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5話




 雑居ビルの狭い階段を地下へ降りていくと、煤けたセメントの壁にすっぽり嵌っているような、小さなランプをぶら下げて、ヒノキの木目に濃淡色をした扉がひとつだけあった。


 看板には「Volpe artica」と、

 白字で店名を書かいた黒い細長のプレートを扉に貼り付けたイタリアンレストランが、隠れるようにひっそりと店を構えていた。


 滉大はドアノブを捻って開けると、小さな金物のベルが音を鳴らした。

 中へ入ると、木組みの梁とセメント肌の店内にはすでに数人のお客が入っていて、食事を楽しむ会話がちらほらと聞こえてきた。

 店内は落ち着いた雰囲気に照明は明るすぎず、ヒノキの木目調の温かみのあるウッドテーブルとカウンター席が縦長に進むように並び、そしてその奥には、壁から少し離したアップライトピアノが置いてあった。

 静かな雰囲気に包まれながらオープンキッチンの調理場から聴こえてくる音も、溶け込むようにひとつの空間が作られていた。


 ベルが鳴り終わる前に店の奥から「いらっしゃいませ」と、声が飛んできた。それとほぼ同時に、若い男の店員が顔をみせた。

 その一瞬で、仕事用の和やかな顔からよく知る笑みを浮かべて、佐々木奏汰(かなた)が、足取りを軽くして厨房から出てきた。


「なんだ、いらっしゃい。よく見たらいつものメンバーじゃん」


「佐々木くん、こんにちは」


「やあ、日野さん。今日は…」

 適当なテーブル席に案内され、愛想のいい声が注文をとるようで確認をとり、にこやかに手際よく、「ごゆっくり」と言って、佐々木は颯爽と厨房の方へ帰っていった。


 高校の頃からの友人で、短髪に細身で顔立ちははっきりしている彼は、その頃から身だしなみには気を使い、これも家業である店での振る舞いを気にしてのことなんだと、話していた。

 料理をするのが好きで、お店も好きだと言って、いつもハキハキと白いコックコートに黒いパンツ姿で、厨房とホールの仕事を駆けるように行き来していた。

 アルバイト数人いれて家族で切り盛りしながら、今は調理学校に通い、お店では今日もカウンター越しの厨房で佐々木の声が上がっていた。


 そんな佐々木との出会いはやはり、母親のそのピアノがきっかけだった。




「相変わらず手際いいな」

 メニューを片手に見ながら進藤が言った。


「佐々木くん目当てで来る人もいるみたいよ」


「昔からだけどな。なんか嬉しそうじゃん」


「そんなんじゃないし。寧ろそれを聞いて、ふたりがどんな反応するのか見たかったなって」

 日野はテーブルに両肘をついて、組み合わせた両手の上に顎を乗せて笑みを浮かべていた。


「趣味が悪い」

 顔をしかめる進藤は、立てかけてあったメニューを手にとって黙々とページをめくり見ていた。

    

 そのレザー調のメニュー表には、ナポリタンやミートソースのありふれたパスタといったものの他に、ベシャメッラというバターと小麦粉を炒めたルーにホットミルクを加えた濃厚でクリーミーなホワイトソースを使った料理が多かった。


 とろみがついたら、塩、黒胡椒を入れ、ナツメグで香りをつけて優しい味わいになる。

 ベシャメッラはフランス発祥だが、イタリアでは一般的な家庭料理としてパスタに絡めたり、ハンバーグや、ラザニア、グラタン、それにピザやモッツァレラなどのチーズの風味を効かせ、さらにトリュフオイルを混ぜたりした独自の味わいを出していた。


 価格は手頃でいろんな種類の一品が揃っていて、若い人が気軽に飲み食いできるような、慣れれば来やすいところではないかと滉大には思えた。


 しかし、佐々木の父親でシェフでもある店主曰く、本場イタリアの大衆的なトラットリアにしたかったとのことだが、場所が地下というのもあれば、雰囲気がそのイメージを遠ざけてしまうかも知れないと危惧していた。

