第72話 逃げてきて、えらい
202X年、夏休み序盤 夕方
――エアコン、静か。
スマホ、手の届くところ。
夏休み序盤の夕方、俺は、沈殿ゾーンでダラダラしていた。
メグミの持ち込んだ枕に沈みながら、本を読んだり、目が滑ったらそのまま天井を眺めたり。
珍しく、この部屋で一人の時間を過ごしていた。
……静かだなぁ。
そう思った瞬間、スマホが震えた。
画面には、「メグミ」の名前。
≪メグミ:ごめんなさい、今すぐ行ってもいいですか?≫
「……お?」
メグミが、わざわざ「行ってもいいですか?」と聞いてくるのは珍しい。
最近は、「向かってます~」くらいの確定事項でくるタイプなのに。
≪タマキ:もちろん。今ひとり。いつでもおいで≫
≪メグミ:ありがとうございます~。すぐ行きます~≫
スタンプは、ナマケモノがのっそり歩いているやつだった。
多分、なんかあったな。
数分後。
「……お邪魔します~」
のそっと入ってきたのは、メグミ――
……カフェの制服姿だった。
メグミの制服姿は初めて見るが、この制服って……胸強調されるんだよな。
いやいやいや、今は、それどころじゃない。
元気のない顔してるな、うん。
「おつかれ」
「おじゃましま~す」
ふにゃっと言って、靴を脱ぎ散らかした後、まっすぐ部屋の奥へ。
そのまま、ベッドにどさーっとダイブした。
鞄もエプロンも、ベッドの手前にぽとぽと落ちる。
制服のまま、顔を枕に押しつけて、背中だけが小さく上下している。
「……すみません~」
枕に向かってくぐもった声。
「ナツキさんに、“ココ来ないように”言ってもらえますか~?」
「言うのは別にいいけど……どうした」
ベッドの端に腰をおろし、とりあえず頭をぽんぽんと撫でる。
メグミは、しばらく黙っていたけれど、枕に顔を押しつけたまま、ぽつり、ぽつりと。
「今日……バイト終わって、更衣室に行ったらですね~」
「うん」
「ちょうど、ナツキさんも上がりの時間で~。
ふたりで、ちょっとおしゃべりしてたんですけど~」
そこまでは、よくある光景が浮かぶ。
ナツキとメグミは同じカフェでバイトをしている、と4月に聞いた。
「そしたらですね~」
メグミは、枕に顔を埋め直しながら続けた。
「『今日も時間中にサボって、裏口でアイス食べてたでしょ。もっとまじめにやりなさい』って、怒られちゃって~」
……ああ。
大体状況が読めた気がした。
「で、ですね~」
メグミの声が、少しだけくぐもる。
「今日は、なんか余裕がなくてですね~……
『ナツキさんのバカ!!』って叫んで、そのまま逃げて来ちゃいました~」
言い終えたあと、メグミは、枕をぎゅうっと抱きしめた。
「それで、そのまま~。センパイの部屋に~」
語尾だけは、いつもの調子を維持しようとしているけど、
肩が小さく上下している。
「なるほどな」
たぶん、裏口でサボってたわけじゃない。
“サボり力”の高いメグミだが、仕事中のサボりと、休憩中のサボりはちゃんと線を引くタイプだ。
事情があったのだろう、と推察できる。
「怒られたことはいっぱいありますけど~。いつも、“はい~”って感じで受け流してたのに~」
「うん」
「今日は、なんか、ムリでした~。……ナツキさん、全然悪いこと言ってないのに~」
そこで、ナツキのことにまで気が及ぶところが、メグミのいいところでもある。
俺は、撫でる手の動きを緩めないまま、頭の中で状況を整理する。
「思わずバカって言ってしまった、と」
「……七割くらい本気で、三割くらいは、タマキさん経由でフォローされるつもりでした~」
「最初から俺を巻き込む前提なら先に言いなさい」
苦笑しながらも、頭を撫でる手は止めない。
「制服のまま来ちゃいました~~」
「いや、可愛いけど」
「今、それを受け止める余裕ないので、別の日に言ってください~」
おおよそは察した。
多分、裏口で何かあって、メグミは「サボってる」ように見えただけだ。
で、ナツキの方も、これはこれでだいぶ落ち込んでそうだな……。
あいつは、表向きあっけらかんとしてるくせに、自分の言い方が悪かったとか、人を傷つけたとか、そういうところにめちゃくちゃ引きずられるタイプだ。
さて、ナツキが着替えていたということを考えると、帰り道に落ち込んでる頃合いだろう。
今すぐ連絡しても、下手すると間に合わないから拗れる……
となると。
多分、もうすぐ来る。
「ちょっと待ってろ」
