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4話




 隣の部屋から―――が聞こえた。

 音はピアノだけ。

 それでも確かに、消えゆるような弱い音を耳に残した。



「どうかしたの?」


「えっ」

 日野の脳幹に直接届いてきたような突然降ってきた声に、自分が今どこにいるのか、その前後の記憶に焦点が定まらないでいる。

 ぼんやりして、夢でも見ていたかのように曖昧な感覚のなかに、ヴァイオリンケースを肩から下ろして、きょとんとした日野の顔を滉大の瞳に映した。


「大丈夫?」

 日野の心配そうな眼が、そっと覗いた。

「今日の練習はやめとく?」


「練習―――、いや、大丈夫だよ」


 数瞬、今日のこれまでのことが足早に脳裏を過った。今は大学内にある練習室で、日野と練習する約束をしていたのを思い出した。


「そう、それならいいけど」


「ああ、ごめん。ちょっと遅刻しそうになって、落ち着いたら少し疲れちゃったかな」


「珍しい。寝坊したの? 徹夜でもしてたとか」


「朝の練習中、気づいたら時間が経ってたというか…」

 一拍、言葉に詰まった。

「いつの間にか寝ちゃってたというか」


「あらら、二度寝しちゃったのね」

 日野が言うと含み笑いを浮かべていた。


「いや、それ以上…かな。何度も寝て起きてを繰り返してた。しかもその練習中に」


「まさかピアノを弾きながら居眠りしてたの」


「そんな感じ」


「ウソでしょ…」


「まあ、ホントだから」

 急に静かになったことに視線を日野へ移すと、不可解と言いたげな、怪訝な表情を浮かべていた。


「ピアノの下で寝てたりもしたなぁ」と言うと、微動だにしなくなった。余計に日野の表情が読めなくなった。


「まぁ、そんな感じだね」

 自分の空笑いが部屋の中へ消えていく。自然と滉大の視線はピアノに向いていた。


 鍵盤に指を置いてひと呼吸した。


 暗く洗練な和音によるピアノの響きが、グランドピアノ二台分は入る広さの練習室に鳴らしていく。

 重たく沈んで消えそうになる音が、一音ずつテンポよく、また囁くように流れた。


 バッハの「パルティータ二番」は、論理的に考えていかないといけない。冒頭から終盤に至るまで。

 分かっているつもりでもうまくいかない。考えているつもりで考えていないんじゃないかと葛藤することが多々あった。


 この曲の物語性が淡白なのか、しだいに終盤に差しかかっていくにつれ、指は決まった動きをしていく。

 練習通りに淡々と―――。


 そして、速いテンポで、最後のカプリッチョが短い一音を響かせて、指は鍵盤から離れた。



「どう思う?」


「難しそうな曲だなって」

 日野は続けた。

「感覚的だけど、機械的かなって。進藤くんがいてくれたらもっと言えることはあるんだろうけど、ごめん、わたしにはそれぐらいしか」

 日野は俯きながら声が小さくなっていった。


「日野は、将来のこと考えてる?」

 一瞬見え隠れしていた疑問が口から出ていた。

「もう今年、就活あるし、みんなどう考えてるのか気になったというか」


 丸くした目を細める日野は、笑みを作っていた。

「まぁ、この先も音楽に携われたらいいなとは思うけど。どうしたの、急に」


「ピアノ、うまくなってるのかなって。本当にこのまま続けられるのか、なんて最近よく考えてばかりいるというか…」


 日野の唸り声が聞こえた。

「よく分からないけど、わたしも進藤くんも、石田くんの演奏は安心して聴いていられるし、わたしはお陰様で今日までやってこれたんだし、それなりに自信を持っていいと思うよ」


 腕を組んで、少し考えて日野は続けた。

「それに、今できることをしないと明日やるべきことができなくなっちゃうなら、やるしかないかなとも思うし、練習することは大事だと思うよ。当たり前の話なんだろうけど、さ。

