第57話 夏合宿⑥、白の羽と黒の月
202X年、7月下旬 夜(宴会場~玄関~外)
トイレで顔を一回洗って、鏡の前で深呼吸をひとつ。
宴会場のざわざわした笑い声が、襖一枚越しにまだ続いている。
宴会場には戻らず、言われたとおり玄関に向かうと、そこだけ少し静かだった。
ロビーの灯りが柔らかく漏れて、下駄箱の横に浴衣姿の二人。
「タマキくん、こっちこっち」
マシロ先輩が、いつもの調子で手を振る。
その隣で、マヨイ先輩がちょこん、と立っている。指先で帯の端をいじっているあたり、ちょっと緊張してるっぽい。
「お待たせしてすみません」
「うん。ちょっとだけ、外、いこ?」
マシロ先輩に誘われ、そのまま三人で玄関から外へ出る。
自動ドアが開いた瞬間、夜風と一緒に、硫黄の匂いが濃くなる。昼とは違う“夜の温泉街”の空気。
玄関脇のベンチに、三人で並んで腰を下ろす。
街灯が一つ、少し離れたところでオレンジ色に滲んでいる。
マシロ先輩が、浴衣の袖から小さな箱を取り出した。
掌にすっぽり収まるサイズの、銀色の小箱。
「タマキくん、君にあげたいものがある」
横で、マヨイ先輩も、同じサイズの箱をぎゅっと握っている。
「う、受け取ってくれると嬉しいな」
「貰えるものはもらいますけど……一体何を?」
二人が、指先でそっと蓋を押し上げる。
マシロ先輩の箱には、光を受けてきらめく白い羽。
マヨイ先輩の箱には、光をやさしく受ける黒い月。
「……ピンバッジ……?」
「エナメルピンっていうんだって。ちょっとオシャレでしょ?」
どっちも小さいのに、やたら存在感がある。
光の角度で、羽の筋と月の縁が、細かく光った。
「わたしからは、この“白の羽”のエナメルピンを」
マシロ先輩が、自分の箱を示す。
彼女の声は、いつもの明るさの中に、真剣さが混じっていた。
「わ、わたしからは、この“黒の月”のエナメルピンを」
マヨイ先輩も、胸の前で箱を抱えるようにして笑う。
彼女の声は、震えているけれど、目はこちらを力強く見ている。
「タマキくんがね、『元気を出したい』って時は、白の羽を見えるところに着けて」
「タマキくんが、『休みたい』って時は、黒の月を見えるところに着けて」
二人の声が、自然に交互に重なる。
「そしたら――」
「わたしたちが、助けに行く」
二人の声が、ぴたりと重なった。
「…………嬉しいですが、どうして俺なんかにこれを?」
口から出た言葉が、あまりに情けなくて、少しだけ自己嫌悪が刺さる。
「先日のショーで」
マシロ先輩が、穏やかに口を開く。
しょうがないなぁ、という表情をしている。
「それ以外にもたくさん、気付いてないこともきっとあるけど」
マヨイ先輩が続ける。
柔らかい、許しの表情をしている。
「タマキくんは、お姉ちゃんを助けてくれた」
「タマキくんは、マシロを支えてくれた」
「だから、二人で話し合って決めた。“そのお礼”」
二人の真剣な目線が、俺には眩しい。
「……お礼なんて。俺は別に、何もしてません」
「タマキくんがそう思っているならそのままでもいい」
マヨイ先輩が、珍しく割り込むように言った。
声は小さいのに、言葉の芯はしっかり固い。
「代わりに私たちが勝手にありがとうって思っててもいいよね?」
マシロ先輩が、いつもの明るさとは違う優しい声で言う。
「タマキくんは助けてほしい時に言えないタイプでしょ」
言葉が、あまりにもまっすぐすぎて、心臓に刺さる。
そういうタイプだな、と自分でも自覚はあるが、改めて言われると息が詰まる。