 なんせここでは、ジャズバーのように希望があれば演奏もできたからだ。




「なにか新しいメニューできてるかな」


「いや、この前にも来たばかりだし、そんな急には増えないでしょ」

 進藤がページをめくりながら言った。


「確かに、それもそうよね」

 つい最近来たことを思い出した日野の陽気な声が、しぼんでいくように小さくなっていった。


「そういえば…」

 滉大は佐々木の働く姿を見ながら続けた。

「瑞野さんはどうしてるんだろう。うちにみんな揃って遊びに来てた頃が懐かしい」


 徐ろに佐々木の働く姿を見て昔のことを思い出してしまった。日野もまた似たような格好でアルバイトをしていた。


 日野があっさりと「分からない」と首を横に振って答えた。

「どうしてるかな。向こうからも連絡はこないし。高校卒業した後は就職して働いてるから、やっぱり忙しいのかな」


「そっか…」


「俺らも、今年就活だけどな」

 進藤から発したさりげないそのひとことが、重くのしかかった。


「元気でやってるといいね」


「うん。でも、やっぱり連絡してみる」

 日野は自分のスマートフォンを取り出して、メッセージ欄のリストを上から下へ視線を映し、また画面も下から上へと流れていった。

 進藤は黙ったまま、まだメニュー表を見ていた。



 そのとき―――、ピアノの繊細な音が店内を静寂に変えた。


 いっせいに視線がそちらへ向くと、店内の静けさからピアノの音がよく鳴り響いた。



 知っている人であれば、それが佐々木の母親の演奏だとすぐに分かった。

 ゆっくりピアノの音色が流れる。他にもお客が数人いた。その全員がピアノの音に集中していた。


 ここでは楽器を持ち寄って予約がなければ、ほぼ即興で演奏ができた。ジャズもあれば、音大生たちが人前で演奏する練習も兼ねて競うように演奏することもあった。そう言う意味ではここは有名かも知れない。


「はい、お飲み物です」

 音と音の隙間に入るように、佐々木の声と同時に注文した飲み物が目の前に置かれた。


「ありがとう。佐々木のお母さん、また腕を上げてるんじゃない?」

 日野が佐々木の母親の演奏する後ろ姿を見ながら、静かに声を漏らした。


「そうかな。音楽のことは俺にはよく分からないけど、いつも閉店したあとも家でピアノを弾いてるな。本人は楽しいからいいって言うけど、もう少し休めばいいのになあ、とは思うよ」

 まぶたを落として、肩をすくめていた。


「そうなんだ。でも、わたしはその気持ちは分からなくはないかも。できるようになるまでは本当に大変だけど、何かができるようになっていく感覚は、楽しいもの」


「そっか、ならしょうがない。俺もお店のこと、大変とかどうこうより、やり甲斐はあるし。そういうもんかな」

 笑いながら、佐々木はまた肩を竦めた。


「俺も似たようなものかな」

 ずっとメニュー表を見ていた進藤がやっと口を開いた。


「石田は?」


「そうかも知れないけど…」


 日野と進藤がふたりして何かもの言いたげそうにこちらを見る視線を感じた。それでも少し考えてみても、やはり答えは、分からない、の方がしっくりきた。


「それよりも、もっと上手くならないと」

 口から滑るように出てきた。どれというよりもやはりそれだろう。なんたって「全然次にいけない」からだ。


「やっぱり難しいのな」

 佐々木は腕を組み、気づけばピアノの演奏は終わっていた。そしてまた、佐々木は呼ばれた他のお客のところへ行ってしまった。


 少し飲み物に口をつけると、そうだったと、日野が声をこぼした。

「石田くんにお願いしたいことがあったの。また伴奏をお願いできないかな、って」


「いいけど、ふたりにはいつもやってるじゃ」


「違うの。もうひとり、わたしの友達になんだけど…」


 友達を、というのは初めてではないが、日野の様子はどこかよそよそしい。日野のこんな姿を見るのは初めてかも知れなかった。


「いいけど、なにを使ってる人なの?」


「わたしと同じヴァイオリンで、たぶん知ってる人、のはず…」


 いつもより歯切れが悪い。

 首を傾げて、その「たぶん」が気になった。


「わたしなんかより、ずっとうまい人だから」


「ずっとうまい、か。そうなんだ。そうすると、どうだろう。僕にできるかな」

 そう言われると最近は自信という自信が行方不明になっている。どうしたものかと、滉大はつい苦笑いしていた。


「お願いします。本当にその子、困ってるの」

 日野は、お願いしますと言って手を合わせた。


「わかった。いいよ、そんなのはいいから」

 滉大は続けて言った。

「けど、ずっとうまいってどんな人なの?」


「昔、コンクールでも何度か一番になったことがあるひとで、わたしの…実質先生になる人、かな」

 照れるように笑みをこぼして、その人の名前が出た。「霧島美咲っていうの」


 自然にポロッと出た名前が、他のふたりの耳に勢いよく飛び込んできた。


 またメニュー表を見ていた進藤が声をこぼした。

「え、知ってる」


 小学生の頃にヴァイオリンのコンクールで賞をとってから、多くの舞台に上がってよく演奏をしていたことは、同年代として有名な人だった。雑誌にも取り上げられたこともあった。

