第69話 あつい夏休み
202X年、夏休み序盤 だいたい暑い
① 夏の温度と、距離の話
最高気温三十度オーバーの日。
エアコンはついているが、外の熱気のせいで部屋の空気もどこかぬるい。
「……あついです……」
ソファの背もたれに、フユミが“ぺたん”と貼りついていた。
本当に“平面”になっているんじゃないかというくらい、溶けている。
「冷房、これ以上下げると電気代が死ぬぞ」
「にゃふ……電気代は大事です……」
「じゃあ我慢してくれ」
「私ではなく、タマキさんが涼しくなればいいのでは……?」
「理屈が崩壊してる」
テーブルの上には、溶けかけのアイスと、読みかけの本。
「というか、九州生まれのフユミは俺より暑さに強いだろ」
「なんで、北海道に来たのに、あついおもいしなきゃなんですか」
「それはそう」
なんか最近ホントに暑いんだもん。
「ところで、タマキさん」
「ん」
盛大な溜息のあと、フユミが、だるそうに声を出す。
「夏って、“くっつく距離感”むずかしいですよね……?」
「いきなり何の話?」
「暑いから、くっつくと暑いじゃないですか……」
「……」
「でも、離れると、なんかさみしいじゃないですか……」
言いながら、じり……じり……と、ソファから落ちるように床ににじり寄ってくる。
「やめろ近い。体温高い」
「にゃふ……私は平熱です……」
「俺視点では高い」
「看護学的に言うと、適度な接触は精神的な安心をもたらします……」
「教科書の使い方間違ってる」
「ナースは、患者さんの不安を軽減するために、手を握ったり、そっと背中に触れたりもするんですよ……」
「患者でもナースでもない」
「“夏バテの危険がある友人”へのケアです……」
「雑なカテゴライズやめろ」
それでも、フユミはじりじりと近付いてきて――
とうとう俺の足元まで来ると、ごろんと横向きに転がった。
まさに、枕を求める猫の動きだ。
「膝枕の気温は……心地よい、はず……」
「はずって言うな」
「にゃふ……」
上目遣いで、じっと膝のあたりを見る。
「……五分な」
「やった……!」
気付いたら、口が勝手に条件を出していた。
ふわっ、と頭が膝に乗る。
「にゃー…………」
なんか、本当に猫みたいな声出したぞこいつ。
「……お前なぁ」
本を片手に持ちながら、もう片方の手で、そっと頭を撫でる。
「冬は、“くっついた方があったかいです”って言い訳できるじゃないですか……」
「まあ、そうだな」
「夏は、“暑いから離れた方がいいのかな”って、頭では分かってるんですけど……」
フユミが、目を閉じたまま言う。
「全然くっつかないと、ちょっとさみしいので……」
「……」
「“膝枕くらいの距離感”、ちょうどいいです……」
「理屈になってるようでなってないんだよな、その説明」
「にゃふ……」
返事代わりの“にゃふ”が、小さく響く。
五分経っても、
十分経っても、
フユミは、膝の上から動く気配がない。
……まあ、気持ちよさそうに寝てるから、いっか。
そう思って、本を閉じる。
代わりに、天井を見上げながら、指先で髪を梳く。
「……寝たな」
そっと、フユミの眼鏡を外してテーブルの上に置く。
エアコンの風と、
膝の上の重みと、
夏の午後の、ゆるい眠気。
そのうち、俺も半分だけ意識が溶けかけて――
「――あら」
玄関の方から、聞き慣れた声とカシャッと言う音。
「いい距離感ねぇ」
ドアの隙間から覗いたナツキが、
ニヤニヤしながらスマホを構えていた。
「撮るな」
「“夏の距離”って感じで、いい写真だったのに」
「肖像権って言葉知ってる?」
「じゃ、あとでフユミにだけ送っとく」
あとで聞いた話だが。
その写真は、
≪にゃふ……夏の宝物写真が増えました……≫
というコメント付きで、
フユミのスマホの、とあるフォルダに保存されたらしい。
② 夏の夜のバーと棒アイス
夏の夜。
その夜のバーは、珍しく……いや、ごめん、珍しくもなかったけど、お客さんが0人だった。
閉店時間まで、あと三十分となったところで、マスターがふうっと一息ついた。
「……今日はここまでかしらね」
「そうですね」
カウンターをもう一度拭き、こんな日もいいよなと思っていると、
カラン、とドアのベルが鳴った。
「いらっしゃいませ――」
「センパーイ!! 生きてますかー!!」
元気な声と一緒に、コンビニのロゴ入りのビニール袋がバサッとカウンターに置かれた。
「……カズネさん、ラストオーダーは終わっておりますが」
「夏休み初の“アイス差し入れ”便でーす☆」
両手に袋、肩にはトートバッグ。
Tシャツにショートパンツ、どこか「夏休みです!」って主張する格好で、カズネがにこにこしている。
「私、仕事中なのですが」
「閉店間際だからセーフです。セーフってことにしましょう。ね、マスター?」
カウンター越しに、マスターへ視線を投げる。
マスターは少しだけ肩をすくめた。
「……いいじゃない。退屈な夜に、少しくらい冷たい甘さも」
それはつまり、許可、ってことだ。
「マスター、甘くないですか?」
「甘いのはアイスだけで充分よ」
口元だけ、ちょっと緩んでいる。
……あ、この人、自分も食べる気だ。
好きなのかな、アイス。
「ほらぁ、マスターからもお許し出ましたよセンパイ?」
「マスターがいいのなら」