ささっと玄関に向かい、メグミの靴を隠し、落とした鞄やエプロンをちゃっと回収して隠す。
それからメグミの枕元に戻ると、ちょうど――
ガチャ。
玄関の鍵の音がした。
「……!」
メグミの肩が、ビクッと跳ねる。
「今の、絶対ナツキさんの音です~!!」
即答すんな。
でも、たぶん正解だ。
俺は、メグミの耳元に口を寄せて、小声で言う。
「ブランケットかぶせておくから、こっそりしてろ。それと、えらいぞ、逃げて来て」
「は、はい~」
クローゼットから、いつもの薄手のブランケットを引っ張り出して、彼女の背中にふわっとかける。
ベッドの上は、ひと目には“巨大な謎の塊”になった。
まあ、うちでは日常風景だ。
ソファには、ナツキお気に入りの猫クッションをぽん、と置く。
これで恐らくソファに誘導できる。
沈殿ゾーンに行く可能性もあるが、恐らくメグミと喧嘩直後には行き辛いだろう。
そのままキッチンに回り、ケトルに水を入れ、火をつける。
数秒後。
「……ただいま」
聞き慣れた声。
でも、いつもより少し沈んでいる。
「おかえり」
リビングに顔を出すと、ナツキがトートバッグを肩から下ろすところだった。
表情は、分かりやすいくらいに落ち込んでいる。
「……ソファ座ってろ。茶出すから」
「うん……」
ナツキは、計算どおり、ソファに歩いていき――
チラッと沈殿ゾーンを見た後、猫クッションにそのまま、ばふっと顔からダイブした。
「はぁぁぁぁぁ……」
魂が抜ける音がした。
クッションに顔を埋めたまま、声だけ出す。
「今日の私、めんどくさいわよ」
「知ってる」
マグカップに紅茶を淹れる。
「はい。お茶」
「ありがと……」
ナツキは、クッションから顔だけ出して、マグを両手で包むように持つ。
テーブルを挟んで座り、ナツキの背後に見えるベッドの方をさりげなく見る。
ブランケットの山は、うんともすんとも動いていない。えらい。
「さて、何があったか聞く?やめとく?」
……うん、これは完全にやらかした後の顔してる。
ナツキは、視線をカップに落としたまま、ぽつりぽつりと話し始める。
「メグミ、来た?」
「今日はまだだな」
ベッドの巨大な塊が、ぴくりと小さく動いた。
「……メグミにね」
「うん」
「怒っちゃった」
知ってるよ、とは言わない。
「今日ね、混んでてさ。お盆で休みの人も多くて、厨房もホールもバタバタで」
「うん」
「で、今日入ってた新人の子がね。注文ミスっちゃって、ちょっとお客さんにキツめに言われたのよ」
「しんどいよな」
「ありがちなんだけどさ。その子、すごい気にしちゃうタイプで、『すみません……』って何回も下がってきて、手もちょっと震えてて……」
「うん」
「気づいたら、その子とメグミの姿が見えなくて」
そこまで聞いて、俺は心の中で「やっぱりな」と頷く。
表には出さないけど。
「そしたら、しばらくして、その子がちょっと顔色戻ってて、“あ、メグミだ”って思ったの」
「わかるよ」
「で、“ありがとうね”ってメグミに言おうと思って、帰りの更衣室で声かけようとして」
「うん」
ナツキの声が、そこで少しだけ低くなる。
「メグミに『いなかったとき、何してたの』って聞いたら、『アイス食べてました~』ってヘラヘラしてるからさ」
その言い方には、褒めと困りと、愛情が全部混ざってる。
「あー……」
メグミとしては、その子のせいにしたくなかったんだろうな。
「実際にはさ。新人の子のためだったのはわかってるのよ」
「うん」
ナツキが、マグカップをテーブルに置き、猫クッションに額を押し付ける。
「『気持ちは分かるけど、やり方はよくない』って、言いたかったの」
「……」
「『裏口に行く前に、周りにひとこと言って』って。
『メグミが誰かのこと心配して動くのは、とても良いことだけど、勝手に動いたら怒られるのは貴方だから』って……」
言葉を重ねるたびに、ナツキの肩が、ほんの少しずつ小さく上下する。
「でも、今日、私も余裕なかったんだと思う」
小さな声。
「『サボって、裏口でアイス食べてたでしょ。もっとまじめにやりなさい』って、最初の一番キツい言葉だけ出ちゃって」
「……」
「言った瞬間、“あ、違う”って思ったんだけど」
「メグミ、すっごく悲しい顔して、『ナツキさんのバカ!!』って叫んで、そのまま走って行っちゃった」
「……完全に、私がバカ」
「怒ったタイミングも悪いし、言い方も悪いし。
