第20話 追憶の寄せ鍋 ⑨
どれほどの時間が過ぎただろうか。いや、実際はほんの数分も経っていないんだろうけど、私には永遠のように感じられた。
レイは一度泣き始めると手がつけられない。そして長い。あの小さな体のどこにこれほどの力が宿っているんだ。
「本 当 に す み ま せ ん で し た」
「存分に反省しろ」
座り込んでうなだれているミルダへセルヴィが顔を向けることはなかった。私たちはひきつけを起こさせずに泣き止ませるのに手一杯だ。
「レイ、お腹すきませんか。ご飯にしましょう?」
泣き声がようやく落ち着いてきたのを見計らって、できるだけ優しく声をかける。
私はぐつぐつと音を立てる鍋へ視線を流した。レイも目と鼻を真っ赤にしながら同じ方向を見る。
「うん……お鍋、食べる」
レイはやっと木製のお玉を握りしめて立ち上がった。セルヴィもミルダも、長い緊張から解き放たれたように大きく息を吐く。
煮え立つ鍋から湯気とともに柔らかな香りが漂った。日向かしの国のオダシの匂いだ。
レイは一生懸命にそれぞれの取り皿へ汁と具材をよそった。
「はい、お姉ちゃん。それからお兄ちゃんも」
「ありがとう、レイ。いただきます」
「感謝する……ミルダも、はやく来なさい」
ミルダは足の痺れを堪えるように顔を歪めている。「ウチのはぁ?」と四つん這いでふらつきながら近づいてきていた。
私は器を受け取りスプーンでひと口含んだ。じんわりと温かい。オミソシルとは違うすっきりとしたスープが広がっていった。派手さはないけれど、身体の芯に沁み入るような穏やかな味だ。
セルヴィがこちらをじっと見ていることに気づく。食べているところを見られるのは少し恥ずかしい。
「なんですか」
「いや。君はもっとたくさん食べるんだ」
セルヴィが器を両手で包み込みながら言い聞かせるように言った。ミルダは凄まじい勢いでスプーンを動かしている。
私が切ったぶつ切りの野菜たちを頬張り、ふうふうと息を吹きかけながら次の具材へとスプーンを伸ばしていた。
「ちょっと味薄くない? まあ悪くないけど」
「味付け変えられるのもお鍋のいいところなんやで!」
むっとしたレイがミルダを睨む。大きく胸を張って、精一杯に対抗しているようだった。
「好きなものを入れて自分の味にしていいんやって、お父さんが言ってた!」
自分の味にしていい……?
レイの言葉に私は迷わず懐から小さな小瓶を取り出した。真っ赤な粉末がぎっしりと詰まっている。
「馬鹿な。君、いつの間にそれを」
「出立の際にとある人が持たせてくれました」
セルヴィは顔も声も引きつっていた。私は優秀な執事を思い出しながら小瓶の蓋を開ける。鼻の粘膜を刺してくる良い香りだ。
「帰ったら減給してやる、アベロ……」
「いいじゃないか、味が濃くなるなら大歓迎だよ?」
「よくない! レイにそんな劇物を食べさせる気か!?」
ミルダが面白おかしく囃し立ててくるが、セルヴィは私の手を頑なに掴んで離さない。私はその抗議を涼しく受け流す。
「レイ、自分のぶんのおかわりを器にとっておいてくれますか」
「はーい!」
レイは嬉しそうにダシの効いた具材を自分の器へたっぷりと避難させた。よし、と私は心の中で呟く。
セルヴィが「待て、話を聞け――」と口を開いた瞬間、その僅かな隙を突いた。小瓶を逆さまにする。
ドドドドドド。
赤い粉が鍋の中に吸い込まれていった。
「馬鹿者ーっ!」
澄んだオダシが真っ赤に染まっていく。どろりとした液体がボコボコと泡を立て始めた。私以外の全員がその光景にゴクリと息を呑んだ。
「食べられないだろう、これは」
「残したらバチが当たるよ。食べてみれば意外と、ってこともあるし」
セルヴィは真っ赤なスープを凝視している。ミルダがやけくそ気味にスプーンですくい、口へ放り込んだ。
虚空を一点に見つめながら咀嚼している。
「かっ、かっ、辛! 辛いっていうか、痛ぁ!」
顔を真っ赤にし、彼女は喉を掻きむしりながら地面に転がった。
言わんこっちゃないという顔をしながらも、今度はセルヴィが器にスプーンを突き立てる。意地だけが彼を突き動かしている気がした。
大きく何度か深呼吸し、スープを口へ運ぶ。
……ごくり。セルヴィの身体が硬直した。
「ぐっ……ごふ……っ!」
喉が激しく上下し、むせ返りそうになるのを必死に堪えている。拳を握りしめ、大粒の涙をボロリとこぼしながら耐え忍んでいる。
私は二人の様子をおかしく思いながら、自分の器にスープを注いだ。いつものように強い刺激で喉を焼くだけ、のはずだった。
「っ!」
熱い液体が舌に触れると同時に猛烈な痛みが突き抜けた。おかしい。いつもならただ熱いだけで、何も感じないはずなのに。
喉の奥が切りつけられるようだ。辛い。ひたすらに辛い。だけど奥にはレイのオダシのやさしい味が微かにあるのがわかった。
「アンタも辛いの苦手なんだったら、こんなスパイス入れるんじゃないわよ!」
「え?」
「泣いてんじゃない!」
ポタポタと、涙が溢れているのに言われて気づいた。
「僕も一口食べてみたい!」
「絶対にダメだ、レイ!」
セルヴィの静止もむなしく、レイがほんの少しだけスプーンで飲んでしまう。
ぴゃ、と声にならない声をあげてその場で素早く足ぶみをはじめてしまった。レイも、セルヴィも、ミルダも、そして私も、みんな涙をこぼしている。
湯気の向こうに見える三人の顔。私はこんなにも満たされていて。満たされれば満たされるほど不安が心に巣食って。
でもいまは、きっと辛さのせいだけではない涙をみんなと流していたかった。
♢♢♢
賑やかな食事は終わり、廃村に夜の静けさが戻ってきた頃。パチパチと音を立てる焚き火の前で休んでいると、セルヴィが隣に座った。その目はまだ少し赤い。
「ユウナ、これを」
差し出されたのは、私が置いて行ったはずのジュエリーケースだった。ずっと持っていてくれていたのだろうか。セルヴィはそれを私の手に握らせた。
「君が持っておくべきものだ」
ランテルノ家の人間として彼は魔石を回収しなければならない。これを私に返してくれるセルヴィの優しさがありがたかった。
「ありがとうございます、セルヴィ」
私は大切に胸に抱き、彼を見つめる。手の中のケースからセルヴィの体温がじわりと伝わってくる。
「絶対にアネモネの泉を見つけましょうね」
心からの笑顔が自然にあふれた。ただ、私の言葉を聞くとセルヴィの表情がひどく歪む。
今にも泣き出しそうに、痛ましいほどに、己の口を結ぶ。彼はただ静かに目を閉じてしまった。
なぜ、そんな顔をするのだろう。
彼の不器用なやさしさの裏にある底知れない苦しみを分かりたいと思う自分がいた。