とは言いつつ、袋の中を覗き込む。
「種類多っ……」
ガリガリ系、クリーミー系、オシャレなカップまで、カラフルな棒アイスがぎっしりだった。
「余った分は、センパイんちの冷凍庫行です☆」
「入るかなぁ……メグミ呼んどいてあげてください」
「あ、今日はセンパイん家は、メグミちゃんとフユミちゃんもいます!」
「私知らないんですが」
「一年女子でお泊まり会です☆」
なんで俺の部屋に誰がいるかを俺が知らないんだろうか。
そんなくだらないやりとりをしていると、マスターがひとつ手を伸ばした。
「私はこれ」
彼女が選んだのは、昔ながらのミルク味の棒アイスだった。
「意外とシンプルですね」
「……甘さは、混ざってない方が分かりやすいでしょう?」
なにか深いことを言ったような、別に深くないような。
そういうところが、この人らしい。
「じゃあ、俺はこれで」
「私は映えのために三色のやついきまーす☆」
三人で、棒アイスを一本ずつ。
カウンターに肘をついて、外の国道を走る車だけが響く夜。
氷じゃない“冷たさ”が口の中に広がるのは、なんだか不思議な感じだ。
「……夜のバーで棒アイス齧るの、生まれて初めてかもしれません」
「“大人の背徳”って感じですね!」
ふと横を見ると、マスターがアイスをひとかじりして、少しだけ目を細めていた。
「……昔、似たようなことをしたことがあるわ」
「へぇ、いつ頃ですか?」
「秘密」
そう言って、何も言わない。
多分、教えてくれないままなんだろうな、と思いながら。
溶けかけたアイスを慌てて齧る。
珍しく、くだけた夜だった。
ラストオーダーの後に、三人で棒アイスを食べる夜なんて。
きっと、あとで思い出したら、ちょっと笑ってしまう類の“どうでもいい記憶”になってくれる気がした。
③ やっぱり敵わない常連さん
夏の夜。
平日ど真ん中、二十二時。
カウンターには、一人だけ。
「……タマキくんを見るのは久しぶりね」
「テスト期間等でお休みを頂く日が多かったもので」
OLさん(仮)だ。
今日も「仕事モード」の余韻が残っている。
名前は、まだ知らない。
聞いてもいいんだろうけど、この距離感がちょうどいい気もしていた。
グラスの中身は、いつもの、少し強めのやつ。
「腕上げたわね」
一口飲んで、さらっと言う。
「ありがとうございます。
最近、様々な経験をさせていただいておりまして」
「……“様々な経験”ね」
その言い方に、ちょっとだけ含み笑いが混じる。
「忙しそうだったものね。合宿とか、プレゼンとか、なんとか」
「そんなに知られているのですか……?」
「いない日にね、双子ちゃんたちがあなたの話していたわよ」
手が、ほんの少しだけ止まる。
「……そうですか」
「何を言っていたか、聞かないの?」
「お客様のお話を詮索してはいけないと、マスターに怒られますので」
「ふふっ。いい心がけね」
OLさんは、グラスの中の氷を指先でつつきながら、続ける。
「聞かれても、教えてあげないつもりだったけど」
「……そういうものですか」
「“誰かが、自分のことをどんなふうに話しているか”なんて、
聞かないくらいが、きっとちょうどいいのよ」
グラスの中の氷が、からん、と鳴る。
「ただ、一つだけ教えてあげる」
「はい」
「楽しそうだったわよ、あの子たち」
そのひと言だけで、胸の奥に何かが落ちる。
「あなたのことを話す時、ちゃんと“楽しそうな顔”してた」
横目でマスターを見ると、
彼女は何も言わずに、ただ別のグラスを磨いていた。
「だから、あまり難しく考えない方がいいと思うわ」
OLさん(仮)は、すこし肩をすくめて笑う。
「いろいろ背負い込もうとするクセがあるでしょう? あなた」
「そんなつもりは……多分」
「あるわよ。顔に書いてあるもの」
からかわれているのか、本気なのか、よく分からない。
「おかわり、いただこうかしら」
グラスの底を指でトントン、と叩いて、彼女が言う。
「同じの、タマキくん指名で、ね」
「かしこまりました」
少しずつ、何かが前に進んでいる。
それを見ている大人たちがいて。
ふいに、こうやって、言葉を落としていく。
俺も、こんなかっこいい大人たちになれるんだろうか。
④ 双子の帰省
別の夜。
早めの時間帯、まだ席にも余裕がある頃。
扉の鈴が鳴って、二人分の声が重なる。
「こんば――」
「――んは」
マシロ先輩と、マヨイ先輩だ。
夏らしいワンピースに、薄手のカーディガン。
ふたり並ぶと、本当に雰囲気は違うのに、「双子だなぁ」と思う。
「いらっしゃいませ。今日は早いですね」
「にひ、来週から帰省で準備が忙しいの」
マシロ先輩が、カウンターに顎をのせる。
「その報告と、“いってきますカクテル”飲みに来た」
「いってきますカクテルって何ですか」
「そんな感じで作って!」
「…………わかりました」
忙しいってことは、軽めがいいよな、と軽めのフルーツ系カクテルを作りながら、問いかける。
「ご実家、京都でしたっけ?」
「うん!だからお盆は混みあうから、ちょっと落ち着くまで向こうにいる予定」
「だから、まぁ、その……」
マシロ先輩が、言いにくそうにもじもじしながら、言葉を探す。
「帰ってる間、その……ちょっと、寂しくしてても、許してね?」
「……」
なんか、その言い方と表情やばくね?
