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最北大学学生事務局  作者: 萩原詩荻


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第90話 誰がどう考えても羨ましい夏休み

202X年、夏休み終盤


① なんとなく、フユミの部屋で


≪タマキ:今、家?≫


 送信。

 秒で既読。


≪フユミ:家です≫


≪タマキ:行っていい?≫


≪フユミ:鍵開けときます。なんか買ってきてください≫


 俺は着替える気力すら微妙だったので、下だけ履き替えて、外に出た。

 歩く距離は徒歩三分。

 途中のコンビニに寄っても十分もかからない。


 ――この三分が、今日の俺の最長移動距離になる。



 玄関を開けると、ほのかに冷房の効いた空気。

 普通に雑然としているが、テレビとテーブル、ベッド周りだけは生活スペースが確保されている。


「いらっしゃいです」

「どうも」


 フユミは、座椅子に座ってゲームをしていた。

 眼鏡をかけたまま、コントローラーを持ち、画面に集中している。


「今ちょっと忙しいので適当に過ごしててください」

「うん」


 ベッドに腰を下ろして、しばらくその背中を眺める。

 特に会話もない。


 なんとなく、それがいい。


 昼の光が、カーテン越しに部屋を明るくしている。

 エアコンの音と、ゲームの効果音だけ。


 気付いたら、意識が落ちていた。



 なんか暑くて目が覚めた。


 ……近い。


 フユミの頭が、胸元にあった。

 いつの間にか、ゲームは中断されていて、彼女も寝ている。


 小さく、規則正しい寝息。


 俺の腕が抱え込まれている。

 痛くはないが、簡単に抜けそうもない力。


「……」


 起こすのは、さすがに悪い。

 というか、起こす理由がない。

 起こしたら、もったいない。


 それに。


 なんだかんだで、こういうのが一番、心が休まる。



 次に目が覚めた時、部屋は少し暗くなっていた。


 カーテンの隙間から、夕方のオレンジ色の光。

 時計を見ると、夜八時過ぎ。


「……腹減った」


 小さく呟くと、フユミがもぞっと動く。


「……にゃふ……」

「起きた?」

「……起きました」


 目をこすりながら、ゆっくり体を起こす。


「お腹……空きました」

「だよな」

「外、出ます?」

「めんどくさい」

「同意です」


 数秒の沈黙の後。


「……ピザ、とかどうだろう」

「いいですね。タマキさん、何派です?」

「チーズいっぱいのがいい」

「にゃふ。私は……」

「うん」

「照り焼きチキンとかも、好きです」

「わかる」

「今日は二人いるので、欲張りませんか?」

「二枚頼む?」

「二枚です」



 届いたピザは、想像通りの味だった。

 チーズ多め、特別感ゼロ。


「……美味しいですね」

「うん」

「外に出なくて済むのが最高です」

「それな」


 床に座って、二人で食べる。

 買ってきたポテチのうすしおも開封される。


「タマキさん」

「ん」

「これ、止まらないやつです」

「わかる」


 指先に付いた塩を舐めて、ゲームを再開する。

 今度は二人プレイ。


 特にすごい盛り上がるわけでもないけど、楽しい。



 気付けば、夜中。


 部屋の中は、昼とは違う静けさになっていた。

 エアコンの音も、少しだけ低く感じる。


「……そろそろ寝ます?」

「そうだな」


 コントローラーを置いて、明かりを落とす。


 ベッドに並んで、特に会話もなく横になる。


「……今日」

「ん」

「なんで来たんですか?」

「なんとなく」

「それ、最高ですね」

「そうか?」


 少しだけ、布が擦れる音。


「来てくれて、良かったです」


 それだけ言って、フユミは俺の腕に潜り込んで、目を閉じた。


 俺も、目を閉じる。


 特別なことは、何もしていない。

 でも、悪くない一日だった。


 ――夏休みは、こういう日が一番、長く続いてほしい。


 そう思いながら、意識は静かに沈んでいった。





② 愚痴と酒と、帰る場所


≪タマキ:今日、飲みに行かない?二人で≫


 送った相手は、アキハ。

