第48話 最果て凹凹晩ごはん ①
自分の耳を疑った。冗談だとしても軽く流せるものではない。引き返すというのか、ここまで来て。
セルヴィがふざけたことを言う人間ではないことも、向ける目が本気であることも、痛いほど伝わってくる。それでも何かの間違いだと思いたかった。
「笑えませんよ……あなたは果ての国の民を助けるんじゃなかったんです?」
旅に出る前、互いの決意を確かめ合ったあの日。そこにあったはずの彼の思いが、どこを探しても見当たらない。
「アネモネの泉は確かに存在した。レイだって病を克服した。だったら、輝石病の治療法もきっと見つけられるはずだ」
セルヴィの手の中で、取り上げられたトクサの魔石がぼんやりと光を放っている。隣に立つレイが不安げに私を見上げていた。
頭にかかったもやが濃くて落ち着かない。彼だって、考えなしにこんなことを言い出したわけじゃないはずだ。
「約束は……? この子のお父様はどうなるんです」
「この状態で息を吹き返すことなんてない」
「──っ、返して!」
かっと頭に血が上り、セルヴィに詰め寄る。一番言われたくなかった言葉だった。そんなことは百も承知だ。だからこそ、私たちは奇跡の泉を目指したんじゃなかったのか。
お姉ちゃん、とレイが呼びかける声さえ遠い。石を取り戻そうと伸ばした手は、高く上げられた腕に届かない。
「レイは強い子だ。父親のことも、祖父のことも、きっと受け入れられる」
「返してくださいよ! なんで、なんで急に、そんなこと……っ!?」
これまでの旅の間、セルヴィも私と同じ思いでいてくれていると信じてやまなかった。裏切られるなんて思いもしなかった。
必死にしがみついても返してくれない。いつもの彼なら、ため息をついて、しょうがないなって言ってくれるのに。
だが、無情にも魔石は遠くへ放り投げられた。青いアネモネに呑まれ、一瞬の光を残し、どこへ落ちたのかもわからない。私の、レイの、希望が消えてしまう。
「離して! セルヴィ、セルヴィ! いやあっ!!」
「バーナルリーモに帰ろう! お願いだ、ユウナ……!」
アネモネの花畑へ飛び込みたいのに、セルヴィに押さえ込まれて身動きが取れない。気が動転して、魔力をうまく練ることができなかった。
どうして離してくれないの。どうしてあなたのほうが、また泣きそうな顔をしているの。泣きたいのは私のほうなのに!
「領主様、そこまでにしなさい?」
シャウロがセルヴィの腕から私を解き放ってくれた。足元がふらつくのを、ミルダがそっと肩を抱いて支えてくれる。
「そーだそーだ、言葉足らずだよ。ユウナが混乱しちまうだろ」
そう言って、彼女は花畑の奥から魔石を拾い上げて戻ってきた。ほら、と私の手に握らせてくれると、それはまだかすかに光を灯していた。
それを受け取るのを見届けたセルヴィは眉を下げ、静かに目を伏せた。
「ユウナ、領主様は別に意地悪をしているわけじゃないわ。ただ、変なのよ、ここ」
「……変?」
「水辺に魚一匹どころか、生き物の気配すらしない。こういうときは大抵、毒があるもんだ」
「ミルダの言う通りよ。しかも、泉からこれだけ魔力が吹き出しているのに魔物一匹寄ってこないのもおかしいわ」
生き物がいない。魔物すら寄りつかない。奇跡の泉、私たちの希望。それがやはり偽物で、誰かの仕掛けた罠かもしれないということ?
ちゃんと自分の口でも言いなさいよ、とシャウロに背中を思い切り叩かれ、セルヴィは気まずそうに口を開く。
「……誰かの視線を感じる。泉に近づくほど異様な魔力とともにそれが強くなって、君とレイをずっと見ているんだ」
「ずっと? 今もなんです?」
「ああ。泉の魔力が充満しすぎて場所は特定できないが、その魔力には明確な──殺意がある」
ぞわ、と逆立つような悪寒が走った。とっさにレイを抱きすくめ、周囲を見回す。見えるのはアネモネと凪いだ水面だけだ。私たち以外の気配はない。
泉から溢れ出る圧倒的な濃度のせいで、こちらの魔力探知が完全に潰されている。この状態で死角から襲われたら、命はない。
「君たちの約束はわかっている。その石にどれほどの希望を託してきたのかも。だが、君たちの身に何かあったら……私は」
セルヴィの足元にレイが歩み寄っていく。両手を伸ばして屈んでほしいとせがむとセルヴィの頭を撫ではじめた。よしよし、といつも自分がされているのと同じ、優しい手つきで。
「お兄ちゃん、帰ろか。みんなで」
「……いいのか?」
「僕、お姉ちゃんとお兄ちゃんと、みんながおったらええもん」
その言葉にセルヴィは動けなくなってしまった。振り向いたレイは私にも笑いかけてくる。その顔から目をそらすことができない。
「でも約束したのに……」
「うん、した」
「えっ?」
「僕のこと一人にせえへんって」
──あなたを一人になんてしません。
彼と初めて出会ったとき、弟を失った私が今度こそ守ると誓った。あの日言葉を、ずっと、ずっとお守りのように握りしめて旅をしてくれていた子。
私もその手を握り返してやりたい。膝をつきながらも、這うようにしてレイに近づいていこうとしたときだった。
「な、なんです?」
「光ってるよ、ユウナ!?」
手の中で魔石が突然強い光を放ちはじめた。ミルダが短剣を構える。光はそこからするりと抜け出し、泉のほうへと向かっていく。
「誰かいるわ!」
シャウロが泉のほうに目を向けた。見覚えのある影だ。お月さん、と私を呼ぶ声がする。そんな呼び方をするのは一人しかいない。
盛り上がった水面から姿が露わになる。日向かしの服をまとった黒い髪を揺らす男。
「約束、ちゃんと守ってくれてありがとうね」
トクサだ。彼は軽く手を振って挨拶してくる。ハクオウに勘違いされていたセルヴィは、目の前に佇む男がレイの父親なのかと驚きを隠せずにいた。
「久しぶりやなぁ、レイ」
離れていた時間の長さを感じさせない、変わらない声色にレイは息を呑んでいる。父親がにこ、と笑いかければ、久しぶりに言葉を交わせる喜びに全身を震わせた。
「お父さん! 僕、僕なぁ、めっちゃ会いたかってんで!」
「ほうか、ほうか。じゃあ、こっちおいで? お母さんも待ってるさかい」
トクサは自分の立つ場所へと手招きする。最愛の父のもとへあの子を連れて行ってやりたい。けれど、それだけは絶対にできなかった。彼が立っているのは泉の水面なのだから。




