3話
目が覚めると、何も聞こえない静寂とした冷たい空気が、頬にひたりと触れた。
カーテンにぼんやりと透ける外の明るみも、まだ暗さが残る藍色の空でも、微かに部屋のなかに影を落として、少しずつ音を拾っていく。
車の走る音に鳥の鳴き声も、自分がどこにいるのかさえも、薄暗い部屋の白塗りの天井を呆然と眺めながら寝る前のことを思い出していた。
薄ら眼に映していた光景にまた暗幕を下ろした。
閉じたまぶたの上に腕を置いて、夢と現実を行き来した。
――――その時、電子音が部屋中に響いた。
とくに頭の中によく響いた。スマートフォンのアラーム機能がもう起きる時間だと告げていた。これで起きれないと、あと三十分ばかり断続的に鳴りだす。
その前に滉大は布団から身体を起こし、足をフローリングの床に着けると、冷ややかな室温に身体の温もりがいっきに冷やした。
時計を見て、目覚ましより早く起きていたことに損をしたような、そうでないような、しかし今日は―――。
自室には、子供の頃から使っている勉強机と、自分より背の高い本棚に、寝ていたベッド以外はクローゼットのなかにしまい込んだだけの、ミニマリストのようなさっぱりとした七帖ほどの空間が広がるだけだった。
そこに鈍く影が落ち、あるようで何もない部屋が拡がっては、何もない部屋がゆえに視界は閉塞していった。
眠気も再びやってきて負けそうになるが、今日はいつものように眠気に負けそうな自分を起こした。
不意にフローリングの継ぎ目に沿って視線が、まだ暗い部屋の隅に止まった。
一瞬、息を呑んだ。
明るい方から暗い方へと動かしていくうちにだんだんと息苦しくなっていく感覚に陥る。
これは緊張か、恐怖心か。そこに誰かがいて見られているような、でも、誰なのか。
ただ部屋の隅をいくら訝しんでみても、目を逸らしてみても、そう思い込んでいるだけで実際には何もなかった。想像力が見えない何かを見ようとする。
そこに映るのは、いつもと変わらない朝の光景でしかないというのに。
部屋が暗いと余計なことばかりを考えてしまいがちになる。
そんな頭に乗っているものを振り落として、部屋をそのままに出ると冷たい空気が、まだ温かい身体をさらに冷やした。
七帖ほどのからっぽの部屋を後にして、そのまま三階の自室から一階の練習室まで階段を降りていく。
外ではホゥホゥとキジバトの鳴く声が聞こえてきた。でも、未だに鳴いているところを見たことがない。もしかしたら鳥じゃなんじゃないかと想像力を膨らませてみても、結局どうでもよくなって考えることを止める。
そうこうしているうちに時間ばかりが過ぎていってしまう。そんなことよりもピアノを練習する方が、今の自分にはとても大事である。
顔を洗ってまだ眠気がとれないままピアノの前に立った。窓から入った僅かばかりの明かりが、グランドピアノが顔をみせるように、薄っすら外の明かりをうつしていた。
「今日は――――」と、
静寂とした誰もいない練習室で、声が床に零れた。
背もたれがない横長のピアノ椅子に座わり、だんだん目の前の白と黒の鍵盤から音がひとつ浮かぶように、ピアノの演奏が聞こえた。
聞き覚えのある曲が流れた。
これは今練習している曲、バッハの「パルティータ二番」じゃなかったか。序奏にある重たいメロディが流れ、それは何百回と弾いた自分の演奏だった。
ハッとして、目が覚めた。
「――――夢…」
いつの間にかピアノ椅子に座ったまま眠っていた。そして自分の下手な演奏の夢を見る。お粗末な話だ。
カーテンから透過した早朝の明りに反射して鍵盤が藍色に染まっていた。
一音、鳴らして、肌に張りつくひんやりとした空気を揺らした。
調子を聞くように耳を澄ます。――――うん、いつもの音だ。
音が消えて、このしんとした静けさのなかでは、心の声までもがざわざわと聴こえてきそうだった。
無音の中にため息が混ざりこんだ。
親指と人差し指で閉じた瞼から眉間を軽く押さえて、まずは頭から弾いてみようと、鍵盤に両手を乗せて動かしていった。
カップに注いだ水を溢しそうになるような、どんどん不安になるバッハの曲が流れた。さらに重く感じる。