 しかし、中学に入ってしばらくした頃にあることがきっかけで、気づけばとんと見なくなってしまった。それから活動を続けているという話もなかった。

 だから、滉大も辞めてしまったのかと思っていた。


 そうやって才能あるないにかかわらず消えていくことは珍しくないと、父の哲也が以前話していた。周囲の環境や人間関係だったりと、多様に変化していくなかで結果的に辞めていってしまう人はいるのだと。


 それまでは霧島美咲という人物もきっとそうなんだろうと思っていた。最近になって、まだ活動を続けていることは話には聞いていたが、ただそれよりも、日野と知り合いだったことにふたりは言葉を失った。




「お待たせしました、いつものポテトです」


 背筋を伸ばしてシュッと立つウェイターが来たと思ったら佐々木だった。あと二品、三品と料理が盛られた皿を置いて、すぐに立ち去っていった。徐々に店内が賑わいだしていた。佐々木の動きも慌ただしくなっている。


 たまたま家が隣同士で、幼稚園の頃から一緒だったと、ふたりの様子を見た日野が呟いた。


「幼馴染で、友達で、先生か…」

 胸の内の声が、つい口から出ていた。


 運ばれてきた料理のうちのひとつに進藤が手を伸ばし口にした。

「先生…か。どうしてそんな人と僕なんかに? もっと、自分よりいい人はいるでしょ」


 視線を泳がす日野は申し訳なさそうに話した。

「あまり、うまくいかないみたいで…」

 つまりは人間関係だろうか。それでも、昔を思い出しても自分よりうまい人と組むことに不安が増した。

 もう一度本当に自分でいいのかを聞こうとしたとき、日野の様子から、そうするしかなかったのかも知れないと思い返した。

 素直に自分を頼ってくれたことをよしとして、滉大は俯きながら予定を訊いた。


 日野が、ありがとう、ちょっと待っててと言って、喜色満面にまたスマートフォンを取りだして、霧島美咲にメッセージを送っていた。


 ちょうど耳にはいってきたサックスの音に振り向くと、ドラム無しの三人でのトリオ、ピアノとテナーサックスとヴァイオリンの演奏だった。

 今は佐々木の母親ではなく別の人がピアノを弾いている。うまいと思える演奏だった。


 しばらく穏やかな時間が流れた。

 力強い音色が高い音から低い音まで出して、心地良く聴いていられる。曲は、どこかで聴いたことがあるような最近の流行りの曲をアレンジしているようだった。

 この曲知ってる、なんて言う声が小さく聞こえてきたりしていた。


 日野は、いつの間にか口を閉ざして聞き入っていた。気にいったのだろうか。スマートフォンを持ったまま視線はまっすぐテナーサックスの演奏に向いていた。まるで真剣そのものだった。

 終りかけたとき、日野の携帯が小さく揺れた。


「美咲が、来週の月曜日のお昼に会えないかって。どうする?」


 不意に慣れた口調で出たその呼び名が、風のように過ぎ去っていった。

 進藤とふたりして動きが止まり、自然と目線が合った数舜、ソロのテナーサックスの音が大きく鳴り響く最後の一音が、この空間のなかに消えていった。


 店内の賑わいが落ち着いてきたところで、滉大はごめんと足して、次の月曜日の午後に、学校の外にあるカフェで直接会う約束をした。


 夜八時を過ぎたところで今日は解散した。

 ふたりに限らずみんな早朝から練習をしている。きっと今日これから帰っても少しは楽器に触れて練習するだろう。ふたりの背中にはヴァイオリンケースが当然のように顔を見せている。本当は今日、三人ではなく五人いたんじゃないかと思うぐらい肌身離さず持ち歩いている。


