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6話




 約束の日はよく晴れた日だった。


 学校のベンチに座っていると、湿っぽい冷たい風が通り過ぎていった。


 ある日に見かけたその人は、もの静かな雰囲気を纏って、品のよさそうな外観にヴァイオリンケースを背負って、ひとりで校内を歩いていた。


 突然目の前に現れたときは驚いたが、本当に続けていたんだと、反射的に出てきた感想は遠目で冷ややかなものだった。


 そうして見ている自分がいたことに驚きはしなかったが、むしろ自分に対しての落胆が適当なところだった。それでも自分とは縁のない人だからと、それ以上気にすることはぜず、そのうちに視界から外れていた。


 近くで見ていたわけではないし、知り合いだったわけでもない。才能を持っている人であれ、辞めていってしまう人は多かれ少なかれいて、きっとそうなんだろうと思っていた。

 理由はどうあれ、その人が続けていたということはいいことではないのか。自分が何かを言えたものではない。


 しかしそれなら逆に、自分はどうなのか。続けていきたいのか、そうでないのか。どうしたいのか分からなかった。


 ピアノを辞めたら、誰も気にも留めない。通り過ぎていくこの風と同じように、ひとりになっていく自分が容易に想像できた。


 振り返えると、もうその場所には誰もいなくてなっていた。

 自分、ひとりだけ―――。





「――すまない、遅くなった」

 待ち合わせていた進藤が、息を切らしながら立っていた。


「遅い。どうしたの?」


「いや、練習室で練習を」

 呆れてため息が漏れた。それと同時に喉に詰まっていたものも一緒に出た気がした。


「ごめん」


「そしたら、早く行こう」

 急いで待ち合わせの場所へ急いだ。


 今日は日野とその人と三人で会うことになっていた。いつも伴奏の相談を受けるときは、日野が仲介役のようなポジションで場を設けていた。

 今日は何故か進藤も同席して、自分も話を聞いてみたいとのことだった。

 日野は、どうしてと言わんばかりに嫌な顔をして曇らせていたのを、滉大はすぐに思い出せた。


 道中、不意に過った。

「そういえば」、

 と言ったところで滉大は躊躇って続けた。


「練習室で、たまに変な音が聴こえなたりしない?」


「なにそれ、怖い話し?」


「そういうんじゃないんだけど…」


「ただの音なら、今でもそこかしこから聴こえてきてるし」


「それもそうなんだけど…」


「どうしたんだ」


「いや、なんでもない」


「やっぱり、出ちゃってたのか」


「いやいや、まさか。ちょっと…」


「まあ、あんまり気にしない方がいいぞ」

 滉大は適当な返事をして足取りを早めた。



 今日は学校の外にある小ぢんまりしたカフェで待ち合わせをしていた。

 遅れて到着すると、四人がけのテーブル席にいた二人の視線がほぼ同時に向いた。


「ごめん、遅くなった」

 進藤がいの一番に言った。


 知っているようで知らないその人の視線が、これまで会ってきた人より緊張を覚えた。


「いいよ、気づいたら時間が経っていたなんてよくある話だよ」

 日野の笑っているようで目がそうではなかった。おまけでついてくる人を待つ理由なんてないといったところだろう。


「練習してたら練習室を出るのが遅くなって、その…」

 進藤の眉は徐々にひそめていき、声は小さく、最後にすみませんでしたと言って、しぼんで垂れ下がった花のように背中まで丸めていった。

 今日の日野は少し怖い。


「私は大丈夫よ。気にしないで」


 日野のうしろからした声に、緊張と一緒に視線が向いた。

 椅子に座ったまま、その様子を静観する黒髪の長い女の子が、申し訳なさそうにやんわりと笑みを浮かべていた。


 長袖の白いブラウスにベージュ色の丈の長いスカートを穿いて、色白で目がパッチリして落ち着いた雰囲気がすこし大人っぽかった。ふたりのやりとりを見守るように、微笑みながらちょこんと座っていた。この人が日野の友達の。