 既読は少ししてから付いた。


≪アキハ:いいよ。店のストックある?≫

≪タマキ:ある。18時でいい?≫

≪アキハ:じゃあ、大通りのいつもの辺り集合で≫


 話が早い。

 まあ、いつものことだ。



 大通りから一本外れて、さらにもう一本、細い路地を曲がった先。

 扉に小さく店名が書いてあるだけの、こぢんまりした店。


 カウンターが六席と、

 二人掛けテーブルが二つ。


「いらっしゃいませ」


「……いいじゃない」

「だろ」


 俺とアキハが二人で飲む時は、“事務局の人間が来ない店”を選ぶ。

 それでいて、化物級を除けば、最強クラスの酒豪アキハが満足できる店。

 中々難しいのだ。


「何にする?」

「ブルドッグ。タマキは?」

「シャンディガフ」

「好きねぇ、それ」

「ビール克服するために飲みまくった後遺症」


 グラスが並び、軽く乾杯する。


「……で」


 グラスを置いた瞬間、アキハがこっちを見た。


「今日はタマキから愚痴る?」

「まあ、呼んだ側だしな」

「ん。聞いてあげる」


 まあ、そういう感じ。

 だいたい、どっちが愚痴りたい時に飲むことが多いので、こういう店選びになる。


「先日のバー……ごめん?」

「……ん」


 こっそり謝るのに使うこともある。


 アキハの目が、少しだけ細くなり、早くも二杯目を頼む。


「何について謝ってる?」


 こっちの考えていることを、確認してる顔。


「怖がらせた。俺がしっかりしていれば……」

「タマキ」

「はい」


 あ、怒ってる。


「謝るとこ、そこじゃない」

「……え」


 アキハは、二杯目を一口飲んでから言った。


「タマキ、あの時、守るべきものに自分自身入れなかったでしょ」

「……」

「別に間違ってはいない。多分、私たちとお店を守ろうとしたんでしょ」

「あの時、一番守りたかったのはカズネやアキハ達で――」

「うん、それはいい。でも、その後ろに自分も守るを入れなかったのがダメ」

「……」

「タマキが守ってくれると思ってたから、私は怖くはなかった。カズネとは裏口で話したんでしょ?」

「ああ、カズネとは話した」

「なら、私たちには謝らなくていい。あの時、私やカオル先輩、リン先輩はタマキを守ろうとした」

「……」

「だから私たちには謝らない。“助けてくれてありがとう”って言いなさい」


 喉が詰まった。


 俺は、返す言葉を探して、見つからなくて、ようやく出たのは。


「……ありがとう」

「うん」


 それで、アキハは満足した顔で三杯目を頼んでいる。


 ……なんだこれ。

 俺が謝ろうとしたのに、俺が救われた。


「はい、じゃあ、次、私のターンね」

「ん。聞きます」

「そのバーの時、あんたとカズネが裏口に消えた後、皆にからかわれたことについて」

「いや、なんでさ」

「最近、実家で『タマキくんは最近どうなの?』って妹と母からめっちゃ言われることについて」

「俺が悪いの?」

「ナツキとメグミのバイト先だけ手伝ってて、ずるいことについて」

「アキハのバイト先、ビルのインフォメーションじゃん。俺が手伝うことありえなくね?」

「全部、タマキ絡みなことに今気が付いて、ちょっとムカついた件について」

「無茶苦茶言うな」


 そんなふうに、どうでもいいことを並べて、笑って、飲む。


「……タマキ」

「ん?」

「私さ」

「うん」


 アキハは、グラスを眺めながらぽつりと言う。


「タマキが『おかえり』って言ってくれるの、ありがたいなって思ってる」

「……」

「だから、勝手に人が増えるのも、分かるんだけど」

「うん」

「たまに、『静かにして』って言いたくなる」

「……言っていい」

「言うと、私が悪いみたいになる」


 アキハが、少しだけ笑う。


 でも、言っている意味はすごくわかる。


 俺は、グラスを置いて、小さく息を吐いた。


「正直さ」

「うん」


 アキハは、こっちを見ない。

 でも、“聞く姿勢”だけは崩さない。


「俺も最近、人の出入りが多すぎて、たまにダルい」

「言った」

「言った」

「でも、分かる」


 アキハが深く頷いているのが、逆に笑える。


「嫌いじゃないんだよ。楽しいし」

「うん」

「『いつでも来ていいよ』って言ったの俺だし」

