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2話




「わたしからいい?」


「どうぞ」


「何をやるの?」


「サン・サーンスのハバネラをやりたいの」


 自分の楽器の手入れをするもうひとりの友人を横目に、一度まぶたを閉じてその曲の記憶を辿り、譜面に目を通して、ピアノを少し弾いて調子をみる。


 ――――大丈夫そうだ。思い出してきた。


「うん、やろう」


「ありがとう。それじゃあ、よろしくお願いします」


 ひと纏めにした黒い髪を下して、日野はヴァイオリンを肩に置き、手に持った楽器を見つめながら弓を弦に乗せて構えた。ぱっちりした目は閉じかかるぐらいに開き楽譜に視線を落とした。



 優雅で甘く、穏やかなひとときを抱かせるような華麗な音色が流れた―――。


 そっとささやかな日常の物語を描くように、ゆったりと揺れる特有のリズムに細かく強弱をつけたテンポが、心地よく響かせる。

 そこに坂を下るような、緩急をつけた音色が耳に残す。


 メランコリックな物憂げに情熱的な表情をみせる旋律には、暖炉の火が揺らいで躍る光景を前にしているような印象を浮かばせる。

 どこか、ものを想わせるような、何かを感じさせるようでもあった。

 それは、思い人なのか、故郷か、それとも――――。



 入りはよかった。タイミングを合わせて始めることができた。あとは技巧的にしっかり演奏ができるかどうかであった。

 しかし、徐々に楽譜とヴァイオリンの弦と弓の運びに視線を行ったりきたりさせる日野の様子に、少しずつ慌ただしさが出てきた。


 ピアノを弾きながらソファと木製のローテーブルを映りこませつつ、真剣な眼差しの日野の顔つきに曇がかかっていた。綱渡りをしているような、つい拳を握ってしまいそうになる緊張感が、気づけば漂っていた。


 日野は、進藤を入れたこの三人の中ではまだ経験が浅い。この曲で気をつける点はいくつもあるが、案の定そうなった。


 演奏が半分ほどきたところで日野は、眉間に皺を寄せて息苦しそうに表情を面々と変えていった。

 徐々に道を外れていく音に、いつ手を止めてもおかしくなかった。それでも日野が弾き続けている以上は、滉大も演奏は止められなかった。


 その真剣な眼差しには針の穴に糸を通そうとするような、集中して感覚を研ぎ澄ましながら何かを掴もうとしている気迫があった。


 最後の一音を弾き終わり、弓を弦から離した。

 下を向きながら息を吸って吐いた。


「ごめんなさい、やっぱり難しかったね」


 眉をひそめる日野の声は少しずつ消えていった。

 ソファで腕と足を組み、たまに天井を仰いだりしながらも真剣な眼差しで聴いていた進藤が、ため息を吐いてから感想を呟いた。


「…力み過ぎ。音を外しているというか、細やかな付点リズムに強弱のあるテンポだったりと、技術面でもいくつも様になってないところがあった。強いて言えば、核となるリズムがフラフラしてるよう感じだったな。途中から別物に聴こえたというのが正直な感想だな」


「別物か。練習はしたんだけどなぁ…」


「例えば、ダブルストップや速いパッセージとかも、もっと練習しないと大事なところがうまくいっていないし、指の使い方がいまいち、ぎこちなく感じたかな」


「うん…」


「だから、それをもっと――」


 実演を交えての指導がはいるその間、日野は黙って、目をまっすぐ向けながら真似てみせた。

 指の動きがこんがらがっていくように、またぎこちなくなっていく一方で、暗闇で進むべき進路を見つけたかのような、何かを掴みつつ、といったところだった。


 日野が弓を止めた瞬間、息を吸って吐いた。


「…ハハハ。うまくいかないなぁ。やっぱり難しいね」


「あとは表現力と音楽性…とか。この辺は言わずもがなじゃないかな」


「うん、ありがと。がんばるよ」

 演奏前にくらべて年嵩(としかさ)がひと回り以上増したかのような、肩を落とし背中を丸めて顔には覇気がなかった。それでも手に拳を握って、残りの力を振り絞って応えていた。


「なにごとも、積み上げていくことが大事なのは変わらないから。この曲をやること自体、深い音楽性と技術を習得していく上では、ある意味で挑戦的でもあるしいい機会だと思う。練習もしなくちゃ弾けるものも弾けないままだし、もっと、もっと、要練習だな」


「うん、そうするよ。いろいろありがと…」


 日野はいつもそう言って、数日後には概ね弾けるようになって現れる。中学生の頃から始めたと言って、何がきっかけだったのかまでは話してくれてはいないが、それでも、きっと今回もそうなるだろう。

