第61話 夏合宿⑩、朝風呂と人妻速報と帰宅
202X年、7月下旬 早朝
――朝四時。
目が覚めてしまった。
布団にもう一回沈むには、温泉の匂いが近すぎて、眠気が遠すぎた。
せっかくだからと朝風呂に行って、誰もいない大浴場でのんびり湯に浸かって、
部屋には戻らず、湯上がり処のソファに沈み込んでいた。
ミルク系の棚だけ綺麗に空っぽなのを見て、「昨日の戦争の痕跡だな」とぼんやり思う。
自販機の「ゴウン」というかすかなモーター音。
「……何?寝れないの?」
不意に、聞き慣れた声がした。
振り返らなくても誰かはわかる。
「なんでここがわかった」
「いや、実はホントに偶然♡」
肩にタオル。
浴衣の胸元から、ほのかに湯気と石鹸の匂い。
「……ナツキ」
「なに?」
「濡れてる首筋出すな」
タオルでざっと拭いただけの髪を、適当に後ろでまとめているせいで、うなじがあらわだ。
照明が落ちてる湯上がり処でやる絵面じゃない。
「サービス♡」
ナツキは、わざとらしく首を傾げて、襟元から少しだけうなじを覗かせてくる。
やめなさい。
「俺の理性信用するなって話、昨日しなかったっけ?」
「家でいつも見てるでしょ♡」
「ナツキ+浴衣+湯上りはかなりヤバい」
湯上がりの赤みがまだ残っており、いつもより少し幼く見えて、目が離せなくなる。
「家でも浴衣着てあげようか♡」
「……やめて」
危うく頷きそうだった。
「意気地なし♡」
「マジでやめて」
小さく笑って、ナツキは髪をすくい上げ、ゴムでざっくりまとめて、隣に座ってくる。
ふてくされたみたいに唇を尖らせながらも、楽しそうではある。
「ちゃんと寝たの?」
「俺は昼寝もがっつりしたから。ナツキは眠くないのか?」
「朝の“だーれもいない広い温泉”好きなのよね」
ナツキは、ぐーっと手を伸ばして、大きく伸びをする。
「誰もいない大浴場で、“ひゃー”って一人で言うの。楽しいでしょ?」
「ちょっとわかる」
自分だけしかいない大浴場ってわくわくするよね。
「で、何考えてたの?」
ぽつり。
湯上がりの空気よりも、よほど冷静な声だった。
「…………ちょっと色々ありすぎて」
ごまかすみたいに天井を見上げる。
「玄関で約束されーの、湯けむりの中で看護学されーの、ティーラウンジでラスボス戦しーの、チャンピオンに『SEX下手なの?』とか聞かれーの」
「下手なの?」
「勘弁してください」
肘で軽く小突かれた。痛くはないのに、妙に現実感だけはある。
「……正解のないタイプの問題、苦手なんだよ」
思ったより小さな声で、本音が漏れた。
どこまで踏み込んでいいのか。
どこまで距離を取るべきなのか。
答え合わせのないテストばっかり続いている感じがする。
「ふむふむ?」
「どんな選択をしても誰かを傷つけるんじゃないか?とか。
そもそも俺が“選ぶ側”に立つなんておかしくない?とか。
一緒にいる方が不幸にするだろ?とか」
言えば言うほど、自分で自分にダメージが入る。やめればいいのに、止まらない。
「正解はあるわよ」
ナツキは黙って聞いてくれた上で、ぽつり、と。簡単に言ってのけた。
「……そうなのか?」
思わず聞き返すと、ナツキは少しだけ笑った。
「十年後のタマキが採点するってことでどう?」
「……十年後の俺?」
「そう」
ナツキは、少しだけ遠くを見る目をした。
「三十代のタマキがさ、『あー、あの時ああしたの、まあ正解だったな』って、ちょっと笑えるくらいなら合格」
さらっと、えげつないことを言う。
「“今の正解”なんてさ、どうせ環境変わったら簡単にひっくり返るもの。
でも、“十年後の自分から見て大外れじゃなきゃいい”って考え方なら、多少は気楽でしょ?」
「採点基準がゆるいのか厳しいのか、よくわからん」
「満点狙うからしんどいのよ。単位とれればいいじゃない」
「…………」
想像してみる。
三十路の俺が、今日の俺を見て、「お前、何やってんだ」って頭抱えてる姿。
「……悪くない」
口から自然と出た言葉に、自分で苦笑する。
テストの模範解答探しじゃなくて、“未来の自分に赤ペン握らせる”発想。
ナツキの、こういう考え方、とても憧れる。
ナツキ自身だって悩んで、弱って、迷うことはあるのに。
それでも、自分の事には不器用なくせに、人を前に進めるための言葉を、自分でちゃんと用意している。
ああ、やっぱり。
まただ、と思う。