「うん」

「でも、“帰ってきて玄関開けたらもう誰かいる”みたいなの、続くと」

「一人になりたい日、ある」

「そう」


 アキハはおかわりを頼みながらクスっと笑う。


「……正直、“お前ら全員それぞれの家あるだろ”って思う時はある」

「それは思っていい」

「ね?」

「うん、普通に思っていい」


 矛盾した気持ちを、うまく言葉にできないまま、一口飲む。


「でも、“追い出せない”でしょ」

「追い出せないねー」

「“居場所であって欲しい”って気持ちも、本物なんでしょ」

「それは、そうなんだけど」


「“楽しい”と“ダルい”って両立するのよね」

「する」

「するよね」


「でも、“だるいな”って思った瞬間に、“みんな信頼してくれてるのに”って自己否定入る」

「それ、しんどいやつ」


 アキハが、苦笑しながらグラスを呷る。


「“しんどいって言ったら、信頼を裏切ることになるんじゃないか”って思うパターン」

「……そう、それ」

「で、“そんな自分が一番めんどくさい”って、最後に自分にキレるやつね」

「うん」

「知ってる。私もそれやるから」


 そこで、二人で少し笑った。


 アキハが、次の一杯を頼む。

 俺はコーン茶を頼む。


「……私もさ」

「ん」

「最近、ちょっと疲れてる」


 わかる。


「人の世話しすぎ」

「……わかってるんだけどね」

「まあ、俺も世話になってるけど」

「タマキの世話っていうより、“皆の空気”の世話」


 アキハは、自分のグラスを見て言う。


「楽しいんだけどね。嫌いじゃない。

 でも、たまに、“私”がどこにいるのか分かんなくなる時ある」


 俺は、ゆっくり頷く。


「……俺が言うのも変だけど、ありがとな」

「そういうこと言うと、飲む」

「いくらでも飲め」


 言った端から、アキハはまた一口。


「……タマキ」

「ん?」

「今日誘ったの、偉い」

「それも褒めてる?」

「褒めてる。また誘え」

「アキハからも誘ってくれ」

「恥ずかしいから、タマキからの方が嬉しい」


 褒め言葉が、妙に素直で。

 アキハが酔ってるのは、そういうところに出る。



 店を出る頃には、夜風は涼しくて、頭が少しだけ冷える。


 二人で小さく笑って、並んで歩く。

 普段より少しだけ距離が近い。


 そして――

 どちらかと言うと、酔ってるのはアキハの方だ。

 アキハは大人数の飲みで絶対酔わない分、二人で飲むときに、しっかり酔う。


「タマキ」

「ん」

「この後どうする?」

「うち来るんじゃないの?」

「それでもいい。それともホテル行く?」


 普段なら絶対言わない一言が、ふいに落ちてきた。


「素面の時に言え」

「だって、タマキの部屋行ったら、二人きりにはなれないじゃん」


 それはそう。


「二人きりになったら我慢できないから、ちょうどいい」

「あーあ、去年襲っとけば良かった」

「何度目だ、それ言うの」


 酔うと、アキハは大体こんな感じだ。

 まあ、だから俺がセーブして飲むんだけど。


「毎回思うが、俺が襲われる方なのか」

「だって、タマキ絶対拒否しきれないでしょ」

「…………」

「ヘタレ」

「うっさい」


 歩きながら二人で笑う。

 俺たちは、そういう夜が好きだ。



 アパートの前まで来て、鍵を出す。


「さて、今日の“居住率”は」

「賭ける?」

「じゃあ、“三人以上いる”に一票」

「じゃあ私は“二人以下”にしとくわ」


「開けてみましょう」

「オープン」


 言いながら、アキハは俺の横をすり抜けて、当然みたいに玄関に入っていった。


 ――こいつ。


「ただいまー」


「アキハ。タマキは?」

「後ろ」


 ベッドでゴロゴロしているナツキ。

 沈殿ゾーンにメグミ、ソファにマシロ&マヨイ先輩。

 テーブルでカズネが漫画を読んで、フユミがゲームしている。

 全員、それぞれのポジションでごろごろしていた。


 いつもの光景だった。


「タマキー」「タマキくーん」「タマキさん」「タマキ先輩~」

 呼び方もいつもの通り、それぞれ違う。


 アキハが、その光景を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 俺も、同じタイミングで笑ってしまう。