「言うと、周りに迷惑がかかると思って一人で落ち込むタイプ」
マヨイ先輩の声は遠慮がちだけど、内容は容赦ない。
「そんな時に助けを求めていい」
マシロ先輩が、白い羽をくるくる回しながら、言い切る。
「私たちに助けを求めて欲しい」
マヨイ先輩も、黒い月を握ったまま、俺を見る。
「だから、これを着けてくれたら」
「わたしたちが、助けに行く」
二人とも、さっきと同じ言葉を、今度は少しだけ強く重ねてくる。
「嫌だと言っても助けるからね」
マシロ先輩が、いたずらっぽく笑う。
その隣で、マヨイ先輩が、ぎゅっと浴衣の裾を握る。
「約束ね」
その“約束”って言葉の重さを、俺は知っている。
息を一つ、飲み込む。
「…………そんなもの、俺なんかが貰っていいんですか?」
マシロ先輩が、少し呆れたように微笑む。
「“ちゃんと使ってくれないと”、むしろ怒るからね?」
「タマキくん“だから”、受けとってほしいの」
マヨイ先輩の方は、呆れるでもなく、ただ素直にそう言った。
胸のどこかが、じわっと熱くなる。
「……わかりました」
掌に、二つのピンを包む。
白い羽と、黒い月。小さな金属なのに、重さはちゃんとあった。
「……先輩たち、ありがとうございます。」
その言い方に、二人とも、綺麗な笑顔を見せてくれた。
それだけで、もらった甲斐がある気がした。
あー、ズルいな。この先輩たち。
「ちゃんと着けてくれないと、チェックしに行くからねー」
「授業中はダメだけど……部室とか、バイトの時とか、見えるところに……ね?」
「困ったら“見せて”。言葉は後からでいいよ」
「言えなくても、見せるだけならできる日もきっとあるから」
「…………そういうところ、ほんと、人たらしですよね」
「それは、どっちのこと?」
「二人とも、です」
マシロ先輩は「へへ」と笑い、マヨイ先輩は耳まで赤くしながら「そ、そう?」と目を泳がせた。
でも、嫌じゃない。
むしろ、「着けておきたい」と思えるくらいには。
「戻ろっか。長くすると、誰かに見つかって“参加費:恋バナ”になる」
「やだ、それは……」
マヨイ先輩が慌ててる。
可愛い。
「タマキくん、また後で」
「身体冷やしちゃだめだよ、タマキくん」
二人は揃って手を繋いで、玄関の向こうへ消えた。
残ったのは、湯上がりより少しだけ熱い胸と、白と黒の小さな灯。
掌に残った薄い重みを、指で確かめる。
白い羽。黒い月。
助けを求めるための合図が、この小ささで成立するの、すごい。
素直に嬉しいと言えなかったの、ちょっと悔しい。
◇
頭上に、星がいくつか見える。
街中よりは流石によく見えるなぁ。
エナメルピンを指先で弄ぶ。白い羽と、黒い月。
夜風を深く吸い込んだところで、ふいに人の気配がした。
「…………」
ベンチの反対側に、誰かが腰を下ろす。
同時に、ふわりとタバコの匂い。
「……ふー……。人気者だな、お前」
リン先輩だった。
「盗み聞きなんて、らしくないんじゃないですか?」
「そこ、喫煙スペース。宴会場でタバコ吸うわけにゃいかねーからな」
肩をすくめて、火のついたタバコを持ち上げる。赤い点が、夜の中で小さく光る。
「いい先輩持ったな」
一口吸って、ふーっと煙を吐きながら言う。
「『助ける』なんて約束、そう簡単に出てこねぇぞ」
「……俺なんかに、もったいないですよ」
さっき双子に言ったのと、ほぼ同じ台詞が、反射で出る。
すると、案の定というか。
「お前なぁ」