 ただ、人って自分の都合よく考えちゃうものだから、楽な道よりも進むべき道は見失っちゃダメだと思う」

 そう言って照れ笑いしていた。


「そうだね」

 と、それ以上の言葉が出て来なかった。あとは、眉をひそめて笑みで返すしかできなかった。


「それじゃ、練習しよ。今度はわたしでいい?」

 日野の明るい声が飛んできた。





 電車に乗って地元に着く頃には、すでに夕方のアーケード商店街の明かりが灯っていた。


 日暮れの時間にはまだ少し早い。足早になって帰ろうとする人もいれば、飲み屋街から賑やかな声も聞こえてくる。一日の終わりが始まろうとしていた。


 そんな雰囲気のなかを駅からまっすぐ帰っていくと、フッと冷たい風が掠めた。そのとき、頭の中のピアノが音を鳴らした。


 擦れ違っていく人の足音だったり、無関心に下を向いて歩く人に、急ぐ人、携帯を眺める人もいて、そんな様子を横目に映しながら雑踏の音からリズムを作り、曲をイメージした。

 それが楽しいかと言われればそこまでではないけれど、どこにでも音は存在していてリズムがある。人の歩き方も一定の癖がパターンとなってリズムを持っていれば、雨の日に水滴が水瓶に落ち続けてリズムを作っていたときも、それを自室のベッドで横になりながら聴いていた。

 あのときは一時間以上は経っていたと思った。それを一重に楽しいと言うのだろうか。


 無限に続く川の流れを聴くように、さっきまで練習していたバッハの「パルティータ二番」という曲に変わって流れていった。

 一歩、一歩、進むにつれ、速度が曲調に合わせて遅くなったり早くなったりしていった。


 この川はどこまで続いていくのだろうと、つい空を見上げて思った。


 まだアーケード商店街の天蓋が見える。足を止めて、うしろを振りかえって擦れ違った人に横目をやる。

 ここからは地元の中学校も近い。賑やかさもより一層である。


 子供の頃は普通に友達と遊んだりお喋りして、他と変わらないひとりだったのに、だんだん難しい曲も弾けるようになってくるとレッスンも厳しくなって、ピアノに費やす時間が増えていった。


 高校に入ってからも練習している時間の方が遥かに多かった。たまに楽しそうにお喋りしながら友達や同世代であろう人達が帰っていくところを見かけると、ふとした瞬間、今のままピアノ漬けの毎日でいいのかという疑問が、どうして僕はピアノを弾いているのかという疑問が沸いて出てきた。


 コンクールに出て賞をとったわけでもないのにこのまま続けていていいのかという、心のどこかで靄がかかった何かが手招きをする。

 そのもやもやしたものが仮に焦燥感なら、腹部の下あたりに溜まっていくにつれて気持ちを逸らせた。それでもピアノを弾かないと自分には他に何もない恐怖心にも苛まれるのであった。


 しかし、ふたりに出会わなかったら、きっと、もっと適当なところで妥協していたかも知れない。それよりはいいのかなと、これも適当な妥協かもと思いなれば、また歩みを進めた。




 ようやくアーケードの天蓋を抜けて暗い空が見えた。暗くてもまだ照明が昼のように明るく道を照らしている。だんだん暗くなっていく街路を歩いていても、ぽつぽつと並ぶ街灯が、道を間違えないように続いている。安心安全に帰れるように。

 そしてまた、スマフォのバイブレーションが鳴った。


 途端に周囲の音が聴こえなくなって静かになったような気がした。

 一時間前にも来ていた母の景子からのメッセージだった。内容はいつもと変わらない。


 “今どこにいるの?”

 “夕飯までには帰ってくるの?”

 “今日は早いの?”


