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第11話 勘違いの卵焼き ⑤

「めっちゃ広い台所やなぁ」

「必要なものがあればお申し付けください、レイ坊ちゃま」


 屋敷のキッチンには魔導具のコンロにオーブンが揃っていた。壁一面を埋める棚と吊り下げられた銅の鍋。


 設備の充実ぶりは王都のレストランにも引けを取らないほどだろう。


「卵と砂糖がほしいんやけど」

「はい、少々お待ちくださいませ」


 アベロは淀みない動作で棚を開けていく。丸い卵と砂糖の袋、銀のボウルが次々と調理台へと並べられていった。


 レイは四角いフライパンと二本の長い木の棒をアベロに渡す。今から作るタマゴヤキに必要だからと、キッチンに来る前に部屋からとってきたようだ。


「レイ、タマゴヤキってどんな料理なんです?」

「えっと、まずは卵を割ってな……」


 レイが言い終える前にパキャと軽快に卵が割れる。銀のボウルに黄身がすとんと落ちた。


「一つでよろしいのですか?」

「二つ、やねんけど」


 今度はかすかな響きさえしなかった。視線をレイに向けたまま、片手だけで卵を割っている。黄身はまたボウルへと収まった。


 手際が良すぎる。魔法でも使っているのだろうか。料理ができない身からすると不気味な眺めだった。


「次はこちらをかき混ぜたらよろしいですか? それとも砂糖を」

「あかーん! お礼やねんから僕が作らな意味ないやんっ」


 レイは両手をバタバタと振って、頬をぷくーっと風船のように膨らませる。とても突きたくなるほっぺだ。ぷにぷにだ。


「ボウルをレイに渡しなさい、アベロ」

「ですが……ぐっ、承知いたしました」


 レイはボウルを抱え込むように胸を押し当て、泡立て器をぶんぶんと動かした。


 卵を混ぜるたびに体ごと左右に揺れてしまい、そのたびに黒い髪の毛がふわふわと跳ねる。


 主人に止められたアベロは、それでもレイの周りを忙しなくうろついていた。


「静かにしなさい」

「なにも喋っておりません、旦那様!」


 泡立て器がカシャカシャと小気味よいリズムを刻む。ボウルがレイの手からこぼれそうになるたびに、アベロは口をもごもごと動かした。


「顔がうるさいんですよ」

「奥様!?」


 ついに耐えきれなくなったのか、アベロはレイの足元に跪こうとする。その前にセルヴィの大きな手が、その首根っこをためらいなく掴み上げた。


「私がしばらく領地を離れるんだ。君は家令と相談しなければいけないことがあるだろう?」

「それは旦那様も同じでは……」

「私も後から向かう。先に行ってなさい」

「そんなっ! お手伝いを、坊ちゃまのお手伝いをさせてくださいませーっ!」


 首を思い切り振り回して抵抗するアベロ。彼は引きずられてキッチンの外へと連行されていった。


「アベロさん、なんかあったん?」

「お仕事らしいですよ。タマゴヤキは後で食べてもらいましょう」


 遠ざかるアベロの嘆き声が廊下の奥へ消えていく。残されたのはレイが泡立て器を動かすかすかな音だけになった。


「お姉ちゃん、甘いの好き?」

「正直、苦手ですね」

「わかった! 甘さ控えめにしとくなぁ」


 言うや否や、砂糖の袋を傾けてどさりとボウルへ投入した。甘さ控えめとは一体……?