「“三人以上”で、タマキの勝ちね」

「次回はアキハの奢りな」

「安い店探しておくわ」


 小声で言い合う。


 ほんの一拍の沈黙のあと、二人で苦笑する。


「え、何その顔」

「何かあったの?」

「にゃふ?」

「タマキ先輩~?」


 四方向から視線が飛んでくる。


「いや」

「なんでもない」


 アキハと目を合わせて、小さく肩をすくめる。


 でもまあ――

 こうやって、帰る場所に誰かいるのは、正直嬉しい。


 だるくなる日もあるけど。


 そういう日を、“だるい”って言える相手と飲みに行って、

 こうしてまた、いつもの部屋に戻ってこれるのが。


 多分、今しかない大切な時間なんだと思う。





③ いつでもリジェネ


 昼下がり。

 俺は沈殿ゾーンに半分溶けかけていた。


「タマキー」


 背後から、甘い声。


「……んー」


 返事だけする。

 返事はするが、起きるとは言ってない。


 すると、ナツキが俺の背中に体重を預けてくる。

 この圧のかけ方――だいたい内容が分かる。


「ねぇ」

「んー」

「今日、バイト?」

「んー」

「じゃあ昼はデートね」

「んー?」

「よさげな雑貨屋見つけたの」

「んー」

「ちょっと早めの晩ご飯食べて、夜までに帰ってこよ」

「んー」

「さ、行くよ」


 「んー」で全部流されていく俺の人生。


 ナツキは勝ち誇った顔で俺の腕を引っ張り、俺は抵抗するフリだけして立ち上がった。


 ――こういう時は、抵抗しても無駄だ。

 俺は学んでいる。



 いつもよりちょっと歩いて、植物園の裏側まで行くと、人の気配もだいぶ薄れる。


「ここ」

「……雑貨屋?」

「うん。外観かわいいでしょ」

「確かに」


 ガラス張りの小さな店。

 中には、食器や布小物、アクセサリー、よく分からないけどオシャレな置物がぎっしり。


「こういうとこ、好きでしょ?」

「好きなのはナツキでは?」

「タマキもでしょ」


 まあ、そうなんだけど。


 ドアを開けると、ベルが鳴る。


「いらっしゃいま――」


 声が止まった。

 店員がすごい顔でこちらを見ている。


「センパイたち!?」


 カズネだった。


「ここ、カズネのバイト先?」

「そうです!!デートですか!?」

「ちがいます」

「デートだよ♡」

「いいなぁ……」


 本気で羨ましそうな顔をしてる。

 違うっつっただろ。


「カズネはバイト中でしょ」

「ご案内します!!」


 カズネが“事務局の後輩”の顔と、“店員”の顔を行ったり来たりしている。

 可愛いなぁ。


「カズネ的おすすめゾーンは?」

「こっちです!」


 引っ張られて行った先には、

 レターセットやポストカードがぎっしり並んでいた。


「紙ものコーナー?」

「そうです! 紙って、無限にいいんですよ!!」


 急に早口になる。


「ほら、このレターセット、インクの乗りがめちゃくちゃ良くて、

 万年筆で書いても裏抜けしないんですよ! 厚みも絶妙で!」


「お、おう」

「このポストカードのシリーズは、季節ごとに新作が出るんですけど、

 “夏の夜の動物”ってテーマで、花火と一緒にキツネとかシカが描いてあって~~」


 語りが止まらない。


「カズネ、仕事モードだと早口になるね」

「普段もでは?」

「だって! 好きなもの語ってると早口になるのは、人間の仕様です!!」

「仕様なんだ」

「仕様です!」


