第59話 夏合宿⑧、恋人は時間制限付き
202X年、7月下旬 夜(宴会場~ティーラウンジ)
いつまでも外にいると寒いので、フユミと一緒に宴会場に戻る。
襖を少しだけ開けると、ちょうど一曲終わったところだった。
シンジがマイク片手に正座して土下座していて、その前で一年女子が拍手している。多分“失恋ソング縛り”の犠牲者だ。
その中で、座敷の奥――少し離れたテーブルにいる双子と目が合った。
マシロ先輩とマヨイ先輩。
「っ」
「……っ……」
二人と目が合い、同時に、ばっ、と顔が真っ赤に染まった。
マヨイ先輩は湯飲みを持ったまま固まり、マシロ先輩は箸を落としかけて慌てて拾う。
……あー。
さっきのエナメルピンの件、完全に“後追い羞恥”が来てる顔だ。
こっちもそうだけど、向こうも向こうで余韻が残ってるらしい。
「おかえりー」
アキハが湯呑を差し出してくれる。ぬるい番茶が、いちいち沁みる。
宴会は、さらにもう一段ゆるく転がった。
演歌の後にアニソン、匿名BOXの消化試合、最後の鍋はいつの間にか雑炊になっていて、甘味卓では“温泉まんじゅう”がまた瞬殺、遠くの卓では“浴衣に合う髪型講座・続編”がなぜか開催されていた。
夜はふくらんで、やがて小さくなっていく。
「はい、そろそろ締め。各自、部屋戻って仮眠取るなり二次会行くなり、自己責任で動け。ゴミはまとめろ、忘れ物すんな。以上」
「やったー卓球!」「トランプしません?」「温泉もう一回行きたいです」「お前今さっき出てきたとこだろ」「“部屋で静かに麻雀”組も募集しまーす」「静かに?」「一部屋は寝る奴用に確保しろよー」
その流れの中で、背中から、聞き慣れた声。
「タマキ」
「ん? 二次会卓球する奴もいるだろうが、俺は行かんぞ?」
振り向くと、そこにはナツキ。
浴衣の前を軽く押さえながら、口元だけニヤッとしている。
「分かってるわよ、そんなこと」
ちょっとだけ目線を下げてから、真面目な声で続ける。
「私にも、五分ちょうだい」
「あー……」
頭の中で、二次会その他のルートを一瞬でバツにしていく。
卓球は行かない。部屋でゲームも今じゃない。風呂二回目は……まあ、あとでいい。
「わかった。十分後にロビーでいいか?」
「もう閉まってるけど、ティーラウンジ」
ナツキは顎で、ロビー隣のガラス張りのスペースを示す。
「ロビーだと卓球組と風呂派も通るし、人目がうるさいでしょ。
閉まってるラウンジなら、電気だけ借りられるし」
「了解」
お互い、それ以上は言わない。
俺は宴会場に忘れ物してるやつがいないかチェックした後、いったん男子部屋へ荷物だけ置きに戻る。
壁越しに、誰かが「たたみー、たたたたたー」と謎の呪文を唱えていた。なんだそれマジで。
◇
ロビーのソファでは、何故かメグミが半分沈んでいて、イズミとシンジが「部屋飲み組」をどう構成するか相談していた。
ティーラウンジの入り口には、“本日の営業は終了しました”の札。
ガラス戸は半分だけ閉めてあって、施錠はされていない。旅館の人に軽く会釈して、「ちょっとだけ電気借りてもいいですか」と訊ね、OKを貰う。
ラウンジの灯りを一列だけ点ける。
昼間なら窓の外の緑が見えただろうガラスは、今は黒い鏡みたいになって、室内の照明だけを映している。
きちんと揃った椅子を、一つだけ引き出して座る。
壁の時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。
「……」
十秒、二十秒。
やがて、ガラス戸の向こうに、浴衣の影が映った。
「お待たせ」
ナツキが入ってくる。髪はさっきより少しだけ乱れていて、帯の結び目を片手で軽く押さえている。
湯上がりの火照りはだいぶ引いたけれど、頬にうっすらと赤みが残っている。
向かいに座る……かと思いきや、ナツキは俺の斜め前、ちょっと距離を詰めたところに椅子を並べる。
テーブルを挟まず、横並びに近い位置。
