴があったら入りたい。そんなことを考えていると、横からレイが嬉しそうに声を上げた。


「僕も言えるでぇ! セルヴィお兄ちゃん、頭いっぱい撫でてくれるから大好き!」


 レイにとどめを刺された。ピュアな追撃が私の精神的体力を完全にゼロにする。


 勘違い執事はなんだか満足げで腹が立つが、もう私には指一本動かす気力はなかった。


 ソファに沈み込む。体がそのまま溶けてしまいそうだ。


「そこまでにしなさい」


 重厚な扉が開いた。遅すぎる助けの神、セルヴィが立っている。夕食のために着替えたのだろう。ゆったりとした仕立ての良い上着を纏っていた。


 セルヴィの薄い空色の髪とは対照的に、襟元から覗く首筋が信じられないほど真っ赤に染まっている。


 彼は咳払いでなんとか誤魔化そうとしていた。


「旦那様、お仕事は終わられたのですか」


 アベロが平然と問う。セルヴィは私たちとは視線を合わせようとせず、ああ、と短く答えた。


「……夕食にしよう。アベロ、先にレイを連れてダイニングへ」

「かしこまりました。レイ坊ちゃま、参りましょう? 美味しい夕食が待っていますよ」

「わあい! 楽しみやなぁ」


 レイはアベロに手を引かれ、足取りも軽く部屋を出ていった。


 パタンと扉が閉まる。しばらく二人とも口を開くことができなかった。


「あの……さっきのは、忘れてください」

「わかっている。アベロが無礼を働いた、すまない」


 セルヴィはやはり目を合わせないまま、私の前へ歩み寄ってくる。 


 さっきアベロに言わされた言葉が勝手に脳内で再生された。私の頬に熱が集まって仕方がない。


「ユウナ、これを」


 名前を呼ばれ、私の背筋がかつてないほど伸びた。セルヴィは上着の懐へ手を入れる。


 差し出されたのは深い紺色の小さな箱だった。上品な光沢がランプの灯りを静かに跳ね返している。


 手のひらに収まるほどの大きさなのに、ひどく重たいものに見えた。


「受け取ってくれるか」


 小言を言うときの険しさでも呆れたときの表情でもない。気持ちをしまい込むように結ばれている口。


 アベロの言葉が鮮やかに蘇った。ーー未来の辺境伯妃。


(そんな、急すぎる、心臓がもたない……っ!)


 私は差し出された箱とセルヴィの顔を見つめ続けることしかできなかった。

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