 でも、その“語り”が嫌じゃないのは、

 カズネが本当にこの店と雑貨が好きなんだろうな、って伝わるからなんだろう。

 ナツキも横で楽しそうにしている。


「タマキ、これ」

「ん?」


 ナツキが、小さなガラスの一輪挿しを手に取った。


「部屋に花置くスペース、あんまりないじゃない?」

「まあ、誰か倒しそうで怖いし」

「でも、窓際にこれくらいなら置けるでしょ」


 細長いガラスの中に、

 水と、一輪だけの花。


「“たまに誰かからもらった花、ここに挿しておきなさい”用」

「用途まで指定された」


「買ってあげる」

「なにゆえ」

「これは、私がタマキの生活に口出しする権利としての出費なので」

「聞いたことないタイプの権利」


 会計を済ませて、袋を受け取る。


「ありがとうございました!また来てください!!」

「うん」

「センパイ!!今度はお一人でどうぞ!!」

「それを二人で来ている時に言うのがすごいな」


 ナツキが、学年一の笑顔でカズネに微笑みかけている。


「カズネ?」


 カズネが「にゃぁ……」みたいな顔で固まっていた。

 考えて喋りなさい、カズネ。


 店を出る前、カズネがもう一度、店員モードで頭を下げる。


「ご来店ありがとうございました。またお待ちしてます」

「バイト頑張れよ」

「はいっ!」


 ドアベルが鳴って、外の光が差し込む。


「……カズネ、似合ってたね」

「だな。なんか、“店の子”って感じだった」

「うちの後輩たち、どこで何やってても結局可愛い説」

「それは否定できない」


 ナツキが、俺の腕に指を絡める。


「で。次、カフェ」

「ん」

「タマキお気に入りの。この辺でしょ?」

「んー?教えたっけ」

「目撃情報が」

「やだなぁ」

「タマキと二人の時にしか行かないから安心して」


 勝てない。



 お気に入りのカフェの二階。

 人がそんなに多くなく、ご飯もケーキも美味しい。


 ナツキは、メニューを見ながら言う。


「ここ、雰囲気いいね」

「そうだろ」

「おすすめは?」

「ポークソテー」

「じゃあ、タマキはそれね。私はケーキセット」

「おすすめを聞いた意味は?」


 食べながら、どうでもいい会話をする。


 雑貨屋の戦利品の話。

 カズネのバイト先での反応の話。

 ナツキがまた告白された話。



 軽くご飯を食べて、外が暗くなる前に家へ戻る。


 夕方の風が少し涼しい。


 アパートの前で立ち止まる。


「さ、買った荷物頂戴。代わりにコレ、バイト用シャツとエプロン」

「持ち歩いてたのか」

「部屋に入っちゃうと、切り替えが一回増えるでしょ、このまま行っておいで」


 ナツキは、俺の前に回って、軽く背伸びして、俺のシャツの襟を直す。

 何でもない顔で。


「さ、いってらっしゃい」

「……ナツキ」

「何?」


 俺は一瞬だけ言葉を探してから、素直に落とした。


「ありがと」

「知ってる♡」


 ずるい。

 こっちが言う前に、全部分かってる顔をする。


 でも、そういうところがナツキだ。


「行ってきます」

「いってらっしゃい」


 俺が歩き出すと、ナツキは少しだけ後ろで手を振った。


 夜の予定は変わらない。

 バイトも、責任も、面倒も、たぶんある。

 けど、なんとか立ち止まらずに向かえそうだった。

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