『あの子を励ましてくれてありがとね』って言うのが、多分一番最初に出すべき言葉だったのに」
怒る側も、怒られる側も、どっちもキャパを超えた結果――
ここに、制服のまま泣きかけでダイブしてきたわけだ。
二人とも、自分への評価が、厳しいなぁ。
「だってさ」
ナツキが、猫クッションを抱き締めながら続ける。
「“メグミはちゃんと誰かのこと考えて動いてる”って信頼してるのにさ。
“サボってる”前提の言い方しちゃったわけじゃん。
あれ、多分一番言われたくなかったやつだと思うのよ」
「……」
「いつも“省エネです~”って言ってるけどさ。
あの子、見てるとこはちゃんと見てるし、人のこと放っておけないから、疲れた人見つけるとすぐ話に行っちゃうじゃない」
「よくわかる」
「だからこそ、“真面目にやりなさい”って言うんだったら、“そういうとこも込みで”ちゃんと話したかったのに」
猫クッションに顔を押し付けたまま、背中を丸める。
「……自己嫌悪で死にそう」
ベッドから、「私もです~……」って小さな共鳴が聞こえた気がしたけど、心の中にだけしまっておく。
俺は、紅茶を一口飲んでから、言葉を探した。
「とりあえず」
「なに」
「今日言いたかったこと、ちゃんと整理してみようか」
「今?」
「今。俺が聞くから、“ほんとはこう言いたかった”版を口に出しとこう。
そうしとかないと、脳内で“最悪のバージョン”だけリピート再生されて、余計しんどくなる」
「……うわ、正論」
「いつものことだろ」
「知ってる」
ナツキが、猫クッションから顔を少しだけ上げる。
目は赤いけど、ちゃんとこっちを見ている。
「……メグミに言いたかったのはね」
紅茶を少し飲んでから、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「『ありがとう。あの子の話、聞いてくれて』ってまず言いたかった」
「うん」
「『でも、次からは、裏口に行く前にひとこと言って』って話をしたかった」
「うん」
「『メグミが誰かの味方でいてくれるのは、私も嬉しいから、そのやり方を一緒に考えたい』って言いたかった」
「……うん」
ナツキの目に、ほんの少しだけ光が戻る。
「……大体そんな感じ」
「うん。今のをちゃんと、メグミに届けてやればいいだけだ」
「“だけ”って言うな」
「“だけ”だよ」
俺は、ちらっとベッドのブランケットの山に目をやる。
ブランケットが、さっきより少しだけ静かに沈んでいる気がした。
「……でも」
ナツキが、また猫クッションに額を押し付ける。
「今すぐ顔合わせても、絶対うまく言えない気がする」
「それはそう」
「『ごめん』って言って、泣いて、『メグミは悪くないよ~』って言って、なんか、お互いぐちゃぐちゃになりそう」
「それも、まあ、否定できない」
ナツキが、クッションに向かって低く唸る。
「……最低だな私」
「ナツキは、メグミのこと好きなんだよ」
「え?」
「学部とかで見せてる外面だけのナツキなら、多分“後輩にバカって言われる先輩”にならず、メグミに何も言わずに自分で全部処理するだろ?」
「それはそう」
「メグミのことを好きで、期待してて、ちゃんと助けたいって思っているから、メグミに言ってしまった面もあると思う」
「……」
「メグミだって、“先輩にバカって言える自分”なんて、想像してなかったと思う」
「そうかな」
「メグミは抱え込みすぎるくらい抱え込むタイプだからなぁ、心配だ」
「それはわかる。あの子が一番危ない」
ベッドから、「お互い様です~……」って苦情が聞こえる気がするが、無視。
「だからまぁ」
俺は、立ち上がりながら言う。
「今日の晩飯、外で食おう。俺が奢る」
「え」
「“自己嫌悪で死にそうなやつ”には、外でご飯食わせて、ちょっと景色変えさせるのが一番効率いい。
ついでに、今日の話はここで一旦終わりにして、飯の話で脳みそ埋めろ」
俺は、ソファの背もたれにかけてあった自分のカーディガンを引っ掴む。
「……いいの?」
「ほら、行くぞ。“今日は美味しいもの食べた”って記憶で、今日の上書きする」
「……」
ナツキが、猫クッションをぎゅっと抱き締めてから、名残惜しそうにソファに戻す。
「……じゃあ、遠慮なく奢られる」
「よろしい」
玄関に向かう途中、テーブルの真ん中に自分の鍵を、わざとらしいくらい目立つ位置に置いた。