「……」
しばらく、お互い黙ったまま。
ロビー側のざわめきが、ガラス越しに遠く聞こえる。
「……ねぇ」
先に口を開いたのは、ナツキだ。
「あー、わかってる、わかってるよ」
俺も息を吐いてから、言葉を続ける。
「見てたんだろ。迎えに来てくれてたんだろ」
玄関前。
月と湯けむりと――物好き。
「まったく……」
ナツキは、わざとらしくため息をついてから、少しだけ笑う。
「まあ、いいけど。
放っといたら、ずっと外でうじうじしてそうだったしね、タマキ」
「否定はしない」
自分でも、その可能性は高かったと思う。
「そっちは? 相変わらず告白されてるし、先月告白してきてた先輩とか、超イケメンで実家も金持ちだって聞いたぞ?」
話題をそらす、というよりは、軽く振ってみる。
「ジョーダンきついゾ♡」
彼女は肩をすくめて、指でテーブルをとんとんと叩く。
「あの人、超束縛型らしいわよ。
“毎日テレビ電話必須”とか“男の連絡先全部消せ”とか、噂聞いただけで蕁麻疹出そうだったもん」
「ああ、じゃあ無理か」
「なによー」
「ナツキと付き合うなら、束縛はした方がいいけど、しすぎるとナツキが我慢するだろ」
それはもう知っている。
我慢して、笑って、限界まで頑張って――
“相手のために”って言いながら、自分を削って削って、それでも相手に尽くすのがナツキだ。
「そういうところだゾ♡」
彼女は、わざとらしく笑って見せる。
「……つい」
「“つい”で人の心に入ってこないでほしいわよね~?」
そう言いながら、ナツキは椅子の背に体重を預けた。
…本題が来る。
「……今のところ、“負けてあげてもいい”のは」
ナツキは、指を一本立てて、テーブルにトントンと軽く当てる。
「フユミと、ヒカリさんくらいかなー」
「……ヒカリさんはないだろ」
「なんでよ」
「あの人が俺なんかを相手にするはずがない」
「はいバカー」
バッサリ切られる。
「アキハとマシロ先輩とカズネには負けたくない。特にアキハ」
「同じ系統には負けないってか」
「同じじゃないゾ」
むくっと頬を膨らませる。
「“似た系統の強キャラ”とは思ってるけど。だからこそ負けたくないの。
……アキハは、ほんっとに“横に立つのが似合う女”だからさー」
「……」
それは俺も思う。
「…………フユミになら合鍵あげても許す」
ぽつり、と。
「私はあの子には勝てないから」
その言い方が、やけにあっさりしていて、逆に重い。
ナツキが“勝てない”って言葉を素直に使う相手なんて、そう多くない。
「俺の部屋なんだが」
「私のホテルだゾ♡」
はい出ました、持ち主の主張。
実質的に侵食されていることは否定できない。
「どっちにしても、本人が望めば、だ」
俺は、そこだけは線を引く。
「俺の勘違いかもしれないし」
さっき玄関前で抱きしめたことも、エナメルピンのことも。
全部、“こちら側の思い込み”で、向こうにとってはただの“先輩後輩”かもしれない。
「タマキって、本当にそういうとこ厳しいわよね」
ナツキは、少し呆れたように笑う。
「フユミかわいそー」
「厳しいか?」
「厳しいよ」
即答。
「普段あんだけ甘やかしてるくせに、自分から踏み込んでこない限り入れてやらないところ」
「…………」
言葉が止まる。
「“ここに来たいなら、ちゃんと自分の足で来いよ”ってタイプ。
それ自体は間違ってないけどさ」
自覚は、ある。
“守るため”とか、“相手のため”とか、いろいろきれいな言葉はあるけど――結局、俺が“怖がってるだけ”なのも自覚してる。
ナツキは、笑いを少しだけ薄くする。
「……ねぇ、タマキ」
「ん?」
「なんで、そんなに誰にでも優しいの」
「そんなつもりないけどな」
「嘘」
食い気味。
「少なくとも、わたしは何回も助けられてる」
「俺はナツキに助けられた覚えはあっても、助けた覚えはない」
「そういうとこだよ」
ため息と一緒に、少し笑う。
