第2話 出会いの塩おにぎり ②
「お父さん、ごはんできたで!」
レイは私の手を離し、部屋の奥へと駆け出す。その先にあるものを見た瞬間、足が床に貼りついたように動かなくなった。
古びたベッドの上に、白い光を放つ石がぽうっと浮かんでいる。月も灯りもないのにそれは夜の中で呼吸していた。
「レイ、これは……」
「僕のお父さんやで!」
言葉が失われていく。この白さを聞かずとも私は知っていた。弟の指先が初めて濁った夜を、私はまだ忘れられない。
末端から体が石へ変わり、やがて全身を覆っていく。触れた肌の温度が少しずつ世界から消えて、石の重さだけが残る――輝石病だ。
魔力の乏しい人間を蝕む病であり、目の前の結晶はかつて人間だったものの成れの果てだ。
「今日のおにぎり、お姉ちゃんが美味しいって言ってくれたんよ!」
レイは石の前に膝をつき、楽しげに語りかけている。父がそこにいて耳を傾けてくれていると欠片も疑わずにいるように。
粘りつくような冷え込んだ魔力に私は腕をさすっていた。輝石病から生まれた石は、表面から魔力を放出することから魔石と呼ばれるのだ。
いま、この空間で温もりと呼べるのはレイの握ったオニギリだけだった。
「ちょっと塩かけすぎてもたけど、食べてぇ」
彼の父の命はとっくに失われている。魔法も医術も、この世のどんな力をもってしても元には戻せない。完全に物になってしまっているからだ。
それでもレイは、嬉しそうに自分が握った不格好なオニギリを石へと差し出そうとした。
「待って、触っちゃダメ!」
「わっ!? お姉ちゃん、どないしたん?」
気づけば叫んでいた。私はレイの身体を掴み、父であったものから引き剥がす。目を丸くするレイの顔を直視できなかった。
この子はまだ知らないのだ。父が、もう二度と自分の名前を呼んでくれないことを。
「レイ、これ……いえ、あなたのお父様はいま風邪を引いているようです。うつったらいけません」
「そうなん?」
本当のことを言うべきなのだろうか。弟の指先が石に変わっていくとき、ただその手を握ることしかできなかった。その絶望が私の背中に這う。
レイの小さな背中に、それを背負わせるというの?
「じゃあ、おかゆのほうがええかなぁ」
レイは無邪気に笑いながら、石に話しかけ続けていた。
「おにぎり、あまってもた」
「レイが食べてもいいと思いますよ」
「そうやなぁ!」
煤で汚れた頬にオニギリの粒がひとつ張りついていた。「しょっぱー!」「おいしー!」と無邪気な声が冷え切った部屋に響く。
私はその声を聞きながらベッドの脇へ歩み寄った。
「レイ、あなたとお父様はどうしてここで二人きりで暮らしているんです?」
レイは弾むように口を開いた。
「僕らな、日向かしの国っていうところから来たんや。でも、なんか僕が忌み子や言われて追い出されてもうて」
日向かしの国。この子はきっとろくでもない理由で追い出され、遥か遠い海の向こうから異国のこの地まで来たのだろう。
私は黒い髪が流れるレイの頭を優しく撫でた。
「いっぱい船のって、しんどいこともいっぱいあったけど……お父さんが美味しいご飯の作り方、いっぱい教えてくれたんよ!」
辛い道のりのはずなのにレイはちっとも悲しそうな顔をしない。父親を誇るように、胸を張って笑っていた。
『お姉ちゃん』
弟の声が聞こえた気がした。きっと幻聴だろう。でも答えてやりたくなる。生きなければ、私も胸を張って。
「アネモネの泉」
「あねもね?」
かつて母が、幼い私に読み聞かせてくれた古い古い伝承。あらゆる傷を癒やし、すべての病を拭い去る奇跡の泉が、果ての国のその果てにあるという。
「アネモネの泉に行きましょう。そこなら、お父様の風邪も治ります」
口にした瞬間、あまりの嘘にため息が出そうになる。アネモネの泉など、大人が子どもをあやすための慰め話に過ぎない。
輝石病に効く薬など、この世のどこにも存在しないのだ。
だが、構ってもいられない。このままだと、この子はいずれ父と同じ道を歩むだけなのだから。
「ほんまに!? 行こ行こ、今からあねもねの泉に!」
レイは両手を握りしめ、希望に満ちた瞳で私を見上げた。だがすぐにベッドへと目を向け、何かに気づいたように表情が曇る。
「でも、お父さん置いていかれへんわ……」
泣きそうに顔を歪めるレイを見て、私は覚悟を決めた。
「大丈夫、置いていかなくていいですよ。私がお父様を連れていきます」
魔石は魔力のある者にしか扱えない。私は魔石の塊から核をそっと引き剥がすと、ずしりとした重みが掌に落ちてきた。
魔力が潤沢な私は、この程度の石の魔力で病に罹ることはない。
「魔法の腕には自信があります。レイを一人になんてしません。だから、あなたと一緒に行っていいですか?」
そっと抱きしめると、レイの瞳から涙がぽろぽろと溢れた。それから何度も何度も、大きく頷いた。
レイの背中は、弟よりずっと小さかった。私は、今度こそ守ってみせるのだ。今度こそ。
♢♢♢
翌朝の出発に向け、私たちはさっそく準備を始めた。自分の旅支度を終えてレイがいるキッチンに向かうと、そこには奇妙な光景が広がっていた。
レイの小さな身体の三倍はある巨大な布袋が、小刻みに震えている。
「レイ。何を持って行こうとしているんです?」
呆気にとられながら袋の紐を解くと、大きな鉄の鍋やボウル、料理用ナイフが転がり出てきた。
「遊びに行くんじゃないんですよ」
「だって、お姉ちゃんに美味しいご飯作りたいねん!」
荷物の重さに足をぷるぷると震わせながら言うものだから、思わず笑ってしまう。
「重すぎて一歩も歩けていないじゃないですか。鍋は置いていきましょう」
「ええーっ! これがないと美味しいお味噌汁作られへん!」
「オミソシルとやらは別にいいですから……そんな上目遣いしてもダメなものはダメですって!」
潤んだ瞳でじっと見つめられると、つい折れてしまいそうになる。荷物を減らそうとする私と、鍋を死守しようとするレイ。
生真面目な辺境伯の顔がちらと頭をよぎったが、それより先にレイが「出発ー!」と鍋を抱えて玄関へ走り出した。
とりあえず、荒れ果てたキッチンは旅から帰るまで気にしないことにしよう。




