第51話 最果て凹凹晩ごはん ④
水の冷たさに混濁していた意識が引き戻される。寒い。言うことを聞かない体に鞭を打った。起き上がると、目も眩む青空と純白の雲を水鏡に映した世界が広がっている。
天と地の境界線が消え去った奇妙な空間の真ん中。ここはどこなのだろう。
「おはようさん」
振り返るとトクサが立っている。足元に広がる水面に、彼の姿は映っていない。
「……なぜ突き落としたんです?」
「追っかけてくるやろ。大好きなお姉ちゃんのこと」
戦いの最中、トクサは自分もろとも泉の底に落ちた。あの子が後を追ってくると踏んでいるのだとしたら、残念。当てが外れている。
レイの周りにはミルダも、シャウロも、セルヴィもいるのだ。そんなことはさせない。なにより──。
「あの子はハクオウさんと約束したんです。ここには来ません」
「あの狸、ほんま適当なこと言いよって……封印も解くし、余計なことしよるわ」
吐き捨てるようにハクオウへ悪態をつく。レイの髪が黒く、瞳が紫だったのも、生活魔法しか使えなかったのも、すべてはトクサの封印によるものらしい。
一体なんのために。疑問は尽きないが、のほほんと聞いている時間もない。
「では、帰らせてもらいます。みんなが待っていますから」
この特異な空間はおそらく彼の魔力で作られたものだ。トクサを突破すれば脱出できるはず。
火花を散らし、雷をたぎらせて拳を突き出す。だが渾身の打撃はぬるりと流体に呑まれて、気色の悪い手応えしか返さなかった。
「自分、泉に落ちたんやで? もう死んでるって思えへんの」
「思いません」
「どっからくんの、その自信」
「最強の盾がいますから」
最強て、とケタケタ笑われる。彼は足元の水を細身の剣に変え、流れる動作で構えた。横薙ぎに走った刃が私の脇腹を襲う。
すんでのところで身を引いた。頬を掠めた刃──その冷たさが、遅れて痛みに変わる。飛び散る鮮血の動きがやけに遅い。ここにセルヴィはいないのだ。慎重に戦わなければ本当に、死ぬ。
「お月さんはレイのこと好き?」
「当たり前です」
「それなぁ、キミの意思ちゃうんやで」
剣先から放たれた斬撃。避けきれずに肩を浅く裂かれる。トクサの剣技と魔法は精緻を極めていた。一振りごとに水がまるで意思をもって形を変える。
拳で対抗するにはあまりに手数が多すぎて、彼の言葉の意味を考えることができない。
「あの子は叶えてまうんや、願えばなーんでも! 瞳がいやにキラキラしてるときあったやろ」
今度は風を裂く音すらなかった。無音のまま三方から透明な刃が迫る。ろくに狙いも定めず雷撃を飛ばし、迎撃を試みた。
粗雑な魔力操作が災いし、力任せの返り討ちで正面の一本こそ相殺したものの、残る二本への狙いが逸れる。歯を食いしばらなければ、激痛で意識を飛ばしてしまいそうだ。
「だからボクは魔石になっても死んでへんねん。あの子と同じ力をもったやつは……三日でどっかの国を滅ぼしたらしいで」
平然と話しているが、声は笑っていなかった。それが本当だとしたらレイの力は神にも等しいものではないか。
『僕がお姉ちゃんのお願い、全部叶えたる』
王都で聞いた彼の言葉。願えば取り返しのつかないことになってしまう。あのとき、そう思った自分の直感は間違いではなかった。
トクサの剣が水を纏ったまま、その切先で大きく弧を描く。全力だ。今度は一撃にすべてを込めてきたのが分かった。私も雷を纏わせ、迫る斬撃へ真正面から拳を叩きつける。雷と水がせめぎ合い、辺りに凄まじい飛沫と閃光が飛び散った。水滴が空中で輝く。鮮やかな虹色に。
「ボクは親やからな。自分の子がそないなことしてまう前に、責任もって一緒に死んでやらなあかん」
「嘘です」
水滴が集まり、渦を巻く。取り囲むように迫り、逃げ場はない。体もすくむ──けれど私は知っていた。
『レイを守ってくださいね』
いつか見た夢の中で、幸せだと感じていた彼がユウガオと交わしていた約束を。
「あなたも守ろうとしていた。だからレイと二人、果ての国まで逃げてきたんでしょう」
渦がわずかに乱れた。
「それでもあかんねや。あの子が過ぎた力でいつか狂ってまうなんて、そないなことユウガオも望んでない」
声が揺れている。今までの余裕はどこにもない。私は乱れた水の隙間へ渾身の雷を落とした。
「さっきから聞いていれば……どうしてレイのこと信じてあげられないんです?」
戦況が逆転しようとしている。水を纏う剣を弾き飛ばし、私はさらに踏み込む。
すると魔法の形が急激に変わった。鋭い針の雨となって降り注いでくる。動揺が怒りに変化しているのだろう、ぞんざいな攻撃だ。
「あなたが勝手に諦めて、あなたが勝手に恐れているだけでしょう。力を制御する術を教えてやればよかっただけです」
魔力がかつてないほどに湧き上がってくる。今まで積み重ねてきた私のすべてが、収束して、雷となって、轟く!
「所詮、魔法なんですから!」
全身から爆発的な雷光がほとばしった。トクサの水の針が届くことはない。纏った雷が圧倒的な熱量ですべてを蒸発させる。
頭の頂点から爪先まで力がみなぎっていた。今なら誰にも負ける気がしない。
「忘れてたわ、キミも住む世界違う人間やったね。神鳴り、とはよう言うたもんやな……!」
拳を握るだけで蒼穹が唸る。踏み出す一歩ごとに水面が震える。対峙したトクサの瞳に初めて恐怖の色が混じった。今の私に水でできた剣などでは掠り傷ひとつ与えられない。
それでも彼は構えた。震える足を叱咤して動かし、最後の力を剣に込めて斬りかかろうと。
「レイは優しい子です。オニギリを作って、片時もあなたから離れようとしなかった! 輝石病になってもここまで来た! それなのにあなたときたら言い訳がましく、うだうだと……」
彼にも譲れないものがある。だけど私も譲れない。あの子のことだけはお互いに一歩も引かない。
敵わないとわかっていても挑んでくるその立ち姿は、やはり父親らしかった。だからこそ手加減なんて、しない。
「レイに謝って! 頑張ったなって褒めて、一緒に生きていたいって伝えて、ちゃんと謝りなさい!!」
雷を纏った拳がやっと。やっと、トクサの顔面に届いた。轟音と共に彼の体が水の中へ沈んでいく。
彼は倒れながら笑っていた。悔しそうな、でもどこか救われたような、そんな笑みで。
「小娘が、知ったような口聞きよって。ボクやって、ボクやってなぁ……」
言葉の続きはもう聞けない。私の意識は誰かに引きずりあげられる浮遊感とともに、ぶつんと途切れてしまった。