責める声じゃない。ただ、諦め混じりの優しさ、みたいな音。
少しの沈黙が落ちる。
静かな時間。
自販機のランプが「ピッ」と一度だけ点滅する音が、やけに大きく聞こえた。
時計の針の音まで、ちゃんとしろと俺を急かすように聞こえる。
声を出す前に、互いの呼吸だけが少しずつ整っていくような数秒。
「……なぁ、ナツキ」
これ以上、逃げても仕方ないので、逆に踏み込む。
「なあに?」
言葉を切って、息を一つ。
自分でも、「あーこれ言うんだな」と思いながら口を開く。
「昨年、ナツキが泊まってたとき――」
部屋の鍵の音。
玄関に転がるヒール。
ソファにうつ伏せで沈むナツキ。
キッチンで俺が作る夜食のパスタ。
深夜のアニメと、朝方のカップスープ。
「うん」
「何度も何度も……」
言うか、言わないか、ほんの一瞬迷って。
それでも、逃げるのはやめてみた。
「襲ってやろうかと思った」
正面から言った。
こういう話は、変にぼかしても仕方ない。
あーあ、これでもう二度と来なくなるかもな。
「知ってる」
即答だった。
「し、知ってる!?」
予想外すぎて、逆に混乱する。
声が裏返った。
「そもそも、宿代として払うつもりだったし」
さらっと、とんでもないことを言う。
「私が一年の最初の頃、そうやって泊まり歩いてたのも知ってたでしょ?」
「……」
去年の春から夏にかけて。
ナツキが色んな先輩や友達の部屋にも転がり込んでいたことは、知っていた。
“そういう意味”を含む場合もあることも、薄々。
知らないふりは、できなかった。
自分の家が“安全地帯”だなんて、当時の俺は思ってなかったし、思う資格もないと思っていた。
自分だけが特別だなんて、そんな自惚れはない。
「こないだも言ったけど、襲われても怒らなかったよ?」
ナツキは、少しだけ視線を落として笑う。
「あの時、タマキが“そういうこと”望んできても、断らなかった」
その言い方が、冗談じゃないんだと分かる分だけ、胃が重くなる。
「……何もしなかったのはお互い様だろ?」
唇が渇く。
それでも、ここまで来たら言うしかない。
「タマキも手を出して欲しかったってこと?」
「そんなこと、ないとは言えないけど」
正直に言えば、言い切るのは難しいけど。
「うわ」
「それはそれとして」
「後日追及♡」
「それはそれとして!」
慌てて話題を戻す。
言葉を選びながら、一呼吸置く。
「だけど――」
目の前にいるナツキの視線を、逃げずに受け止める。
「合鍵以降、頻度があがって」
ナツキがお泊りに来る日が、週に三~五日に増えて。
部屋の中に、ナツキの私物が置かれるようになって。
「抱きしめあって寝た日も何度もあって」
ソファで寝落ちして、気付いたらお互いの腕が絡まっていた夜。
ベッドと布団を行ったり来たりして、“一緒に寝た方が暖かいね”って笑っていた夜。
「あと一歩で理性が切れてた日もあった」
「あー」
ナツキの口元に、いたずらっぽい笑みが浮かぶ。
「あの“二人ともヘロヘロでキスしかけた日”ね♡」
「……名前付いてるのか、アレ」
「あれはドキドキしたねー」
こっちは笑い事じゃない。
あのとき、ほんの少しでも何かがずれてたら、多分、今の関係にはいなかった。
「でも、ナツキは去年の冬、その状況でも彼氏が出来た」
合鍵持ち、週5宿泊状態。
その状態のまま、“彼氏”という別ルートを開いた。
「……」
「そして、年末に泣きながら部屋に来た時にも」
年末、真夜中。
泣き腫らして現れたナツキ。
「今日だけ泊まる」と言って、朝には「もう少し頑張ってみる」と笑って帰っていった背中。
「自分で頑張ってみる、ってナツキは言った」
俺に「助けて」とは、一言も言わなかった。
「……俺に助けを求めることは、しなかった」
あのときの無力感は、今でも覚えている。
けれど同時に、彼女の美しさも、覚えている。
「……あの時は」
ナツキは、視線をテーブルに落とした。
