第49話 最果て凹凹晩ごはん ②
「はよ来て? お父さん寂しいわぁ」
甘くべたついた親の声が我が子を呼び続けている。笑顔の奥から薄気味悪さが見え隠れしていた。セルヴィがかねてから感じ取っていた視線の正体、そしてサクラの下で彼と話したときに覚えたあの違和感が、今まさに現実となっている。
トクサはレイを連れ去ろうとしているのだ。深く昏い、泉の底へ。
「ダメだ、レイ!」
セルヴィは泉からあの子を引き離そうと駆け出す。だが見えない壁に阻まれ、勢いよく弾き飛ばされた。それでも瞬時に体勢を立て直し、壁を殴りつづける。拳の痛みなど眼中にないみたいに。
「いやん、結界!? 転移魔法が使えないじゃない!」
「こっち戻ってきな! 上手い話には裏があるんだよ!」
シャウロも転移魔法を試みるものの、結界に阻まれて成す術がない。ミルダはあらんかぎりの声を張り上げて呼び戻そうとしている。
誰もが懸命に足掻いていた。それなのに自分は立っていることの意味すら見出せず、その場に崩れ落ちてしまった。
「無粋な人らやね。余計なこと言わんでよろしい」
トクサがくすくす笑う。伏せていた目を上げて、私を逃すまいと捉えてくる。その口元には自分こそが選ばれるのだという自負があった。
「決めるのはあの子やねんから」
本人は身動きひとつ取れずにいた。必死に引き留める私たちと、巡り会えた実の父親との狭間で。
泉の底へレイを連れ去るなんて許せるはずがない。けれど、ずっと再会を夢見ていた父のもとへ行こうとする彼の邪魔はできなかった。父親に会わせると約束を交わしたのは他ならぬ自分なのだから。
『家族ごっこは楽しかった?』
相変わらず記憶のネレアラはうるさかった。本当の家族になれていたなら──なんて、叶いもしない夢ばかり見てしまう。
笑顔で送り出してあげなければ。安心して、この世で一人しかいない父のもとへあの子が帰れるように。「行っておいで」って言ってあげなきゃ。
「レイ──ぃ、行かない、で」
喉が痙攣する。締めつけられた声は掠れて消えた。この距離では届かない。だけど、それでよかった。届いてしまえば、優しいあの子は戻ってきてしまうから。
もう一度と思っても出てこない言葉たち。結局、何もしてやれない私は目を閉じることしかできない。弟のときと同じだ。絶望は二度目でも、やはり愛せそうになかった。
「ちょ、どこ行くん!?」
困惑したトクサの声に、ぶちぶちと植物が引きちぎられる音が重なった。ふわふわしたものが顔に何度も押し当てられる。く、くすぐったい。その場違いなほど柔らかな感触がなんなのか知りたくて、重い瞼を開けた。
「お姉ちゃん、あげる!」
眼前に青いアネモネと花がほころんだかのようなレイの笑顔が広がる。いつの間にこちらへ戻ってきていたのか。
金色の瞳がちかちかと眩しい。王都で願いを言えと迫ったときと同じ輝きだった。トクサの結界を彼はどうやって突破したのだろう。
「どこ行ってんねん! はよ戻ってきぃ!」
父親がどれだけ声を張り上げても、レイは私のそばから離れない。彼の手の中にある青いアネモネの花弁がかすかに揺れる。花言葉は確か──固い誓い。
「僕、お姉ちゃんと一緒におるって約束したもん。だからお父さんがこっち来てやぁ!」
計算外だと言いたそうに、トクサは頭を掻いていた。彼は泉の上を漂いながらこちらへと近づいてくる。
どうやら肉体が復活したわけではないらしい。ハクオウと同じだ。泉の魔力を利用し、今の彼は純粋な魔力の塊として存在している。
「まさかそっち選ぶ思わんかったわ」
「トクサさん、あなたは……」
「レイと生きたいと思てんのか、やったっけ?」
答えは薄々分かっている。でも、この人の口からはっきりと聞きたかった。もしかしたら私の考えが間違っている可能性だって、まだ残されているのかもしれないから。
「思てへんよ。レイはボクと死ななあかん」
トクサは私のかすかな願いを見抜いていたに違いない。一切の躊躇いもなくそれを踏みにじった。
「貴殿はそれでも父親なのか?」
セルヴィがいたって冷静な声色で問いかける。だが、そこに抑えていても隠しきれていない怒りが混じっているのがわかった。
「そうやで。キミはボクに協力してくれてもいいと思うんやけどなぁ」
「協力……すまないが理解しかねるな」
「領主なんやろ? このままレイを生かしてたらキミの国、滅んでまうで」
滅ぶという言葉にセルヴィの片眉がかすかに動く。トクサの真意は依然として見えなかったが、狼狽える様子を彼は微塵も見せなかった。
「戯言を。私がいる限り果ての国が滅びることはない」
「そうやろか?」
トクサはすっとかき消えた。晴れ間は失われて分厚い雲が太陽を覆い隠していく。にわかに重く沈み込む空気。身の毛もよだつ湿った気配に、私たちは取り囲まれていった。
「うわっ、誰だアンタ!」
木陰から飛び出してきた影をミルダが短剣で弾く。その男は焦点の定まらないうつろな瞳で、口から涎を垂らしていた。意思を感じない動きで長剣を闇雲に薙ぎ払っている。嫌味なほど仕立ての良い服に、私は覚えがあった。
「ネレアラの従者です! どうしてここに!?」
さらに、ミルダの近くにいたシャウロへ襲いかかる男の姿も目に入る。元婚約者様だ。いつもならよく回る口を一切開かず、無言のまま魔法で攻撃を仕掛けてくる。
「ちょっと、領主様ぁ! ネレアラもいるんだけど!」
「森から追い出したはずだぞ……?」
本来ならここにいないはずの二人が、なぜ。加えて明らかに異様な雰囲気だ。だが残念なことに、今の私たちはその理由を詮索していられない。
「とにかく今は迎え撃ちましょう!」