「ダメよ。そういう甘やかしは」


「サヤは厳しいのね」


 ふたりが隣同士に座って楽しげに話をしている光景を見ていると、尚のこと不思議に思えた。


 合わせるように霧島美咲が笑みをこぼす。

 本当に幼馴染なんだと、じっとふたりを見つめた。

 目があった滉大の方に、立ち上がって、二、三歩と歩を進めて言った。

「ごめんなさい。えと、はじめまして、サヤの友達の霧島美咲です。今日は時間を作って頂いてありがとうございます。それで伴奏を受けてくださると」


「あ、はい」と、滉大も自己紹介して、ついでに口を閉じてしまった進藤の分まで話した。


 まっすぐな黒い瞳に落ち着いた物腰で、日野とは正反対のようだった。ただまっすぐに人を見る眼は、それだけなら日野と同じ雰囲気を感じた。


「とりあえず、座って話をしましょう」


 霧島美咲が椅子に手を添えた。

 全員が席に着いたところで、霧島美咲からそれは突然に飛んできた。

 ピアノの経験はどのくらいなのか、一日にどのくらいの時間を練習しているのか、今なにを練習しているのか、コンクールには出たことがあるのか、両親は音楽の経験があるのか、海外での活動はどうなのかなど、質問の数々はまるで面接のようだった。


 さっきとは雰囲気がまるで違う。何りよりも目つきの鋭さが違う。暗い洞窟からこちらを射殺そうするような、一種の警戒心にも近い悪寒を感じた。


 伴奏をする上で何の曲をやるのか、その話をして終わるものと思っていたし、それがいつものやり取りですぐに解散だった。

 もしかして相当ストイックな人なのだろうかと、汗が滲んだ。このやり取りで感じた感覚的予兆というものか。


「待って、ミサキ。それじゃあいつもと…」

 慌てる日野が、霧島美咲の雰囲気をまた変えた。


「ごめんなさい、いきなり」

 今度は声が小さくなって、萎むように視線も下に落ちていた。


 たじろぐ滉大を他所に、口を閉じていた進藤が言った。

「やっぱり、日野は中学のときに始めたって言ってたけど、ずっと教わっていたから上達も早かったのか」


 霧島の眼光が、今度は進藤を捉えた。すると、途端に進藤の口は閉じてしまった。


「そうね…」

 日野は少し考えて続けた。

「演奏もそうだけど、教えるのもうまいし、それに、小さいころからずっとミサキの演奏は聴いていたから、それだけで鍛えられていたのかも」


「そういう話はいいから。それでさっきの話の続きを」

 顔を赤らめて慌てふためく霧島の様子は、最初のときのやんわりとした女の子になっていた。


「それで、曲はなにを?」

 滉大が話を切り出すと日野が「あの私も…」と、続けて曲名を答えていた。


「いや、分かっていたけどさ。ここで言うかな」


「今回もお願いします」

 さらに進藤まで加わった。


「しょうがない…」

 眉間に指を当てる滉大をよそに、進藤と日野が息を合わせるように笑みを溢した。


「あの、それでお願いしても…」

 霧島の声が消えかかりそうになっていた。


「大丈夫。もともと引き受けようと思ってきてるから。こっちの二人に関してはいつものことだし。それに今回は、寧ろいろいろと勉強させてもらえるかもだし」

 滉大は申し訳なさそうに笑みを浮かべて答えた。


「ありがとう」

 そう言って霧島は、安堵するように笑みを浮かべていた。


 今日はこれから予定があるとして、別の日に予定を合せて練習することになった。

 帰りの道中、黙ったまま滉大は歩き続けた。まず何から取り掛かろうと考えていた。

 すると、進藤から大丈夫かと低い声が聴こえてきた。

 伴奏のことを考えていたと話すと、進藤は申し訳なさそうに口を噤んでしまった。


「いつものことだし、大丈夫だよ」


「そういうものなのか?」


「さあ、よく分からないけど、任せとけというやつだ」


「そこまで言われちゃうと頭が上がらないな」


「そうだろう、そうだろう」


 ふと、思い出したことを滉大は口にした。

「それより、何か話したいことがあったんじゃないの?」


 少し黙った進藤が言った。

「そんな、大したことじゃないから」


「そっか」

 静かになる進藤を横目にして、課題の曲について話しながらふたりで駅まで歩いた。


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