「じ、実家にお話ししておいでってヒカリさんにも言われてね」
マヨイ先輩が、バッグの中から、小さなノートを取り出す。
中には、歩き方や姿勢のイラスト、メモがぎっしり。
「先月から、モデルさんに、ポージングとか、歩き方とか、まだまだ教えてもらってるんだけど」
先月、彼女たちが二歩目を踏み出した時の瞳を思い出す。
「『今のうちに、やってみたいって思えること、全部試しておきなさい』って言われて……」
マヨイ先輩は、言葉を噛みしめるように続けた。
「だから、実家でも……
“本当に私がやりたいこと”とか、“やってみたいこと”を、ちゃんと話してみようかなって」
その言い方は、慎重で、でも、ちゃんと前を向いていて。
「タマキくんは……その……」
「はい」
「わ、私が……もし、ちょっとだけ、前に進めたら……その……」
「すごく、嬉しいです」
言葉を探して、でも正直に。
「“今のうちにやりたいことを相談してくるつもり”って言えるの、本当にすごいと思うので」
マヨイ先輩の耳が、ほんのり赤くなる。
「……帰ってきたら、また聞かせてください。どうなりそうか」
気付いたら、口が勝手に動いていた。
「う、うん……!」
「お姉ちゃん、ずるい!」
マシロ先輩が隣でグラスを手に持ちつつ言う。
ずるいとは……
「私もね。ヒカリさんに、“夏の宿題”いっぱい出されたの」
「“いっぱい”」
その時点で、だいたい想像がつく。
「お裁縫の基礎と、型紙引く練習と、あと、自分の手で“ゼロから一枚”仕上げるの」
「おお」
「それはたしかに、いっぱいね」
どこからともなくマスターも合いの手を入れる。
「だから、おばあちゃんちの和室、たぶんミシン部屋になる」
「実家なのに仕事場に」
「“マシロ専用アトリエ”になる!」
そう言って笑う顔は楽しそうで、でも、ちょっとだけ不安の影も混ざってる。
「それでね。ヒカリさんに『“もしやってみたいなら、来年から専門学校の夜間とか、ダブルスクールって手もあるよ』って言われて」
「おお」
「『今すぐ決める必要はないし、向いてなかったらやめていい。でも、やってみたいと思うなら、ちゃんと選択肢に入れて考えなさい』って」
言葉を思い出しながら喋る様子に、あの人らしい口調がそのまま乗っている。
「だからね。そういうのも含めて、ちゃんと実家と相談してこようかなーって」
「素敵だと思います」
俺の口から出てきた言葉は、すごくシンプルだった。
「“やりたいかどうか”を考えに行くの、ちゃんと前に進んでるってことだし」
「えへへ」
マシロ先輩が、ちょっとだけ照れる。
「じゃあ、戻ってきたら、またここで報告会ですね」
「うん。あ、じゃあ、お土産、なにがいい?」
マシロ先輩が、身を乗り出してくる。
「そうですね……」
少しだけ考えてから。
「お土産は、話だけで充分ですよ」
そう言ったら、二人同時に、ちょっとだけ赤くなった。
「……じゃ、いっぱい持って帰らなきゃ」
「き、期待にこたえられるように、します……」
「期待します」
だって、この人たちは、俺の想像が及ばないくらいすごい先輩なんだから。
俺は、あのショーを見たから、そのことをよく知ってるんだから。
その夜の双子は、いつもより少しだけ真剣で、
でも、やっぱりいつも通り、並んで笑っていた。