「負けたくなかったから」
それは、彼氏に対してなのか、自分に対してなのか、周りに対してなのか。
多分、全部なんだろう。
「……でも、年が明けてすぐ、ナツキは彼氏と別れて、また泊まりに来た」
あれはもう、泣いた後でも笑った後でもなくて、ただ“ここにいていい?”と訊いている顔に、俺には見えた。
「うん」
「その時に思ったんだ」
「俺はナツキにとって、“一番一緒にいたいと思える相手”になろう、って」
「……ん?」
ナツキが首をかしげる。
「それが、多分ナツキと一番長く時間を共有できるあり方なんだろう、って」
「……ん?」
もう一段階、首を傾ける。
「話の流れ変わったぞ?」
「変わったようで、変わってない」
俺は苦笑する。
「彼氏になって、時間制限が出来て、ナツキを泣かせて、縁が切れるくらいなら」
胸の中で何度も反芻した理屈を、そのまま口にする。
「便利な宿のままでいようってな」
口に出してみると、我ながらどうしようもない言い分だ。
自嘲気味に笑う。
でも嘘じゃない。
「まあ、そもそもに俺がナツキと並ぶに値しないと言えば、それはそうなんだが――」
「あ、ストップ」
そこでナツキが、ぴしっと手を上げた。
「なんだよ」
「え、もしかして?」
ぐい、と距離を詰められる。
「私と一緒にいたいから、彼氏になりたくなかったってこと???」
「微妙に違うが、まあニュアンスはそんな感じ」
「は?」
そのまま、数秒間、ナツキは無言だった。
「バカなの?」
「どのへんが?」
むしろ聞きたい。
「非常に賢いと自負してるが」
「いや」
ナツキは両手で顔を覆って、くぐもった声で言う。
「彼氏になった方が、一緒にいれるでしょ」
「すでに週5で泊まってて、サークルも一緒なのに?」
「うぐぅ」
ぐうの音、とはこういう時に出る。
「土日でかけたりとか……」
「大体、部室か部屋で一緒にいるじゃん」
「……わ、私に手ぇ出せるようになるんだゾ♡♡」
最終兵器を出してきた。
さすがである。判断が早い。
「正直、非常に魅力的な条件ではあるが」
「そこは否定しなさいよ!」
そこは否定しない。
「普通に一緒にいて、声聞いてるだけで、割と俺の幸福度は高い」
「へ、へんたい!?」
「いや、声が好きって、前に言っただろ」
「言ったけどさぁ!」
頬を膨らませたその顔が、ほんの少し嬉しそうなのは、見ないふりをする。
「じ、時間制限ってのは?」
「……昨年度のお互いの恋人が続いた期間考えろよ」
指折り数える。
「俺四人で、最長三週間」
「やめろ、数字で出すな」
「ナツキ三人で、最長二ヶ月」
「もっとやめろ」
自分で言ってて、なかなかの戦績だと思う。悪い意味で。
「さて、ナツキは既に九ヶ月くらい、俺の部屋の合鍵持ち続けてるが」
鍵を受け取った日から、今日までの時間をざっくり数える。
「どっちが長いと思う?」
「……ぐ、ぐぬぬ」
顔に「論破された」の文字が出ている。
「むかつく!!」
子どもの頃から計算が得意なやつ特有の、“数字で殴る感じ”。
自覚はある。
「はい、お疲れ様」
軽く頭をぽん、と叩く。
ナツキは、しばらく黙っていた。
湯上がりの頬の赤さが、さっきより濃くなっている。
「一緒に寝てる日」
ぽつり、と。
「時々、固くしてたくせに」
「おい」
ナツキは、椅子から勢いよく立ち上がりつつ、叫ぶ。
「た、タマキのバカー!!」
遠くの廊下を歩いていた誰かが、びくっとして振り向くのが見えた。
「はよ部屋戻れ」
ロビーに誰もいないのを確認しながら、そう促す。
「ぷんすぷんす!」
口で効果音をつけながら、わざとらしく怒ったフリをして、
浴衣の裾を翻し、背を向ける。
そのまま、ちょっと乱暴にガラス戸を開けて出ていく。
おい、乱暴に開けるな。
うん、まあ、でも、俺にはわかる。
背中の角度と、足取りでわかる。
きっと、表情はちょっと笑っている。
それなら。
俺は、それだけでいい。