 他にもいろいろあったが、日が経つにつれ送られてくるメッセージは増えていく一方だった。それに対して返信の内容は淡々となっていった。

 母の情緒不安定な気色が伝わってくるようだ。その理由も兄が原因であるのだ。


 街灯の下に立ち尽して携帯をリュックの適当なポケットにいれた。そうすれば言い訳もしやすい。

 ただ今は億劫だ。

 それを考えると、ため息が零れて足を重くした。




「―――おかえりなさい」


 ハッと、暗闇から嗄れた声に振り返ると、よく同じ場所で出会う隣の家に住む金村のお婆さんだった。


 いつも背中を少し丸めて歩いている。今日は物々しく入ったスーパーのレジ袋を持っているところを見ると、ちょうど買い物帰りのところに鉢合わせたようだった。

 返事をする滉大は、気づけば白い壁に煤けた汚れが目立つ我が家の前にいた。


「学校の帰り?」

 金村さんはいつもはきはきと喋る。うちのおばあちゃんとはゆっくり話すのに全然違うと、滉大は常々に思っていた。


「今日は少し学校に残って練習を」


「そうなんだね、精がでるね。昨日もお家から聴こえてきてたけど、またうまくなったんじゃないの」


「あ、すみません」

 先日のことを思い出す。部屋を出ようとしたら半開きだったことを。

「いつもちゃんと部屋の扉は締めてるつもりなんですけど、ホントにすみません」


「わたしはいいの。元気をもらえてるみたいで。テレビやラジオで音楽を聴くよりも、直接聴いた方が新鮮な野菜と同じで、力がみなぎってくる気がするのよ。なにより楽しくなるわね」

 目尻に走る皺を増やして笑っていた。


 どう反応したらいいのか分らず苦笑いを作って答えていた。そんな滉大の反応すらも楽しんでいるのか、金村さんはずっと笑顔だった。


 金村さんの家は、二階建ての一軒家にひとりで暮らしている。息子夫婦は少し離れたマンションに住んでいるとか。旦那さんは三年前に他界し、その時から母がたまに顔を見にいったりしている。きっとこうして許してくれるのも、その甲斐があるのかも知れないと、心の奥底でひっそりと思った。

 

「そうだ、さっきスーパーに行ったら、枇杷が安かったからたくさん買ったの。よかったら食べて」と言ってあらかじめ小袋に入れていた枇杷を五玉ほどもらった。


「こんなに、いいんですか」


「いいの。いつもいいものを聴かせてもらってるお礼」


「ホントにすみません。ありがとうございます」


 肩を窄めて額に汗を滲ませながらお辞儀をして、自分の背丈よりも低い門扉を開けて逃げるように家のなかへ入った。

 こういうときほど自分の人見知りが顕になるなと、またため息を吐いて情けなさを覚えた。


 家に入るなり、玄関のすぐ横にある練習室にそのまま入り込んだ。

 明りをつけてしっかり扉を閉めたのを確認し、荷物と貰った枇杷を低めのテーブルに置いて、詰めれば三人は座れそうなソファに横になった。


 閉じたまぶたの上に腕を置いて光を遮り、反対の腕はソファからぶら下げて、今はこの防音室の無音さに救われる思いだった。


 疲れた。いろいろ。

 ぶら下げた腕をがんばって伸ばして、リュックの中に入ってるペットボトルを取りだして、起き上がってから水を口の中に含ませた。そしてまた横になった。

 乗せた腕にできた隙間からうっすら横目でピアノを覗いた。


 やはりここにいるとピアノに触れて練習するのが日課で、それがルーティンになっている。ただ眺めているだけというのは変な気分になる。


 でも、今日はそれがよく分かる。


 静まり返る部屋でどれだけ時間が経ったのか。しばらくすると身体が自然と動いていた。

 横長のピアノ椅子に座り、ピアノの鍵盤に被せた黒い艶のある蓋に手をかけた。


 いつもより重たい気がする。鍵盤に触れて繊細な音が響いていく。どこまでも響きそうにない音だ。


 ピアノの音を脳内の記憶から細胞に至るまで呼び起こしてリズムを奏でていく。それから今の課題でもある学校でも練習した「パルティータ二番」を最初から最後まで通して弾いた。


 白と黒の鍵盤のように二色しかないと思わせながら、溢れるような音が多彩なメロディを奏でて聴こえてくる。

 それを無意味とわかっていながら、無心で何度も、まったく違う音色を繰り返し鳴らし続けた。


 家の中は静かであると思っていたが、たまにピアノのメロディが家のなかに響いてきては、部屋を出て二階にあるリビングにまで駆け登って聴こえてくるのだと、この家では会話よりもピアノの音の方がよく耳にする、と父さんは笑いながら言っていた。

