第43話 再誕の桜茶 ⑤
レイは右腕を慌てて袖の中に引っ込める。動きがぎこちなくて、痛みを堪えているのは明らかだった。それでもこの子は必死に引き攣った笑顔を作る。私に気取られまいと。
「ううん。僕、そんなんなってないよ」
鼻の奥が痛い。顔の筋肉に無理やり力を込めて平気なふりをする。泣くのは私じゃない。ここで今、私は泣いている場合じゃない。
「レイ、私。あなたと初めて会ったとき──もう食事なんていらなかったの。はやく弟のところへいきたかった」
「お姉ちゃん……?」
前触れもなく話し始めた私に、レイは戸惑っている。それでも伝えなければきっと後悔するだろう。セルヴィは何も言わずに見守ってくれていた。
「でもレイが作ってくれたごはん、全部覚えてます。オミソシルは具に火が通ってないし、タマゴヤキは焦げちゃうし、ヨセナベは辛すぎてみんなで泣いたし。スキヤキはお肉を争って、ミタラシダンゴはうまく丸くならなくて」
日向かしの国の料理は、どれも不格好で温かかった。失った味覚が戻ってきたのはきっと美味しかったからだけじゃない。彼が不器用な小さい手で私のために作ってくれたからだ。
みんなで調理して食べた晩ごはん。あの時間のすべてが愛おしかった。
「あなたがオニギリを作ってくれたから。あなたのオニギリを食べたから──私は生きていこうって思えました」
レイはいつだって希望を与えてくれた。彼だけではない、たくさんの人に支えられて私はここまで来た。
言葉をどれだけ重ねても足りない感謝は、果たして伝わっているだろうか。頬に伝う雫を乱暴に手の甲で拭う。
「レイ、お願いがあるんです」
「うん」
消え入りそうな返事。隠していたことが悟られていることを本能的に察知しているのだろう。
彼は王都でどんな願いでも叶えてみせると言ってくれた。その言葉を信じて私は腕を広げる。
「あなたを抱きしめさせてください」
時が止まったような夜の静寂。ひっく、という嗚咽がそれを破った。しゃくりあげながら、ふらつく足でレイが近づいてくる。伸ばされた腕の袖がまくり上がり、右腕全体が魔石に覆われているのが露わになった。
もう、待てない。耐えられなくて小さな体を引き寄せる。レイは私の腕の中でやっと声を上げて泣き始めた。
「いたいぃ! お姉ちゃん……っ、僕、腕、ずっといたいんよぉ!」
慟哭が自分の体に突き刺さってくる。痛みによる高熱でレイの体は悲鳴を上げていた。
「レイ、レイ……っ」
「こわいよっ、僕、お姉ちゃん! お姉ちゃん!」
ただ名前を呼んで、抱きしめてやることしかできなかった。この子はまだ四歳だ。どれだけ怖かっただろう。日に日に自分の体が石に侵され、痛みの中で自由が奪われていく恐怖に彼は耐え続けて。
レイを守るとあれだけ誓ったのに、何もしてやることができない自分が情けなかった。
「ユウナ!」
外の異変に気づいてくれたミルダが走ってくる。輝石病にかかってしまった人間の近くに、魔力の低い彼女が近づけば感染してしまうかもしれない。その場にとどめようとしたが、ミルダは足を止めなかった。
「大丈夫だから。ウチが使える魔法、知ってるだろ?」
「回復魔法……?」
「そ。ウチの魔力はへなちょこだけどさ、この手の病気だけはなぜか寄りつかないんだよね」
ずっとラビの看病もしてたじゃん、と彼女は白い歯を見せて笑う。聖女の魔法がどれだけ常識外れか、考えている余裕はなかった。今はミルダの回復魔法しか縋るものがない。
お願い、ミルダと心の中で祈る。
「初期ならなんとかできるはずだ。レイ、もうちょっとの我慢だよ」
ミルダはレイの魔石化した患部に触れて魔力を流し込んだ。赤い光が彼女の手のひらから溢れて細い腕を包んでいく。
「あぐっ……」
魔石の表面がきしむ音を立て、レイが息も絶え絶えに声を漏らす。限界まで魔力を放出しているミルダの顔からはだらだらと汗が流れ、瞬きすらしていなかった。
たった数秒。生きた心地がしない。すると、優しく包み込む魔力が抱きしめている私にまで伝わってきた。レイの顔にも血の気が戻ってくる。
「熱が、引いています!」
「腕も、痛なくなったわ……」
おでこに手を当てると、さっきまで高かった熱が穏やかになっていた。痛みも消えて、ほっとしたのかレイは顔をうずめてくる。
「ありがとう、ミルダ」
「お互い様だろ? ユウナもラビに似たようなことしてくれたじゃないか」
痛みも熱もなくなったレイは私の腕の中でいつの間にか眠りについていた。発熱の汗で額に張り付いた彼の前髪をミルダは整える。
「ウチにもうちょっと魔力があれば、ちゃんと治してやれたのかね……」
その言葉はレイに向けたものでもあり、もう戻らないラビに向けたものでもあるように思えた。魔法を使った自身の手を、悔しそうに見つめている。
「戻ろう。離れでレイを休ませてやらないと」
腕の中で眠るレイをセルヴィに託す。彼を抱き上げたセルヴィは離れへ続く道を歩き始めた。慌ててその背を追いかける。
よかった、もう苦しくなさそうだ。私はレイの穏やかな寝息に耳を澄ませていた。