ゴツン、と軽く頭を小突かれた。
思ってたよりガチの強度で、地味に痛い。
「“俺なんか”は封印しろ」
タバコを咥えたまま、リン先輩は言う。
「言葉にしてるうちは、自分で自分をちっちゃくしてるだけだ」
「……」
返す言葉が見つからない。
「まあ、直すのは俺の役目じゃねぇか」
リン先輩は、ふっと笑う。
「少なくとも、あいつらは本気でお前を支えたいと思ってる。それすら信じられねぇなら――」
タバコの火が、ひときわ強く赤くなる。
「男、辞めちまえ」
さらっと言うには、ちょっとだけ重い言葉だ。
「……厳しいっすね」
「男に優しくしてどうすんだよ」
「いっそ清々しい言いきりですね」
「だろ」
くつくつと笑う。
「“助ける側”に立ち慣れすぎたやつほど、“助けられる側”が苦手になる。
お前、典型だ。だから、あいつらに“助けさせてやれ”」
「……“させてやれ”、ですか」
「そうだ」
リン先輩の横顔は、いつもどおり飄々としてるのに、目だけちょっと遠くを見ている。
「助けたいって言ってもらえるの、当たり前じゃねぇぞ。
俺も、何回か“無理やり助けようとして失敗した側”だからな」
ぽつ、と落とされた本音に、少しだけ息を止める。
リン先輩だって、万能じゃない、ってことを、時々忘れる。
「……にしても」
タバコの火をじっと見つめていた先輩が、ふっと笑う。
「羨ましいわ」
「え?」
「あんな、巨乳と美乳の双子姉妹」
「言い方ァ!!?」
思わず裏返った声が出た。
「事実だろ」
悪びれもせず、先輩は続ける。
「“どっちも正解”の双子って、世の男からしたら反則だぞ」
「いや、たしかにマシロ先輩もマヨイ先輩も超綺麗ですけど」
「バッカ、おめー、顔じゃなくて乳の話してんだよ」
「せめて胸って言ってくれません!?」
「まあ、俺は仲間には手は出さねぇけど」
「そういう問題ですか?」
「そういう問題だ」
さらっと、そう言う。
その言い方が、あまりにも当たり前すぎて、逆に格好いいから腹が立つ。
「……お前はお前で、その“罪作り”っぷりを、ちょっとは自覚しとけ」
「罪作りって……また、マスターみたいなことを」
マスターの顔が、脳内でカクテル片手に微笑を浮かべる。
「はは。まあ、似たようなもんだ」
リン先輩は笑いながら、煙を空に溶かす。
「あの人と飲んだら、絶対潰されるから気をつけろよ」
「いや、実はもう何回か潰されてるんですが」
「ほら見ろ」
「顔色一つ変わりませんでしたよ」
「多分常連全員でかかっても危ういぞ」
「マジすか」
タバコの火が、短くなる。
リン先輩は、最後の一口だけ吸ってから、灰皿に押し付けて火を消した。
「さて、戻るか」
先輩が立ち上がりながら言う。
「宴会、もう二回戦始まってる。シンジが“失恋ソング縛り”とか言い出してる頃だ」
「絶対やばいじゃないですかそれ」
「だろうな」
軽く伸びをしてから、先輩はふと振り返る。
「お前は?」
「……俺、もうちょっとだけ、ここにいます」
「そうか」
リン先輩は、わざわざそれ以上何も言わない。
「じゃあ、あんまり冷えるなよ」
それだけ言って、肩を軽く叩き、玄関の中へ消えた。
背中を見送りながら、小さく息を吐く。
……“罪作り”ってのは。
夜風が、さっきより少しだけ冷たく感じる。
その中で、掌の中の白と黒を、ぎゅっと握りしめる。
先輩たちのことじゃねぇか。
硫黄の匂いと、タバコの残り香と、湯けむり。
指先の中で、羽と月が、かすかに触れ合って、ちいさく音を立てた気がした。