 そんな不注意が原因で近所迷惑になっていると思いきや、隣の金村のおばあさんは至って和やかに許してくれる。


 いつかちゃんと演奏を聴いてもらいたい。喜んでくれるだろうか。でも、そうしたらどんな曲がいいだろう。あれやこれやと考える。温かみのある曲なんかよさそうだ。何かリクエストをもらってもいい。

 そんな感謝を伝えられる曲がいいなと考えながらも、しかし今の自分にそこまでの実力があるのかという疑問が、指が止まり、演奏は止まった。


「コンコン」

 ドアのノックする音が響いた。

 勢いよく扉が開いて母の景子が眉間に皺を寄せて入ってくる姿に、ドキッとした。


「帰ってるならちゃんと顔をみせなさいよ。さっきメッセージ送ったのに返事もないんだから」

 語気が強い。母の荒い息づかいが、硬い物を壁かどこかにぶつけた音のように聞こえてくる。


「ごめん、バッグに入れたままだから気づかなかった。何か用事とか、あった?」


「いつ帰ってくるのか知りたかっただけよ。帰ってくるときは連絡してちょうだい」

 矢継ぎ早に返ってきた。


「わかった。ごめん」

 一瞬、脳裏を過ったことが無意識に口から出ていた。

「あと、隣の金村さんから枇杷をもらった」

 と言ったところで、あ、と心のなかで声が零れた。火に油を注いでしまったんじゃないかと、そう思ったときにはすでに遅かった。


「え、なにそれ。なんでもっと早く言わないのよ。尚更、早く言いに来なさいよ。もう遅いから明日にでもお礼いわなきゃ。ピアノなんてやってるから、籠もってばかりいて」


 テーブルに置いてあった白いビニール袋に入った枇杷を見つけるなり、勢いよく中身を確認していた。僕は鍵盤を見下ろしながら反論もせず、今はそういうものなんだと言いきかせてその場をやり過ごした。


「もうすぐご飯できるから、早く上がってきなさい。いいわね」


 声のトーンがさっきよりも低く聞こえた。

 肩まで伸びる黒い髪が綺麗に切りそろえた形に纏まっった母のうしろ姿は、返事をするまでに、扉は閉められないまま、枇杷を持って部屋を出ていた。


 しょうがないと思いながら、立ち上がって扉をしっかり閉め直した。


 またピアノの音が鳴ると今度は沈むように重たかった。

 出したいと思って出したものと違う音が、ピアノからこぼれた。さっきと同じ鍵盤に触れているはずなのに、それが違うものに聴こえてくる。

 まるでピアノが、自分の心の声を代弁して音を選んでいるかのようだった。


 楽譜を立てたまま、鍵盤を見てため息が出た。


 練習している曲はよくならなくて、母さんはずっと苛立ったまま。もう疲れきって早く横になりたいはずなのに、なんでピアノを弾いているんだろう。

 ずっとここに座りつづけるしかできないみたいだ。それでは、本当にただ音を鳴らしているだけじゃないのか。



 指が自然と、ゆっくり、ゆったりと動いた。

 なんでもない音のつながりがころがって、ゆっくり速度を上げて別の曲を弾いていた。


 静かに重たく、どんどん沈んでいくソナタは

 湖面に浮かぶ一隻の舟に乗って、月が昇る暗い空と景色の中に独りでいる姿を、遠くから姿を見るように、それを見て見ぬふりをするかのように、暗く沈んで―――。



 昔、九つ上の兄がいた、ぐらいのことしか分からなかった。

 よく子供の頃は遊んでもらっていたらしい。どんな人だったのか顔すらももう思い出せない。リビングにある写真を見ればいつでも思い出すことはできたけど、それをしなかった。

 しかし、その兄のせいで母は苛立っているようだった。

 それは我が家の暗黙の了解であった。




「―――もう少し、こう」


 声――。

 ピアノの音に混じって聞こえた声が、不協和音を思わせ、数瞬、あの擦れるような音が過った。そのせいで我に返った。


「父さん。おかえり。もう帰ってたんだ」

 ふと見たそこには、父が腕を組んで立ち尽くしていた。


「ああ、さっきな。それにしても今の月光ソナタは、重すぎじゃないか」


 父さんは腕を組んで、握った手で口元を軽く抑える仕草をして、そのまま唸りながら考えこんだ。自分がなんの曲を弾いていたのか記憶がない。とりあえず、そうだったんだと確かめるように「そうかな」と答えて、首を傾げた。