またちょっとずつ音程が乱れていく。
何かに引っ張られているようで、音が床に散らばって徐々に弾みを失くしていっているようだった。
これではただ音を鳴らしているだけで演奏ではない。昨日から置きっぱなしの楽譜に書かれたメモの数々が、頭のなかでごちゃ混ぜになって渦を巻いている。
もう一度。
もう一度。
何度も繰り返した。
収集がつかなくなっていく感覚が拭えなかった。
うずくまって身動きが取れない、そんなイメージが悲しく連想できた。
〝―――コウタ〟
白い鍵盤に触れていた指が置き物のように止まった。
暗い隅に誰かいるのかと、息を飲んで全身に力がはいった。
―――今日は、寝覚めの悪い朝だった。
家の、電話が鳴った。
いつものように受話器をとって出ると、雑音か、受話器のスピーカーの奥で何かが聞こえてきた。
何を言っているのか分からないぐらいに震えている。
小さくて、けど既視感のある声、だった。
違うと気づいたとき、受話器から聴こえてきたものに全身が凍りついた。
誰の声か判別できないほど酷い声で泣き叫ぶ、母の景子の声が耳をつんざき、胸が高鳴った。
緊張が走った。何があったのか聞こうとしても、自分の声が栓を止めたかのように出てこなかった。
恐怖が視界を支配したかのような、足がすくみそうで立っていることも限界だった。息をすることもどうしたらいいのかも分からなくなっていた。
咄嗟に異常を察した父の哲也が無言で受話器を取り上げてくれなければ、何もできなかっただろう。
母の声を眉間にしわを寄せて聞き取っていた。
横に立っているだけで、密やかに聞こえてくる母の震える声がした。
「分かった。今からそっちへ行くから…」と父は言って電話を切った。
受話器を置き、父の視線が振り返って僕に向いた。
「滉大、お前は留守番しててくれ。今から佳祐の、母さんのところへ行ってくるから。後でおじいちゃんかおばあちゃんが来てくれるから大人しく待ってるんだよ」
それだけ言って父は家を出ていった。
父の目には余裕がないように見えた。顔も固まってしまったかのように表情が読み取れなくて、何を見ているのか分からない眼はまっすぐとしていたが、滉大を見ているようで別のものを見ているような気がした。
家の扉が閉まると同時に、静寂が滉大の身の回りを包んでいった。
夏のじめじめとした空気が青褪めた頬にベタついた。ただ立ち尽くして膝の震えを感じたのは、それから少ししてからだった。
三時間ほどしたところで父から電話がかかってきた。
受話器を取ろうとした瞬間、さっきの母の声がよぎった。
電話をとると、最初にひと言、兄さんが亡くなった、という言葉が、うまく耳に入ってこなかった。胸の奥でその言葉を何度も唱えて飲み込んだ。
それから母さんは取り乱してはいるが傍にいると父は言って、まだ帰れそうにないと続けた。
「わかった」と返すことしかできなかった。
曇った空を見上げて、落ち着かなかった。
兄と会話したのなんてもう何年も前で、顔も碌に会わせることもなかった。昔はそんなことはなかった。急に距離ができてしまった感じだった。だからなのか、兄の死が実感として沸いてこなかった。
ただそれを受けて、分かったと、答えるしかなかった。その言葉通りに。
何かが胸の中にぽっかりと空いて、それがなんなのか分からなくて、葬式の時も悲しいのか分からないまま、顔も見ることなく火葬されて灰になった。気づいたら墓の前に立っていたぐらいだった。
あの日は夏が終わりかける、ひんやりとした空気が雑ざる風が吹いていた。
そっと何かが触れた感覚を残した。
忘れていたわけではないそれが、風が吹き抜けて巡っていった先に、自分とは違う方向を向いてその人が立っていた。
顔は分からない。
覚えていないから。
でも、背丈も僕と同じか少し高い気がする。
青いジーンズに白い半袖シャツから細身の腕を覗けさせ、黒髪が自然と乱れている。
その人は何を見て、何を考えていたのだろうと、最近になって思うようになった。
いや、あの時も考えていた気がする―――。
ハッとしたと同時に、息を止めていていたことに今になって気づいた。