 いつも明るい印象を受ける一方で、遠い場所でも目指しているとでも言いたげな熱情が、たまに演奏をとおしても聞こえてくるようだった。


 人の熱情はすごい。

 この部屋もクラシックファンである父がこの家を建てる際に、一階を丸々防音室にしようなんて言ってこんな練習室を作ってしまった。そのお陰で友人ふたりがたまに練習しにくるし、滉大は年中ここで朝から晩までピアノの練習ができた。

 そんな父親はたまに聴きにきたりする。ここまで来ると改めて恐さを感じるようであった。


 今日も光輝くピアノ線をつたって響いた音が、肌に触れて鼓膜を揺らし、またひとつ部屋に零れてはあふれては、遠のいて消えていった。


 それでも、音は記憶に残り続ける。


 いつだったかの小さい頃の記憶は、キラキラの音と暗い音しかなかった。世界にはいろんな音で満ちて輝いていて、ピアノを初めて知ったのは滉大がまだ六歳のころだった。今では音大にまで通い、調律された音の世界にいる。


 ソファに座る日野と交代した進藤が整然と立ち、背筋を伸ばしてヴァイオリンを悠然と構えた。その動きに合わせるように楽譜を別のものに変えた。


「曲は昨日と同じでいいの?」


「ああ、頼む」


「それじゃあ――」


 ピアノの鍵盤に指を置いてひと呼吸した。いつものルーティンのようなものだった。滉大のピアノの演奏が場を作り、二人の演奏を支えるように伴奏の仕事をこなしていく。

 そうして学生生活の三年間、何度も何度も繰り返し練習して、弦を揺らし、音を鳴らし、音色を響かせた。流麗というよりは、道に転がった石ころを拾いあげるように、ほとんどの時間を音楽一色に染めていた。


 外では四月に吹く春の風が冷たく頬を撫でた。

 この寒さはまだ続くらしい。けど、これから暑くなっていくことを考えるとまだこのままでいいかも、と思う自分がいる。暑いのは苦手だ。


 進藤修一の演奏がもう終わる。

 理路整然とした演奏はお手本のようであった。教え方も分かりやすいし、先生に向いているのでは、と思ってしまう。

 しかし、どこか演奏は抜けきらないものがあった。演奏が終わった本人の浮かない顔を見ていると、自身が一番わかっていると言いたげな素振りをしていた。


「やっぱりうまいよね」


「そうでもないよ」


 進藤はあっさり否定して、日野が座るソファの横に腰を下ろすと今度は黙々と楽譜を見つめて、たまにメモをしたりして自分の世界に入ってしまった。

 日野も指摘があったところをひとりで練習したり楽譜みたりと、ぶつぶつ声を漏らしながら練習している。


 ふたりの様子を眺めながら滉大は鍵盤の蓋を一度閉めて、ふたりの個人練習が終わるのを待った。

 そうしたらまた楽器を手に持ってやってくるのだ。

 コツコツ、黙々と。


 しばらくして日野が口火を切った。


「わたし、今度これやりたい」


「いいけど、カラオケみたいなノリでくるよね。いつも」


「今度のは、学校の課題だから」


「今度のはって、また?」


「ある意味で、課題、かな」


 照れくさそうに笑う日野に、滉大は首を傾げた。


「じゃあ、よろしくー」


 そう言って、また定位置でヴァイオリンの準備を始めていた。

 この練習室には、父親の完全な趣味から蒐集された数々の楽譜が、棚に並べられてあった。その中から日野の課題曲の楽譜を探す。ここにはある程度揃えられているのがまた恐ろしかった。今となってはとても助かっているのだから、畏れ多くて何も言えない。


 シューマン、リスト、ワーグナー、サン=サーンス、バッハ、ベートーヴェンなど様々な名前が並んだ。


 探しながら思った。

 これだけ集めるのにどれだけの時間を費やしたのだろうかと。父親自身はまったく楽器を弾けないというのに。


 ふと、日野を横目で見た。

 さっきまでと雰囲気は違い、楽譜を真剣な眼差しで見ながら、ヴァイオリンを構えて練習している。

 それでも、どこか楽しそうだ。

 さっき話しかけられたときも、時折、その笑みが眩しく思えた。



 昨日のことはなかなか忘れられなかった。学校のベンチで居眠りしたときのことは、当分はっきりと覚えているだろう。でも、そこでみた夢のことも感覚的に覚えている。


 そのなかで縮まりこむ自分の姿は印象的だった。何かを恐れているのか、不安なのか、どうしてそんな自分を映したのか分からなかった。今もそうなっているんじゃないかと不安が過る。

 どうしてだろう。

 ピアノが弾けなくなる方が恐いだろうに。


 潮の満ち引きのように、引いては満ちて、引いては満ちてを繰り返した。

 その先の思考を否定するかのように。

 いつものように、ピアノが弾けるように。


 滉大はまた楽譜に目を下ろして、ピアノを奏でた。


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