1話
肌寒い風が吹いた。
木陰が伸びるベンチを見つけて、そこでひと休みしていると、風に乗せてピアノの音が微かに聴こえてきた。
都心にある音楽大学のキャンパス内には土曜日でもちらほらと歩いている人がいた。石田滉大は木製のベンチに座り、バッグから取り出した一通の手紙を片手に、寄りかかったまま首をもたげては、つい眼を細めて息と声が漏れていた。
そのとき、ふたりほど目の前を通り過ぎる足音がした。
揺れる枝葉の隙間からチカチカと白い光が、まぶたを開けた瞬間に差しこんできた。眩しくてつい目をつぶると、その裏で連鎖的に一年前のことが脳裏を掠めた。
家のリビングにあるキャビネットの引出しに入っていた外国語で書かれた手紙の束。それを偶然見つけてしまったときのことである。
封が開けられた中には、短い日本語の文章と外国語で書かれた手紙が入っていた。ただ一見しただけで内容をちゃんと読んだ訳ではなかったが、そこに書かれていた宛名に思わず息を呑んだ。
よくないと思いながらもどうにも気になってしまい、こうして持ち出してはいるが、まだ一度もその中身を読んだことはなかった。どうでもいいと言えばよかったし、見て見ぬふりしてもよかった。それでも、気づくとあのキャビネットに視線が向いていて、その引出しの前に立っているのである。
今日は肌寒いがまだ暖かいと感じられる四月の、過ごしやすい土曜の午後のことだった。
ふと思いだし、ポケットからスマートフォンを取り出して、友人にここで待っていると、メッセージを送った。
先にレッスンが終わった方から連絡することになっていた。向こうからの連絡が来ていなかったことから、まだ終わっていないのだろうと察せられた。
友人が来るまでに少し目を通しておこうと思っていたが、いざ見ようとすると他のことばかり考えている。今はさっきまでのピアノのレッスンでのできごとを巡らしていた。
そのことを思い返すと、またため息が溢れた。
先生とのマンツーマンのレッスンで言われたことが、今でもはっきりと目に浮かんでくる。足を少し伸ばして気の抜けた格好を晒して、目を閉じていた。
どうしてできないんだろう。
両手で顔面を抑え、降りそそぐ光を遮り、悶えるような声が滲み出ていた。
昨日の夕方から今日の朝方までピアノに張りつくように練習してレッスンに挑んだのに、ダメ出しされ、注意されることばかりだった。指導が入るたびに指の動きがどうにも硬くなっていくようで、改善できないまま今日のレッスンが終わってしまった。
しかし、追記を許されるならば、今日の先生は些か機嫌が悪いように見えた、気がしたのである。
きっと、また彼氏と喧嘩したのだろう。いい歳して、人を見る目というか、音楽以外は―――。
あのキラキラする光を見ながら、どうすればよかったのかを考えていると、だんだんうつらうつらとしていくなかで、滉大の耳にうっすらと何かが触れた。
微かに聴こえてくる、ティンパニ、オーボエ、ホルン、クラリネット、ヴァイオリンにその他いろいろな楽器の練習する音色が、重なり、交ざりあっていた。
校舎の方から壁を通して聴こえてくる音の数々。今のこの世界をつくっているのはこの元素たちだろうと滉大には思えた。
それがあるからこれがあり、世界はコインの表と裏のように、絶対的事象はありえず相対的事象でなりたっていて、川の流れのように科学変化を起こしながら状況とは常に変化し続けるものである。
世界を彩る音は、ここから生まれる音楽家が奏でて、いづれ世界を本当に作っていくのだと、クラシック音楽ファンの父さんが言っていた。
できないことも、練習を続けていけばできるようになると。それでも、うまくいかないジレンマが、ほくそ笑むかのようにして纏わりついてくるのであった。
肌寒さがあるにもかかわらず、今日のこの暖かさがなんだか別の世界にいるような心地にさせた。湿った空気が春を感じさせるような。
もう少しすれば、ここで待ち合わせてる友人も来るはずだった。このままここで寝てしまいそうな危機感を持ちつつ、全身の力が抜けていく感覚と同じくして意識はだんだん深く閉じていった。
「――今度はどう?」
急に入ってきた声に滉大は視線を向けた。
振り返るポニーテールが綺麗な流線を描いて、日野沙耶と目があった。弾き終わった曲の感想を、目を丸くした日野が質問を投げかけていた。
滉大は問題ないと答える。
最初に弾いてから一週間ですでに遜色なく聴けるぐらいになっていることには驚いた。
「ホントに? ありがとう」
目を丸くしてから満面の笑みが返ってきた。
どうしていつも上手くなってやってくるのかがちょっとした不思議だった。誰かに教わっている話は聞いたことがなかった。それは一重に練習量の賜物なのだろうと感心を超えて尊敬するところだった。
そうでなければ才能かも知れないと思うと、つい自分を重ねてしまいそうになる。
日野はいろんなことをあれこれと考え過ぎているように思えた。それをもっとうまくなれば上達はさらに速いのではないかと思えた。
「じゃあ、今度は学校の課題のほうを」
そう言って日野は手提げのバッグに手をかけた。
今のは違うのかという疑問を、滉大は反射的に聞き返していた。
手提げのバッグから水が入ったペットボトルを取りだして口に運ぼうとしていたところで、日野はまた目を丸めて首を横に振った。