俯いた手もとから、いつもの譜面台に置かれた楽譜が視界にはいる。
いろんなメモ書きがある。
すべて自分で書いたものだ。気づけば、動かなかった指もまた動くようになっていた。とりあえず、でたらめな演奏が止まってよかった。
―――昔の記憶をみた、嫌な夢だった。
ベッドのシーツは汗で湿っていた。寝返りを打ってもすぐ肌に吸いついてきて、背中に気持ち悪い感触が電流のごとくめぐった。
掛け布団も蒸し暑くて不快感が纏わりついてくる、嫌な寝覚めだった。
瞼を閉じたまま判然としなかった意識のなかで時間だけが過ぎて、スマートフォンの画面をみるとその明るさが眩しくて、起き上がっただけで涼しさが背筋を走り抜けていった。
夢を見ていたと、息継ぎをする魚のように口を開けて息をしながら床のフローリングに目がいっていた。
何も聞こえてこない夜明けの静けさ。この世界には自分ひとりしかいないと思わせる空気感が、整理された白と黒の鍵盤のように思えた。
息をひとつ吐いて練習室のカーテンの薄明りを見ながら、夢のなかで見た情景を重ねた。
今とは違う、以前住んでいたマンションでの十二歳のころの記憶が問いかける。徐々に明かりが広がるにつれて、見た嫌な夢は薄れて消えていくのにそれを何度も思い返した。
夜遅くに玄関ドアが閉まる重たい音も、フローリングを歩く母の部屋の前を通る足音。そして話し声が聞こえてきて、微かな明かりとともに母のか細い声がはいる。
そして、ぽつりと勉強机に灯る明かり。
すべて、暗闇の音の記憶だ。
いつの間にか、練習していたでたらめなパルティータが消えていただけではなかった。音のひとつすらもなくなっていた。指を動かさなければ当然ピアノは音を発しない。
当たり前だと、心の声がボソッと答えていた。
白と黒の鍵盤の上で指が自然と動いて何かが溢れていった。キラキラしたものというよりも、もっと別のものが、指から零れ落ちた。
小さく繊細な音――。
静かに、緩やかに移り変わっていく音の数々が流れていく。濁りがない幻想的な雰囲気に包まれる曲――。本来ならそうだった。
月明りが射しこむ湖に一隻の小舟が揺れていると、それをそう言った人がいる。そこから「月光」または「月光ソナタ」とよく言われるようになったらしい。
流れる悲壮感を思わせるメロディ。それは、言いたくても言えない言葉を胸に抱えながら生きる、苦しむ人の姿をうつしているようだと。
ピアノの音の数々が水面から暗い底へと沈んで逃げられない何かに囚われる、そんな様子を想像させる。
そしてこの演奏は突然止まる。
ピアノの音はいつも最後までいくことはなかった。
指が鍵盤に張りついたまま、最後の一音が途方もないどこかへ飛んでいく。静寂に包まれる練習室で、息の仕方を忘れたかのように身動きひとつできなくなった。
その時、何かが軋むような、擦れる音が聴こえた。
いつも聴こえてくる音。ただの聞き違いなのか、それとも自分で何かやっているのか、少し前からよく起きていた。
呼吸をして、力んだ指や腕の筋肉を緩めた。
陽が昇り部屋に射しこむ陽射しが半分を占めようとしていた。もう一時間以上も経っていたことに部屋の時計を見て分かった。
それ以前に、本来のこの曲とはだいぶ違う。音階もめちゃくちゃで重すぎてしまう。
自分で自分が何をやっているのか、時間も無駄にして、もっと練習しないと。
「―――コウタ」
胸が、ドキッと高鳴った。
「もう学校に行く時間じゃないの?」
静寂を切り裂く母の声だった。
さっきまでのことが脳裏を過った。
開いた扉の先で、母の景子が体を半分乗り出して怪訝な表情を浮かべていた。
「学校は…」
ぼんやりとしながら音の途切れた残響の中で意識が揺らいでいた。正直、母さんが何を言っているのかわからないぐらいに動揺している。もうそんな時間になっている実感が持てなかった。
「サボったらビンタだからね」、と母は視界から消えていった。
腹の底のあたりがひりひりする。母の放った言葉が呪いのように疑問が沸き起こる。携帯の画面を急いで覗きこみて、認めたくない表記が目を覆いたくさせた。
まだ間に合うが余裕はなかった。