「鍵、いいの?」
「ナツキが持ってるだろ」
「まあ、そうだけど」
ナツキは自分のバッグから、合鍵を取り出す。
「はい、戸締り完了。
“一緒に帰ってこないと入れない”って、なんか優越感あるわね」
「こわ」
「褒め言葉よ?」
「どこがだ」
そんなやりとりをしながら、階段を降りていく。
背中で、部屋の中の空気が少し動いた気がしたのは、たぶん気のせいじゃない。
◇
玄関の鍵が閉まる音を聞いてから、メグミは、ブランケットの中でしばらくじっとしていた。
「……」
足音が遠ざかる。
それでも、念のため、心の中で10まで数えてから、そっとブランケットをめくった。
薄暗くなりかけた部屋の中。
ソファの上には、猫クッションがひとつ。
テーブルの上には、マグカップがふたつと、鍵がひとつ。
「……」
メグミは、もそもそと起き上がり、ベッドの端に座ったまま、しばらくそれを見つめていた。
テーブルの上の鍵束。
見慣れたキーホルダー。
その横に、紅茶の香りがまだ微かに残っているマグカップ。
「……タマキ先輩」
小さく、名前だけ呼んでみる。
返事はしないけど、さっきの撫でる手の感触が、まだ頭に残っている。
ベッドから降りて、テーブルに近付いた。
鍵束をそっと手に取る。金属の冷たさが、指先に心地よい。
「演出過剰ですよぉ~……」
でも、その“過剰”が、今はありがたい。
独り言みたいに呟いて、そのまま鍵をぎゅっと握りしめる。
スマホを取り出す。
指先が、いつもよりちょっとだけ震えていたけど――
それでも、ちゃんと打てた。
≪メグミ:バカって言ってすみませんでした~≫
送信ボタンを押した瞬間、心臓がきゅっとなる。
けど、数十秒もしないうちに、画面の上にポン、と新しい通知が浮かんだ。
≪ナツキ:私も言い方が悪かった、ごめんなさい≫
「……はやっ」
思ってたよりずっと早くて、思わず笑ってしまう。
一度、深呼吸。
今度は、別の相手にメッセージを打つ。
≪メグミ:私も今度ごはん連れてってください~≫
ほぼ同じタイミングで、また通知。
≪タマキ:もちろん。今日はよく逃げてきたな、えらいぞ≫
画面を見つめながら、ふわっと肩の力が抜けた。
「えへへ~……」
そのまま、部屋の外からドアに鍵を差し込んで、カチャっと回す。
鍵をポケットにしまって、廊下を歩く。
「さて~……」
エレベーターの前で、スマホをもう一度確認する。
≪ナツキ:今度、二人でアイス食べに行こ≫
さっき送った謝罪の後に、ナツキからもう一通、メッセージが届いていた。
≪メグミ:ありがとうございます~。おすすめのお店いきましょ~≫
外に出ると、夜風が、少しだけ涼しい。
省エネモードの足取りで、家路につきながら。
どこかの店で、ご飯を食べているだろう二人の顔を、勝手に想像した。
ナツキは、きっと、まだちょっとだけ反省してる顔。
タマキは、きっと、いつもの調子で、
“くだらない話”で、その反省を薄めようとしてる顔。
「……いいなぁ~」
ぽろっと声に出た本音に、自分で苦笑しながら。
「今度、ごはん行く権利、ちゃんと使わないとですね~」
そう呟いて、メグミは、少しだけ軽くなった足取りで、夏の夕方の街を歩いていった。
◇
その頃、駅前の定食屋で。
「何ニヤニヤしてんのよ」
「してません」
ナツキが、唐揚げ定食の唐揚げを一個奪いながら、俺の顔をじっと見る。
「メグミからLINE?」
「まあな」
「内容」
「企業秘密」
「殺すわよ」
「物騒すぎる」
スマホの画面には、さっきのメグミとのやりとりが表示されたままだ。
親指で画面をスリープにしながら、心の中でだけ返す。
まあ、なんとかなるだろ。
この夏も、きっとめんどくさくて、うるさくて、時々ちょっと傷ついたりもしながら。
それでも、多分ちゃんと、笑える瞬間が増えていく。
そんな予感がして、俺は目の前のご飯をかき込みながら、唐揚げの皿をナツキ側にちょっとだけ押しやった。
「ほら、自己嫌悪で食欲落ちてるナツキちゃん、もっと食え」
「落ちてないわよ」
「知ってる」
「……うるさい」
うるさいと言いながら、唐揚げをもう一個取るあたりが、ナツキらしい。
逃げてきたやつを受け止めて、怒ってしまったやつの話を聞いて、
たぶん、そんなことを夏休みの間中ずっとやるんだろうなと、ぼんやり思いながら。
「まあ、お互い様か」
心の中でそう呟いて、俺はまたひと口、白米をかき込んだ。




