第7話 勘違いの卵焼き ①
この街には風も、声も、足音も何もない。あるのはつい今しがた誰かがいたという消えかけた痕跡だけだ。
「あ、あそこ! お店、開いてるんちゃう?」
レイが一軒の建物を指差した。建物の隙間から薄い光の筋が滲み出ている。
傾いた看板に引き寄せられ、私たちはその店へ向かった。
「私が交渉しよう。二人はここで待っていなさい」
セルヴィは古びた木の扉を三度、規則正しく叩く。
「領主様?」
扉の向こうから低く掠れた声が返ってきた。内側で誰かが息を呑む気配がする。なぜか外に出ることを恐れているようだった。
がちゃりと鍵が外れ、扉がほんの指二本分だけ開く。
(おかしい)
扉の隙間の向こうで店主は固まっていた。セルヴィが名乗っても微動だにしない。彼はこの地の辺境伯だというのに。
「回収は先日していただけたと思うのですが」
「いや、今日は別の用件だ。旅の連れに食料を売ってもらえないか」
「申し訳ございません。たとえ領主様の頼みであっても、今は……何も、売れないのです」
男の声は震えていた。幾度も詫びながら、嗚咽を呑み込もうとする息遣いだけが隙間から漏れてくる。
セルヴィは何か言いかけ、それから重いため息をついた。
「わかった。無理を言って悪かったな」
鍵の閉まる音とともに、セルヴィは私たちのところへ戻ってきた。
「もう閉店のようだ。日も暮れてきたし、私の屋敷へ行かないか」
「賛成です、さすがに疲れましたからね」
「君を家に招くのは少し気が引けるんだが……」
小声でセルヴィが何かを言っているが聞こえない。
異様な街について聞きたいことはたくさんあったが、もう足が限界をむかえていた。歩き続けた私の足の裏は麻痺状態だ。
街の奥に現れた門をくぐり、広い敷地に佇む屋敷が見える。無骨な石壁が夕暮れの光を鈍く跳ね返していた。
飾り気はないのに不思議と背筋が伸びる。彼のような屋敷だ。
「お戻りをお待ちしておりました、旦那様」
「アベロ、出迎え感謝する」
屋敷の玄関に一人の男が立っていた。寸分の乱れもない燕尾服に汚れ一つない白い手袋。
そして、迷いなく私だけを射抜くオレンジ色の眼光があった。獲物を値踏みする猛禽の目をした執事だ。
「セルヴィお兄ちゃんのお家、お城みたいに大きいなぁ!」
「ただの古い屋敷だ……さあ、二人とも中へ」
レイが私の手を引きながら声を弾ませる。アベロと呼ばれた執事が屋敷の扉を開け、頭を下げていた。
「こちらがユウナとレイ。客人だ、もてなしてくれ」
「承知いたしました」
セルヴィはそう言うと、手際よく外套を脱いで執事へ渡す。屋敷のホールで私たちは足音を止めた。
「レイ、夕食のあとオミソシルのお礼をさせてくれ」
「お礼?」
「うちの執事が作るプリンは、甘くて絶品だ。ぜひ食べてほしい」
レイは「ぷりん」と呟いて、勢いよく顔を上げる。抑えられない期待が私の腕をぎゅっと掴んだ。
甘いものでレイを釣るなんて姑息な。
「そんなに美味しいん?」
「ご期待を裏切ることはないかと」
レイに返事をしながら、アベロの視線は一瞬たりとも私から離れない。
もう少し表情が柔らかければいいのだが、そこには険しさしかなかった。
「ですが旦那様。お帰りになったばかりのところ恐れ入りますが、お部屋の机が書類で埋まっております」
「夕食までに片付けよう。アベロ、その間二人を頼む」
では、また後で。セルヴィはそう言い残すと、廊下の奥へ消えていく。
一番の盾に逃げられた。残された私たちはアベロと向き合う羽目になる。
「お部屋へご案内いたします。こちらへ」
アベロは踵を返し、足音ひとつ立てずに歩き出した。彼の仕事ぶりには一切の隙がない。
「お荷物はわたくしどもにお任せを」
「すごいなぁ、魔法みたいや」
用意された部屋は隅々まで磨き上げられている。塵ひとつない。旅の荷物が白手袋の手によって整然と並べられた。
「湯浴みの準備も整っております」
レイと別れ、促されて向かった浴室には白い湯気が満ちている。温かい湯に沈むと、石のように固まっていた疲れがじわりじわりと溶け出していった。
得体の知れない街のこと、ひたすら私を睨みつけてくる執事のこと。考えなければならないことは山ほどあったけれど、全部湯船から流れていく。
さっぱりして着替えを済ませた。休憩もかねてベッドに腰掛けようとしたが、その前に部屋の扉が叩かれる。
「落ち着かれましたか。では、応接間へ」
アベロの背中を追い、重厚な応接間の扉の先ではレイが革張りのソファに座っていた。私も横に並んで座る。
執事は手を後ろで組み、私たちの正面に立った。テーブルの上にはとあるものが三つ並んでいる。
「お姉ちゃん、これ何なん?」
「ペンと紙と……分厚い本ですね」
レイは初めて見るものが珍しいのか、早速紙に線を書き殴り始めていた。
楽しそうなのはいいことなのだが、ペンと紙と鈍器のような本を揃えてすることといえば――嫌な予感しかしない。
「ランテルノ家は代々この果ての地を守り続ける、由緒正しき家」
身を固くする私の前でアベロは目を見開き、とんでもないことを言い放った。
「未来の辺境伯妃となるユウナ様。貴女にはランテルノ家の歴史を一から学んでいただきます!」
お絵描きに夢中のレイ。口から乾いた空気しか出てこない私。静まり返った部屋にアベロの声だけが反響していた。