俺ばっかり助けられている。
そんなことを考えていると、不意に隣から頭がコツンと肩に預けられた。
「……ねぇ」
静かな声。
「昨年ならさ」
「ん?」
「楽勝だったとしても」
ナツキは、ふっと笑った。
「今年でよかった」
「……?」
意味が、すぐには飲み込めない。
「昨年の気持ちのままずっといたらさ、私は、なんとなーくタマキの家に泊まり続けて、また彼氏作って、別れたらタマキの家に戻って、で」
「…容易に想像できるのが嫌だな」
「どこかのタイミングでタマキが誰かと本気で付き合って、はいオシマイ」
……そんなルートもあったんだろうな。
「逆に、なんとなく距離近くなって、そのままタマキをさっさと落としてた可能性もあったと思うの」
「……まあ、可能性としては、否定はできん」
「自信あるもん」
胸を少しそらして、わざとらしく言う。
「……そうだろうな」
「でも、その場合さー」
ナツキは、両膝を抱えるみたいにして座り直し、顎を膝の上に乗せる。
「たぶん、別れてたと思うんだよね」
言い切り方が、やけにあっさりしている。
「私が勝手に満足して、勝手に寂しくなって、勝手に爆発して」
「自己申告が激しいな」
「事実だもん」
「たぶん、焦らなきゃ、私はこの気持ちを自覚しなかったから」
自分の膝を指先でとんとんしながら、少し照れくさそうに笑う。
「焦る?」
「うん」
ナツキは指を折り始める。
「フユミでしょー、アキハでしょー、カズネでしょー、メグミでしょー、双子先輩でしょー、あと、例外枠でヒカリさん」
「例外枠ってなんだよ」
「いつでも本気出せるけど出してない枠」
「やめろ怖い」
「……他にも、きっと“まだ自覚してない子”もいる」
「そんなホラーみたいな言い方やめてくれない?」
「はは」
ナツキは、楽しそうに笑う。
「ね?焦らなければ、自分のカードの意味、真面目に考えなかったと思う。
“勝ってるからいいやー”で、たぶんずっと“遊んでる側”でいられた」
ナツキの声には、ほんの少しだけ、悔しさみたいなものが混じっていた。
「今年でよかった。
ずっといたいんだって、ちゃんと思えたから」
「……」
「勝てるかどうかは、まだ分かんないけどね」
そう言って、少しだけ息を吐く。
「……ナツキも、恋愛下手だなぁ」
思わず、口から漏れた。
「タマキほどじゃないゾ♡♡」
即座にカウンターが飛んでくる。
「私なんか、“恋愛向きの女”っぽく言われがちだけどさー」
軽くため息をつきながら、天井を見上げる。
「本気で好きになると、頭も回らないし、距離も測れないし、変な事口走るし。……大概よ?」
「十年後のナツキが、今のナツキ見たら『うわぁ』とか言いそう」
「あ、それはちょっと分かる」
二人の笑い声が、薄暗い湯上がり処に、小さく溶けていく。
「十年後のタマキがちゃんと笑って採点できるように、せいぜい今を悩んどきなさい」
「……努力します」
「合格点出なかったら、“夜這いで抗議”行くから」
「十年後にまで抗議しないでもらえます?」
「採点係補助♡」
そう言って、笑い、ナツキは浴衣の裾をひるがえして、立ち上がった。
それは、“恋人”でも“友達”でも、説明のつかない関係だった。
ラベルを貼ろうとすればするほど、ずれていく。
でも――お互いにしか分からない言葉が、確かにそこにあった。
その真ん中に、ナツキの横顔がある。
ぁぁ、やっぱり、かっこいいな。
俺なんかが隣にいちゃいけない女だ。
◇
朝八時。
朝食会場は“合宿の朝”という言葉をそのまま煮詰めたみたいな空気だ。
焼き魚、卵焼き、白米、味噌汁。奥の大皿のウインナーは秒で消えるから、最初に確保。重要なオペレーション。
「おはよー」「眠い」「眠い」「眠い」「にゃふ……味噌汁……勝利……」「メグミ、座ったまま寝るな」「省エネモード、朝」「魚うま……」「米……炭水化物正義……」「温泉卵リピート」「納豆チャレンジ失敗しました……」「銀杏じゃないだけマシだな」
「…………タマキさん。勝利です」
「“こまい”だな」
フユミが、身体を揺らしながら嬉しそうに箸を構える。願いが叶ってしまった。
「“温泉たまご”もあります~。勝利のダブルピースです~」
メグミが隣で二本の指を立てている。寝起きで半分夢の国にいる顔。
そんな中――
「みんなあああああ!!」
廊下の奥から、誰かの全力の足音と叫び声が聞こえる。