 駅でふたりと別れて家路をたどりながら、頭のなかで今練習している曲のメロディが流れた。

 譜面を思い浮かべると、ちょうど点々と立つ街灯を休符のように見立てて、自分がどこにいるのか確認もしつつ、次の街灯までテンポをたどるように歩いた。


 周りの景色がそうして流れていった。暗い夜道だからほとんど視界にはいっていなかったが、その中で不意に自分の名前が聞こえた。


「コウタ…、待って」


 肩を掴まれた瞬間、息が止まった。


 振り向くと母の景子が険しい顔をして僕の肩を掴んでいた、というよりも急いできたのか、息を荒らげて杖の代わりにされているように思えた。


「もう、何度も呼んでるのに…」


「母さん、ごめん。考え事してて気づかなかった」


 どうやら走ってきたようだった。


「まったく、全然気づいてくれないんだから。そんなんで、何かあったらどうするのよ」


 何かってなんだろうと少し考えて、滉大はごめんと返した。母のその言葉は誰に向けたものだろうかと、時折考えてしまった。


「母さんは仕事の帰り?」


「そう、今日はヘルプで八時まで」


 母さんの手には勤め先のスーパーの袋がぶらさがっていた。


「それは、お弁当?」


「そうよ。お父さんの分とわたしの分。あなたは進藤くんたちとご飯食べに行ったんでしょ。だから何も買ってないけど…」


「ああ、大丈夫だよ」


「でも、なんだったらなにか家にあるもので作ろうか?」


「大丈夫だって。それに父さんお腹空かせて待ってるんじゃないの?」


「そう? なにか家にあるもので作れるものがあったら作るから、言いなさいよ」

 口早に話してから口を閉じて、続けた。

「それに、お父さんなら今頃、ひとりでお酒飲みながら何かつまんでるわよ」

 景子は眉をひそめながら笑みをこぼした。


「まあ、そうだね」

 滉大はいつもの姿を浮かべて苦笑いをこぼした。

「いつも飲んでるよね。週に一日ぐらいは休肝日つくった方がいいんじゃない」


「そうよね。飲みすぎよね」


 商店街を抜けた暗い路地を歩きながら、母の声が遠くなる気がした。歩調を合わせてゆっくり歩いた。そして到着すると、明かりが点いてない暗い我が家が目に入った。

 玄関の外灯もついていなかった。


「あれ? 父さんいないのかな。いつも外の明かりは点けてるのに」


「今日は休みでずっと家にいるって言ってたわよ」


 急に景子は足早になって玄関の扉を開けて中に入っていった。滉大も続いて入ると、玄関口の明り全体がついてなかった。

 階段を駆け上がりリビングへ行くと、開いた扉から暗闇に光が流れ込んでいた。


「ちょっと」


 母の声が聞こえた。

 まだたどり着く手前で、テレビかなにかで見たことあるような光景を、滉大はリビングの扉の前に立って見ていた。


 テーブルにうつ伏せで動かない父を、母が呼び掛けながら揺さぶって、買ってきた弁当はリビングに入った手間に無下に転がっていた。幸い中身は出ていなかった。しかし、母の震える声がいつもより大きく聞こえた。


 テーブルには日本酒が入った瓶が置かれてあった。きっと飲み過ぎたんだろうと、いつものことだと滉大は思った。しかし、飲みすぎなところがあるから急に倒れたりすることだってなくはないかも知れない。

 そう危機感を腹の底でひしひし感じ出したところで、酩酊した父がむくッと起き上がった。


「お、帰ったのか。おかえり」と、伸びをする父を裏目に母のすすり泣く声が聞こえてきた。


 傍に立ち尽す景子を前に、目を丸くする哲也がすぐに立ち上がった。


「す、すまない…」


 小声で母がなにか言っていた。滉大のいるところからだと何を言っているのか聞きとれなかった。一瞬、父の哲也と目が合った。

 足を後ろへ戻し、一階に降りて練習室にしばらくいることにした。とりあえず、玄関の明りと外灯を点けてから。


 ソファに腰かけて、思いっきり背もたれに寄りかかった。頭をもたれかけさせて、瞼をとじたその上に腕を置いた。


 すると急に扉をノックする音が聞こえた、と思ったら扉から哲也が顔を出していた。


「さっきはごめんな」


「母さんは、大丈夫なの?」


「ああ、もう落ち着いて上で買ってきた弁当を温めてくれてるよ」


「そっか。大丈夫ならよかった」


 父の空笑いがしたあと、口を噤んでしまった。

「お前も何か食べるか?」


「そうだね。少し、小腹が空いてきたかな」


「そうか、じゃあ何か作るか」


 そのとき、父の眉をひそめて笑う横顔を横目に映して部屋を後にした。


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