第52話 最果て凹凹晩ごはん ⑤
「お姉ちゃん! お姉ちゃん!!」
遠くからレイの声が聞こえる。目を開けたいのに瞼がいうことを聞かない。石になって固まってしまったみたいだ。体のどこも動かせなかった。ひどい疲労感で、このまま眠りに落ちてしまいたい。
でも、あの子が泣いてる。早く、早く目を開けてあげなくては。
「……ぅ……レ、イ……?」
かろうじて瞼を持ち上げて名前を呼ぶ。意識はまだ朦朧とし、視界も霞んだままだ。
喉の奥から水がせり上がってきて、激しくむせ返る。吐き出さなければ呼吸ができない。苦しい。顔を横に向け、かろうじて息を吸い込んだ。
「ユウナぁぁ、目ぇ覚めたぁぁ、よかったよぉぉ!」
「ホント、肝が冷えたわ! 水の中に空間魔法は使えないんだからね!」
ミルダとシャウロの声も、すぐそばから聞こえた。泉に沈んでいたはずなのに不思議と寒さは感じない。包み込む優しい熱が伝わってくる。ミルダが回復魔法でずっと温め続けてくれていたに違いない。
少しずつ周囲が明瞭になっていく。顔を歪めているセルヴィが見えてきた。感謝を伝えたくて、震える手をなんとか彼の頬へと伸ばす。
「信じて、ました……セル、ヴィ……」
「……っ! ユウナ、この馬鹿者……っ!」
私を抱きかかえるセルヴィの体はすっかりずぶ濡れだった。泉に飛び込んで助け出してくれただと、すぐにわかった。だって彼は、必ず守ると言ってくれた人だから。だから何も怖くなんてなかった。
トクサに打ち勝ったこと、レイの魔法のこと——伝えたいことは山ほどあるのに、溺れかけたせいか喉は思い通りに動いてくれない。肩を掴む彼の手には、痛むほどの力が入っていた。こらえきれず私の胸元に顔を埋める。涙を隠すように、途切れていない鼓動を聞き取ろうとするように。
「レイ」
器を捨てたトクサが、いつの間にか我が子のそばに立っていた。抜け殻となった肉体は泉のほとりに横たわっている。おそらくネレアラのことも引き上げたのだろう。
「もう寂しないか?」
「うん。僕、一人やないもん! みんなおるから、お父さんに会いにこれたで」
「そうか。よう、頑張ったな」
「ほんまに!? 僕、えらい?」
魔力の塊となった彼は触れることなどできないはずなのに、その手は確かに息子の髪に届いていた。
「お前が大きくなるまで、そばにおってやりたかったなぁ」
はにかむ我が子に、トクサはとうとう耐えきれず胸の内を吐露した。魔石となっても彼が生きていた理由がそこにあった。
あの子が父親の結界を越えて戻ってきたのも、私が望んだから。泉から生きて帰れたのも、セルヴィが祈ったから。レイが叶えるのは誰かの願いだ。
一緒に生きたいと伝えろ——なんて。あのとき、自分はずいぶん勝手なことを口にしたものだ。それは他ならぬ彼自身が、誰よりも強く望んでいたことだというのに。
「お父さん? どっか行くん?」
「レイ、いつか……また会おな。いっぱい食べて、でっかくなるんやで」
ひとしきり撫でたあと、トクサは泉のほうへと向かう。呼びかけられても振り返らず、言葉だけを返し続けていた。きっと顔を見てしまえば別れの言葉なんて出せないだろう。
レイはというと、屈託なくうん、と父に返事をした。これが永遠の別れになるなんて、露ほども気づいていない。
こみ上げる衝動に、涙が溢れてしまいそうだった。ここにいる誰もが同じように嗚咽を飲み込んでいる。誰よりも泣きたいはずの父親が──耐えているのだから。
「お月さん、でかい口叩いたんや。頼むで」
最後にトクサの言葉が私の耳へ届いた。彼の姿はアネモネの青に溶けていく。たった一枚のサクラの花びらが風に運ばれて、果ての空へと飛んでいってしまった。
♢♢♢
「わっ、うわっ……なんやこれぇ!?」
不意にレイの体が光を放ちはじめた。金の瞳が眩く明滅し、その身から溢れだしたのは泉そのものすら凌ぐほどの膨大な魔力。ふらつく足をセルヴィに支えられながら、どうにか彼のもとへたどり着く。
「魔力が暴走しているぞ!?」
「多分、力の抑えがなくなったんです」
トクサが消滅したことで封印が完全に解けたのだろう。長らく抑えこまれていたその力の扱い方、それをこの子は知らない。私は小さな手をとり、しっかりと握りしめた。
「目を閉じて深呼吸です。それはあなたの力だから、絶対に自分のものにできます!」
「う、うんっ」
魔法は心がすべてだ。ほんの少し乱れるだけで姿を変え、どれほど強大な力があろうと容易く暴発して瓦解する。
かつて有り余る力を抑えきれずにいたとき、父が魔力を同調して制御する訓練をしてくれた。不器用な人だったけれど、あの手のひらがあったから私は魔法が好きだ。多分、この子だって好きになってくれる。
「ユウナ、手を離すんだ! 君が保たない!」
だが、現実は甘くなかった。うまく同調させて力を導いてやることができない。大雑把な魔力操作のせいもあるが、総量が桁違いであることも原因だった。
セルヴィが私とレイを引き離そうとしても、ここで諦めるわけにはいかない。肌に次々と細かな傷が刻まれても、この手は離さない。
「レイ、覚えてますか?」
彼を怯えさせないように落ち着いた声で話しかける。一か八かの賭けに出るしかなかった。トクサから託されたのだ。必ずともに生きる未来を、その希望を、作り出してみせる。
「私の……みんなのお願い、叶えてほしいんです」