「なんだか間が長いというか、迷いがあるような演奏だな。ひょっとして、学校や先生とうまくいってないのか?」


 なんて答えたらいいのか黙ってしまった。

 鍵盤に視線を落としていると、父さんは続けた。


「どんな世界も、そこで生きていくのは生半可ではいられないしな。ひとつひとつ練習でもなんでも積み上げていくことしかできない。だけど、もっと大事なのはお前がどうしたいかだよ」


 がんばれと言わんばかりに父さんは笑みをみせた。


「つまり、叶う恋も、叶わぬ恋も、進んでみないと何も分からない、ってことだな」


「なんでそうなるんだよ」

 うわずる声が余計に誤解を招きそうだった。


「そうなると、ピアノももう少し大きいものの方が音の出方もいいし、よかったよなあ」


「そんなこと言ってたら、また母さんに怒られるよ」


「まあ、そうだな。今日も一段と、ピリピリしてるようだしな」

 それはと、言いかけて止めた。


 さっきまで弾いていたらしい、記憶がないからもう一度とは言えないが、父のリクエストで今練習している曲を弾いた。

 すると、母の声がピアノの音を跨ぐように聞こえてきた。防音室なのにどうしてと思うと、扉が微妙に開いていた。

 父が入ってきたときのせいだと、滉大はまた心の奥で思った。


 二階へ上がり廊下を歩いていくと、U字型のシステムキッチンが明るく広がり、そこに隣接したテーブル、テレビ、ソファとローテーブル、そしてキャビネットを並べたリビングが顔をみせる。そこには腰より低めのキャビネットもあって母のものが飾られてある。小物から家族の写真まで。そのなかに数枚、兄の写真も立てかけてあった。


 テーブルの上には、ひとつの皿にハンバーグが取り分けるように盛られ、またポテトサラダに、ふっくらと湯気を立たせた白いご飯が用意してあった。


 父はいつも頭が上がらない様子で「ごめんごめん」とよく言っている。

 どうしてか訊くと、その方がうまくいくと言い、例え近しい人でもひとりの人間である以上、一〇〇パーセント理解し合えるものではないからだと。近ければ近いほど、それが大事な人ほど、お互いに理解していこうとしないと、と言っていつも「ありがとう」と言うのだと。


「ごちそうさま。また練習してくる」


「あまり無理しないようにね。ちゃんと寝る時間とってね」


「大丈夫。わかってるよ」


 今回はそれ以上言ってくるものはなかった。階段を降りてまた練習室に入る。今度はちゃんと扉が閉まっているか確認してピアノに触れた。

 夜の十一時を過ぎて。明日もまた朝早く起きて練習して、この曲をできるようにしないと次のレッスンで新しい曲にいけない。もっといろいろ弾けるようになりたいと思うのは変わらない。


 ソファに置きっぱなしになっていたバッグを持って、部屋に戻ろうとしたとき、携帯をバッグに入れたままにしていたのを忘れていた。取りだすとメッセージが来ている。


 進藤からだった。

 明日の夕方、日野も一緒に夕飯食べに行かないか、という内容だった。明日も学校と練習以外の予定はない。すぐに、ごめんのあとに「行ける」と書いて返した。うつらうつらとしながらピアノ椅子に座り、また練習を始めた。


 ピアノの連弾がいたるところに音を転がり散らして、同じところを何度も弾き直し、楽譜と睨めあいをしながら夜遅くまで、納得がいくまで弾き続けた。

 たまにピアノの下で寝転がってうまくできない自分に嫌気を刺すときもあるが、また練習に戻ってずっと部屋に籠もった。


 音大の三年になっても練習を欠かさずにやらないといけない。寧ろピアノを弾いていないと落ち着かないし、この先の将来、これで本当にピアノだけで生きていけるのか自信がない。

「もう少し」と言いながら繰り返し練習して、最後は自室のベッドに倒れ込むようにして眠った。


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