「今のはただ弾けるようになりたかっただけというか。でも、ちゃんと課題のほうも練習してきているから大丈夫、大丈夫」と、どこか余裕のある表情を浮かべて答えていた。
「バイトもまだやっているんじゃなかったっけ。それは余裕というやつですか」
「なにそれ。余裕なんて全然ないし。でも、やることはいつもと同じ。練習あるのみ、だから」
「それでダメだったら、どうするの」
「そうならないようにいっぱい練習かな」
いつものように日野は笑いながら答えた。
まっすぐに返ってきた声に、卑屈めいていた滉大の口は閉じていた。見下ろすと指先が縮こまって、いつの間にか猫の手のようになっている自分の手を見たら、自分が練習するピアノの曲を思い浮かべていた。
「そっか。そうだね」
喉の奥でなんとか見繕った言葉を搾り出して、白と黒の鍵盤に指を乗せて弾き始めると、枝葉の擦れあう音が耳を吹き抜けるように掠めていった。
「――コウタ/
石田―――」
誰かの声がして光が眼を刺した。
頬に風が触れた。
陽光の揺れる様子が、目に入ってきたその反射で反っていた首をかえした。
「痛っ―――」
寝違えたときと同じだ。ずっと首を反ったままの状態でどれだけの時間をこうしていたのか。縮こまった筋肉を無理やり伸ばそうとしたために千切れそうな痛みが一瞬で全身を強張らせた。
しかし、ずっとそんな状態でいたことを考えると恥ずかしさが電流のごとく駆けめぐった。
「―――クククク」
首を抱えて悶える滉大の隣で、短い髪を茶色に染めた同い年の友人が、お腹を抱えて笑っていた。
「すごい格好で寝てたな」と、進藤修一は僕の今言われたくないワードをいとも容易く声に出していた。
その一瞬で顔の火照りが痛覚と一緒に、さらに増した気がする。なによりもこの場からすぐさまに立ち去りたくていたたまれなかった。
幸いにも、しばらくしたら痛みも徐々に引いていった。首を反らしていた時間はそんなに長くなかったようである。
「ごめん、ごめん」と言いながら涙目を拭って進藤は続けた。
「俺が遅れたせいだよな。すまん。それで、どうしたんだ。徹夜でもしてたとか」
「今日はレッスンの日だし…、それでもあまりうまくできなかったというか。調子が悪くてね」
首を押さえたまま歯切れの悪い、言葉が零れ出ていた。レッスンのときを思い出したら、つい言葉に詰まってしまった。
「まぁ、それなら分からんでもない。こっちも今日はボロボロだったしな」
少し間があいた。ふたりして地面を眺めていると、突然進藤が手を叩いて口火を切った。
「よし、じゃあとりあえず、昼飯に行くか。それから練習しよう」
「そうだな。カツ丼食べたい」
「いいな。行くか」
何だかんだやっていたらもう昼時を過ぎていた。
学校の外にあるチェーン店で美味しいと話していたとんかつの専門店に行った。昼下がりの店内は、人が疎らですんなり入れた。すぐに注文した丼ぶりが出てきて、ふたりして大盛りのカツ丼をがっついて食べた。
進藤も僕も細身な方だけれどよく食べた。やはり演奏するとエネルギーの消耗が激しいのか、それともただ食べ盛りなだけなのか。お腹がよく減る。
ただ先生とのレッスンは緊張して、よりお腹の減りを感じる。
同じところを何度も繰り返し注意され、何度も試して、また注意されて教わる。終わったあとは疲労困憊で、家に帰ってすぐに横になりたい気分の日も多かった。
今日はふたりしてよくご飯を食べたあと学校に戻って、練習室でお互いに弾きあって意見を出し合いながら練習した。しかし、十七時を過ぎたところで徐に限界がきた。
進藤はパイプ椅子から立ち上がれず、滉大は何を弾いているのか分からず、そんな何も分からない状態に気づくまで自分たちが何をしているのかすらも分からなくなっていた。
外は茜色の空を塗りつぶそうと、群青色の暗い影に覆われようとしていた。
「今日はここまでにしよう。もう時間だ」
壁に掛けられた時計を見て、練習室の借りられる限界の時間になろうとしていた。滉大は少し横になりたい代わりに伸びをして、「確かに、今日はもう限界だ」と返した。
「じゃあ、また明日だな」
そう言えば明日は家の練習室に集まって一緒に練習しようと約束をしていた。あの父親の自慢の練習室で。
滉大は適当に答えて、最寄りの駅で解散した。
物音ひとつしない静けさに目が覚めた。
家の練習室にあるソファに、帰ってきてすぐ横になって、気づけば寝ていた。
暖色系の照明に染まる白色の天井を見上げて、呆然とした。
“――あなたはいつも一歩足りないわね…”
先生に言われたことが頭の中でこだまする。
何がダメなのかもう分からない。先生に言われた通り弾いてみるがうまくいかない。
どんどん指が強張ってくるのが分かった。どんどん失速していくのが痛いほど分かった。それからイメージがかけ離れていくのも、鍵盤から指が離れていく感覚が泣きたいほど伝わってきた。
この静寂さのなかで、一音、一音、音を拾うように音を編んでメロディを作っていく。ピアノの音が頭のなかで奏でていた。
重たく圧しかかって頭から離れない。それはそれで目覚ましのアラームのように、頭のなかでは同じところを何度もリピートして、今にもはっきりと聞こえてきそうだった。
――練習するしかない。
日野の声もまたリピートした。
しゃあない、起きるか。負けてなるものか。