「あとは、この混ぜたんを焼くだけやねんけど」


 レイは意気揚々と魔導コンロへ移動した。つま先を立ち上げ、腕をピンと伸ばす。


「……うぅ」


 指先があと少しで届きそうで届かず、小さく唸ってからしょんぼりと肩を落とした。コンロの位置が高すぎたのだ。


「お姉ちゃん。なんか台ないかなぁ」

「待っててください、探してきますから」


 私はキッチンの隅にある物置棚へと向かった。古い木箱や荷台がいくつも重なっている。その中から、ちょうどよさそうな高さの頑丈な木箱を見つけ出した。


 これならレイの足場にぴったりだ。そう思って木箱を覗き込むと、棚の奥に小さなガラス瓶たちが隠れている。


 この透明な瓶。その中にたゆたう琥珀色した生命の水は! ラベルの文字に、にやにやが止まらない。かなり上質なお酒だ。


 アベロを追い出しているセルヴィはまだ戻ってこないだろう。私はそっと瓶に手をかけた。何だか急に背後が暗くなった気がする。


「ひ、一口くらい許されますよね」


 ぽんと蓋を開ける。甘く鼻を突くような独特のアルコールの香りが広がった。喜びを噛み締めながら瓶を口元へ近づけ――。


「許されないんだなあ、これが」

「いだだだ! 肩が、肩がぁぁ」


 肩に凄まじい痛みが走る。容赦なく掴まれた肩からギリギリという音が聞こえてくるようだった。


「香りを楽しもうとしただけですよ!」


 涙目で訴える。一切言い訳を許さない魔力を放つセルヴィが笑顔で立っていた。しれっとお酒も回収される。


 いつの間に戻ってきたんだ、この人は。


「まったく、油断も隙もない」


 セルヴィは私が見つけた木箱をひょいと持ち上げ、レイが使う調理台の下に置いた。


「これで届くだろう?」

「ぴったりや! ありがとう、セルヴィお兄ちゃん!」


 レイは嬉しそうに木箱へ飛び乗り、今度こそ四角いフライパンの前に陣取った。


「魔導コンロの火、つけましょうか?」

「まて、君の魔力だと爆発する」

「大丈夫! 僕、生活魔法なら使えるねん」


 レイが魔導具に手をかざす。淡い淡い魔力でコンロにちろりと火が灯った。


「卵焼きは、時間と火加減の勝負や」


 ボウルの卵液を、熱したフライパンへゆっくりと流し込む。液が落ちた瞬間、白い煙が跳ね上がった。


 熱気がレイの頬を赤く染め、焦げの匂いがじわじわと広がる。


「わっ、わぁ……!」


 二本の長い箸を握る手が震え、卵は逃げるようにフライパンの端へ転がっていった。火力が強すぎるのか、卵の表面はみるみる黒ずんでいく。


「あかん、うまいこと巻かれへん」


 レイは必死に卵の形を整えようとした。何度もひっくり返し、卵液を追加しては、またひっくり返す。


 焼ける音がレイを急かすようで、火傷しないか心配だった。私もセルヴィもハラハラと見守るしかない。


 なんとか細長い四角の形に整えた。レイは皿へそれを移す。出来上がったのは卵の色ではなく、ところどころ真っ黒に焦げたいびつな塊だった。


「ちょっと焦げてもた」


 木箱から下りたレイが皿を差し出す。私は迷わずフォークでその黒い塊を口に運んだ。セルヴィも黙ってタマゴヤキを口へと入れる。


 ザリザリとした焦げの食感。追いかけてくるように苦味が広がっていった。


 だが、奥からレイが一生懸命に混ぜ合わせたやさしくて甘い味がゆっくりと溶け出してくる。その甘さが舌の上で、私の鈍い味覚を刺激した。


「……美味しいです。焦げていたってレイのタマゴヤキは美味しいですよ」

「ほんま?」


 今日はじめて食事をとって笑う私を見て、安心したようにセルヴィは口元を緩めた。


「ああ。よく頑張ったな、レイ」


 セルヴィはレイの頭を撫で回した。レイは嬉しそうに何度もこくこくと頷いた。


「卵焼きな、お父さんが甘いの好きでよぉ作ってくれてん……お父さん」


 父親と過ごした時を思い出してしまったのだろうか。鼻の頭が真っ赤になっている。


 ああ、どうか泣かないでほしい。私を救ってくれた幼い彼には、ずっと笑顔でいてほしい。


 気付けば、私の腕は自然と伸びていた。


「お父さんが治ったらレイのタマゴヤキ食べてもらいましょう」

「うん、うんっ」


 私はレイを抱き上げてくるくると回る。つられたように彼はきゃっきゃと声を上げた。


 セルヴィは言いたいことを胸に浮かべては押し殺したような瞳で私たちを見ていた。私も目を逸さなかった。この覚悟だけは伝えなければならない。


「ユウナ、そんな約束は」

「この子の希望を私は守るんです」


 アネモネの泉。それは私たちを繋ぐたった一つの希望だ。その希望が嘘で、潰えてしまったときをセルヴィは恐れている。


 何も怖がらなくていいのに。この子だけは絶望になんて触れさせない。それだけが絶望の友となった私が生きる理由なのだから。


 ないというのなら作り出してみせる、希望を。


 セルヴィはしばらく何も言わなかった。反論も同意もない。私の覚悟を受け取った沈黙だった。


「そうだな……悪かった」


 しばらくレイを抱いていると、一日の疲れが出たのか私の腕の中でうとうとしている。もう眠いのだろう。


「もう夜も遅い、そろそろ部屋に戻ろう。ユウナ、レイをこちらに」


 私は腕の中のレイをそっと持ち上げ、セルヴィの腕へと委ねた。


「卵焼き、アベロさんに渡しにいかな……」

「後で届けておこう。レイは先に寝なさい」

「むせび泣いて喜ぶんじゃないですか? あの執事は」


 セルヴィは小さく吹き出した。つられて笑ってしまう。


 アネモネの泉を目指す旅はきっと過酷なものになるだろう。それでもレイの作る料理の温かさが胸にある限り、私は生きていける気がした。

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