そのままガラッ、と勢いよく襖が開く。
イズミだ。
「速報!!リン先輩が、別の旅行客の人妻と一夜を!!」
「「「ええええええええっ!?」」」
会場が波打つ。
箸を落とした音、味噌汁をすする音、同時多発のむせ込み。
「いやぁ、向こうから来たんだよな」
本人がノコノコ入ってくる。
浴衣の襟はきっちり、顔色もよく、朝食に箸を伸ばしながら、まるで天気の話のテンション。
「“向こうから来た”は免罪符じゃないわよ!」「人妻って単語の破壊力」「いや朝からバズりニュース」「詳報」「匿名でいいので詳報」「事後の合意は」「倫理観!!」
「落ち着け。成人、同意、以上」
リン先輩はだし巻きを一口で平らげ、湯呑で口を湿らせる。
「“去る者は追わず、来る者は拒まず”って昨夜言ったろ」
「昨夜の名言が急に世俗で汚れた!!!」「名言の強度の使い方!」
真横でコウメイ先輩が頭を抱える。
ナツキは咽せて味噌汁を吹きそうになっている。
マシロ先輩は耳まで赤くして「お、おとな……」と小声。
マヨイ先輩は湯のみを両手で抱え「や、やさしくしてくれたなら……」と消え入りそうな声。
メグミはジャガバターを持って「大人は難しい…」と目を細め、カズネは「人妻役は私にはまだ早いですねッ☆」と意味不明の元気。
アキハは「はい、炎上しない範囲で」と箸でイズミの口を塞ぎ、カオル先輩は「匿名BOX:続報要望3件」とさらっとメモした。
「落ち着け。……朝食だ」
リン先輩が両手を広げると、なぜか拍手が起きた。恐るべきカリスマ。
結局、“一緒にロビーで話し込んだ”という落としどころに全会一致で着地し(本当かどうかは永遠の謎のまま)、戦場はふたたび“焼き鮭 vs 納豆 vs 卵かけ”へ移った。
◇
チェックアウト。鍵をまとめて返し、旅館の人たちと“ありがとうございました”を交わし、集合写真を一枚。
朝十時、出発。
バスへ。
座席は行きと同じ列。フユミが「隣いいですか」と言う前に腰かけている。顔は眠い。Switchはバッグの奥。えらい。
「寝ます……」
「寝ろ」
「にゃふ……タマキさん……お膝……」
「さすがにここではダメ」
フユミは諦めて、素直に首枕で寝た。
行きの地獄のテンションは姿を消し、帰りのバスは、すやすや大合唱。
メグミは、シートに埋もれて「省エネモード……帰路……」と呟きながら沈んでいった。
カズネも「帰ったらバイトがぁぁぁ」と言いながら、三分で落ちた。
「ぐぅ」「すやぁ」「にゃふ……」「Zzz……」
座席あちこちで、いびきとも寝息ともつかない音がする。
途中のサービスエリアのアナウンスで、一度だけ「うにゃ……」と起きたフユミが、「……寝ました」と宣言して、また寝た。
可愛い。ズルい。
◇
札幌に戻ってくると、現実の匂いが急に戻ってきた。
ビルの影、信号、コンビニ、駅。
旅館の硫黄の香りは、あっという間に排気ガスとパン屋の匂いに上書きされる。
部室前で解散。
荷物を肩に担ぎ、みんなそれぞれの方向へ散っていく。
「おつかれー!」「また明日なー!」「レポートやばい」「現実が来た」「夏休みって何?」「お布団どこ~」
そんな悲鳴混じりの声が飛び交う中――
特に打ち合わせたわけでもなく、ナツキを待ち、二人で歩き始める。
「さて」
アパートまでたどり着き、階段を上がり、俺の部屋の前まで来たところで、ナツキがくるりと振り返る。
「プレゼンの準備するわよ」
「……あなたたちがノーパソ没収したのでは?」
「だからやるのよ。アキハも明日から来るからね♡」
「え、何それ聞いてないけど」
「言ってないもん」
悪びれない。
「これでプレゼンの出来が悪くて、タマキの学校祭フリーにできなかったら――」
ナツキは人差し指を立てて、俺の胸元を突く。
「“私たち”が怒られるんだから」
「誰に?」
「みんなに、よ」
ナツキは真顔で言って、すぐに笑う。
学校祭を、フリーにする。
その一言の意味が、合宿前よりも、少しだけ重くなっている。
「……はいはい」
鍵を開けながら、苦笑する。
「じゃあ、まずは洗濯と掃除からだな」
「そうそう。まずは生活の基盤から♡」
ナツキが笑う。
俺も笑う。
夏合宿編、これにて一旦〆。
十年後の俺が頭を抱えるであろう“答え合わせ”に向けて。
そして、優雅な夏休みと学校祭の自由時間を手に入れるために。
あと一つだけボスを倒す必要があった。




