第3話 旅立ちのお味噌汁 ①
家を出て、まずは街へ向かった。旅慣れていない私たちはまず必要なものを買い揃えなければならない。
荷物は荷車を魔法で動かしているから問題ないが、日が落ちるまでに街へ辿り着けなかった。
木々の隙間から差し込む月光が地面を点々と白で染めている。静まりかえった夜の森で、私たちは野営をすることにした。
「お姉ちゃん、今日の晩御飯はお味噌汁やで!」
レイの声が夜の森に響いた。私の目の前には小さな焚き火と、いびつな形をした鉄の鍋がある。
旅の荷物の中から死守してきた鍋を両腕で抱え、レイは得意げに胸を張った。
私は手元のガラス瓶を傾け、琥珀色の酒を喉に流し込む。焼けるような熱が胸の奥まで真っ直ぐに落ちていった。
「オミソシルですか。楽しみですね」
「うん! これ食べたら、お腹もほっこりやで」
小さな両手をぐっと握りしめ、レイは鼻息を荒くしている。日向かしの国の服の袖を不器用な手つきで何度もまくり上げていた。
その様子を眺めながら、私は腰に下げたポーチの重みにそっと触れる。硬く冷たいレイの父親の魔石。その輪郭が手のひらに沈む。
私はもう一口酒を煽った。辛いものが欲しい……。
「そのオミソシルに私の持っている秘伝のスパイスを加えたら、もっと美味しくなると思いません?」
「あかん! そんな真っ赤っかなん入れたらお味噌汁じゃなくなる!」
レイは顔を真っ赤にして怒った。小さな人差し指が私に向かって突き立てられる。
「お姉ちゃん、辛いもんばっかりやん。めっ、やで!」
「えぇー、ケチなんですから」
そんなほっぺを膨らませて私を睨むのは反則だ。かわいい……。街に着いたらたくさん料理道具を買ってあげよう。
レイは再び鍋に向かい、真剣な目つきで水を注ぎ始める。ふと脳裏に昨晩のキッチンの光景が浮かんだ。
逃げるように荷物を詰め込み、飛び出してきた私たち。シンクには汚れた食器が重なり、床には食材のかけらが散らばったままだ。
散らかしたままのキッチンのことを思い出し、気まずさがじわりと這い上がってくる。
「まあ、いいですよね」
家の手入れをしてくれていた辺境伯が怒るかもしれないが、しばらく戻る予定もない。会うこともないだろうから考えるだけ無駄だ。
私は三口目の酒を飲もうとした。
その瞬間、気配を察知して振り返るよりも早く衝撃が頭頂部を直撃する。
「いだだだだ! 首が、首がぁ!」
手袋越しでも分かる尋常ではない怒気と魔力が籠った指先が、容赦なく私の頭を掴んでいた。
「見つけたぞ、ユウナ・フォリオ子爵令嬢……!」
聞き覚えのある生真面目な声が頭から落ちてくる。元とはいえ令嬢になんてことするんだ、この人は。
「今は、ただのユウナですって……いででで」
「酒をっ、飲むなとっ、何度言えば理解するんだ!」
頭の拘束が解かれ、私はようやく振り返る。そこに立っていたのは、肩で息をするオブセルヴィ辺境伯だった。
「それに、あの部屋の惨状は何だ! 賊が押し入ったかと思って、探せば君は姿を消しているし……」
果ての国の辺境伯たる彼が上質な外套を汚し、前髪を汗で額に張りつかせている。
心配しているのか、片付けの不始末に怒り心頭なのか、その両方が入り混じったように表情が歪んでいた。
「申し訳ございません、オブセルヴィ様。散歩に行きたくなりまして」
「この荷物で? キッチンの片付けもせずに?」
私は頭をさすりながら、聞こえないように文句を言い続けた。辺境伯も言い返そうと口を開いたが、そのまま石になった。
彼の視線が私の背後へと向けられる。そこにはオミソシルの鍋を両手で抱えたまま、怯えてしまったレイが縮こまっていた。
「お兄ちゃん、誰ぇ?」
「私はオブセルヴィ・ランテルノだが……き、君は」
「僕はレイ! よろしく、おぶせうびお兄ちゃん」
彼の名前をうまく言えないレイ。ああ、かわいい。
だが、辺境伯の瞳が急速に激しく揺れていた。姿を消した私と、見慣れない黒髪の子供。
彼の頭の中で最悪の歯車がかみ合っていくのが分かる。顔色が赤から青へめまぐるしく変わっていった。
「私が部屋を片付けた時に子どもなどいなかった……ま、まさか、君、隠し子がいたのか!?」
夜の森に、裏返った絶叫が木霊した。
「はあぁぁ!?」
あまりの馬鹿馬鹿しさに今度は私が声を荒らげる番だった。
「私まだ十七ですよ! あり得ないでしょう!?」
「た、確かに、君の父君からこのようなことは聞いていない……年齢的にも辻褄が」
辺境伯は頭を抱え、ぶつぶつと虚空に向かって呟き始めた。その生真面目すぎる狼狽ぶりに私はただただ呆れるしかない。
勝手に思い詰めて青ざめる辺境伯を無視し、私は立ち上がった。嫌な予感がして、ポーチの上から魔石を手で押さえる。
「寝言は寝てから言ってください。それより、ご用件は? 散歩の見送りにいらしたわけではないですよね」
辺境伯ははっと我に返り、表情をすっと引き締めた。瞳から動揺が消える。
「……散歩に行くなら止めはしない。だが、君が持っているそれは置いていってもらおう」
彼の指先は、私のポーチを真っ直ぐに指した。




