第5話 旅立ちのお味噌汁 ③
「ありがたく貰おう」
辺境伯はこの国では見たこともないスープを、どこか戸惑いを滲ませながら受け取った。
私もレイから手渡された木の椀を手に取る。じんわりと手のひらの芯を温めていった。するとレイからパン、と手を叩く音が聞こえる。
「いただきます!」
これは食前の祈りだろうか。細い木の棒を二本、器用に操ってレイはオミソシルを食べていた。わたしと辺境伯はスプーンで具材を口に運ぶ。
──ゴリ、シャキ。
芯の残った野菜が口いっぱいに歯ごたえを主張してくる。火が通りきっていないのだろう。
私より大きな口で具を頬張る辺境伯の口元から、野太い咀嚼音が聞こえてくる。それでも表情ひとつ乱すことなく、黙々と食べていた。
「見事な料理だ、レイ。オミソシルとやらははじめて食べるが、これほど体の奥まで温まる食事は他にない」
「よかった、みんなで食べるといつもより美味しく感じるなぁ!」
白く立ち上る湯気と腹の底から広がる温もりに、なんだか目の奥がじんとしてくる。
レイの料理は不思議だ。とうに失われたはずの味覚が、この時だけは確かに蘇る気がする。
「おかわりいる? おぶせうびお兄ちゃん」
「ああ、お言葉に甘えよう。あと……セルヴィでいい。呼びにくいだろう」
器をレイへ差し出す辺境伯の顔から、いつの間にか険しさが消えていた。声の棘が抜け、口元に薄くほほ笑みが浮かぶ。
つられてレイも笑った。
「わかった! セルヴィお兄ちゃん!」
「君もだ、ユウナ」
「えっ」
名前を呼ばれただけなのに、変に胸が波打つ。酒も飲んでいないのに、カッと頬が熱くなった。
「肩書きが好きじゃないのは私も同じということだ」
「は、はぁ。えっと、セルヴィ様?」
「セルヴィ」
彼はぴしゃりと遮り、自分の名を呼ばせようとする。意志が強いと言えば聞こえはいいが、この人は骨の髄まで頑固だ。
私と同じくらいに。
「……セルヴィ」
口からこぼれた自分の声が思ったより上擦ってしまい、慌てて顔を下に向ける。
膝の上で指先がそわそわと落ち着かない。
私の気持ちも知らずレイが「お姉ちゃん、照れてるん?」とトドメを刺してくる。やめてほしい。
セルヴィもさきほど私に散々な思いをさせられた報復とばかりに、得意満面の笑みだ。本当に恥ずかしいからやめてほしい。
ふと地面に視線を落とすと、底が見えそうになっているレイのオミソシルが揺れている。
今はこの羞恥心をかき消すくらい強い刺激が欲しかった。
ポケットから小さなガラス瓶を取り出す。中には真っ赤な粉末が詰まっていた。
蓋を開けなくてもツンとした刺激がすでに鼻の奥を突く。
「おい、ユウナ。また酒か?」
セルヴィがいち早く気づき、眉をひそめた。
「違います、秘伝のスパイスです」
「お姉ちゃん、あかんよっ!」
レイが全身で私の腕にぶら下がってくる。これは必要なスパイスなのよ、レイ!
「止めないで! ちょっとだけだから!」
「これも没収だ」
「いやぁぁ! 血も涙もないゴーレムぅぅ!」
私は瓶にしがみついたまま、地面を転がりそうになった。セルヴィの顔が引きつっている。信じられないものを見る目だった。
「さあ、そろそろ二人とも寝るといい。見張りの番は俺がしよう」
食べ終えた食器を片付けようとセルヴィが腰を上げて言う。
焚き火を呆然と見つめていた私には、彼の言葉がすぐには届かなかった。
「え? セルヴィ、帰らないんですか?」
「女と子どもを夜の森に置いて帰れるわけがないだろう」
「セルヴィお兄ちゃん、ずっと一緒にいてくれるん?」
「そうだな、明日はこの森を抜けて街へ向かう。そこで食料を買い足すといいだろう」
わぁい、とレイは屈託なく喜んでセルヴィの膝の上へ飛び込んだ。私の胃のあたりがぎりと縮んでいく。
「い、いやぁ、さすがに辺境伯様にそこまでご面倒をおかけするのは申し訳ないといいますか……」
「私は君の監視役でもあるからな」
四六時中この小言男が隣にいるなど、悪夢以外の何者でもない。
全力で拒絶の視線を叩きつけるが、鉄壁の笑顔にあっさり受け流される。
「嫌なら今すぐ引き返して、キッチンをピカピカに磨かせてもいいんだぞ? 朝から晩まで皿洗いと床磨きの刑だ。どちらがいい」
「す、すみませんでした」
こんな所帯じみた脅しがあるものか。あの傾きかけた家で一日中雑巾がけをさせられる己の姿が目に浮かぶ。
無理だ。絶対に一日ももたない。
渋々、寝るための毛布を引っ張り出し始める。背中のすぐ後ろでセルヴィの小さなため息が落ちた。
「片付けをしよう。レイ、鍋をこちらへ」
焚き火の音に交じって水の跳ねる音が混ざり始める。
セルヴィが鍋を力強くこすり洗い、レイがたどたどしい手つきで食器を布で拭いている。
「セルヴィお兄ちゃんが一緒なら、ユウナお姉ちゃんもお父さんも安心やわぁ」
レイの無邪気な声に、セルヴィの手が一瞬止まった。
彼はふっと目を伏せ、レイの頭を大きな手で不器用に撫でる。
その目は魔石を回収する任務を背負った者のそれではなく、幼い子どもを愛おしむ色をしていた。
私は毛布を頭から被り、ごろりと横になる。深く目を閉じると森の夜が静かに更けていった。




