第50話 誰にも会いたくなかったのに来てくれた夜
202X年、7月中旬、テスト期間中
何かあったわけでもない。
ただ、起き上がる理由が、どこにも見当たらなかった。
アラームが鳴る。止める。
「大丈夫、まだ大丈夫」
もう一回鳴る。止める。
三回目あたりで「このスマホ燃えないかな」とか考えてしまう。
目は開く。視界はある。
自分でまずいと分かってるうちは大丈夫。
こんなことも別に初めてじゃない。明日にはいつもどおりの顔が作れるはず。
テスト期間中、かつ、たまたまテストの無い日でよかった。
部室にもバイトにも行かなくてよくて、ナツキも学部の人と泊まり込みの勉強会でこの数日来ていないし、少なくとも今日は来ない。
誰かに何か言われても、誰にも会わない理由がテストの一言で事足りる。
通知が鳴る。鳴るたびに、心臓のどこかがきしむ。
返さないと心配されるのは、わかっている。
だから、返す。取り繕う。いつもどおりの文体で。
〈ナツキ〉
≪今日も合宿だから帰らない。美味しいご飯作ってあげられなくてごめんね♡≫
≪食べてる。問題なし。≫
送信。
家に来る時、油断しすぎ。くっつくな。俺だって我慢してる。言えない。
〈アキハ〉
≪砂糖の配合、前のやつとどっちが好き?≫
何を返してもバレそうだから、未読のまま画面を伏せる。既読をつけない、という選択にも嫌な汗が出る。俺を見るな。
〈マシロ先輩〉
≪簡単なものから縫っていいって言われてネクタイ縫ってるの、いい感じ! ねぇ見て!≫
≪ありがとうございます。すごいですね。≫
うるせぇ天才が。今はすごいを見られる頭がない。
〈マヨイ先輩〉
≪教わったことのメモ、少し書けたの。一緒に見てくれると嬉しいな。≫
≪明日以降で時間作ります。≫
ほっといてくれ。俺は貴方ほど強くないんです。
〈ヒカリさん〉
≪学校側との調整は順調よ、合宿終わったら一回うちの会社にも顔出してね。≫
≪わかりました。≫
俺を信頼しすぎだ、やめてくれ。俺はそんな良い人間なんかじゃないんだ。
〈フユミ〉
≪新作の体験版きましたね!夜、ちょっとだけでいいのでやりませんか?≫
≪明日一限テスト。明日以降で。≫
俺に甘えるな。…いや、甘えていいって言ったの、俺か。うるさい。
〈カズネ〉
≪センパイ!!夏祭りの動画、エモ!尊!泣いた!語彙!!≫
≪ありがとう、いいな。≫
今日に限って返信が来ない。
「なんでこういう時だけ遅いんだよ。普段ならいっぱい送ってくるだろ」
声に出た自分に、びくっとする。誰もいない部屋で独り言が大きい。
〈メグミ〉
≪そろそろ逃げたくなってないです~?テストしんどいです~。≫
≪大丈夫か?無理するなよ。≫
逃げたいなんて言えるか。年下の女の子に負担かけられるわけないだろ。バカ。
大丈夫、ちゃんと取り繕えてるはず。
≪助かる≫≪ありがとう≫≪わかった、明日確認するね≫≪大丈夫≫≪了解≫≪無理するなよ≫
通知が鳴る度、「うるさい」が口から零れる。返信があってもムカつくし、なくてもムカつく。
自己嫌悪、自己嫌悪、その上に更に自己嫌悪。
布団を被る。汗がこもって、頭が回らなくて、でも頭のどこかだけ冷たい。
大丈夫。まだ大丈夫なはずだ。
言葉だけは、まだ言える。
「だいじょうぶ、まだだいじょうぶ」
言うたび、息が浅くなる。
言わないと、崩れる気もする。
いっても、くずれるきもする。
昼を過ぎても、水すらちゃんと飲めてない。けど、別にいいか。
麦茶のコップを手に持ったまま、床に座り込む。
冷蔵庫の前で十分、動けない。
扇風機の風が、音だけ仕事している。
こういう日に限って、羽根のカタッて音がやたら気になる。
暗くなる。
暗くなっていくのがわかっているのに、電気をつけない。
どうせ誰も来ない。来てほしくない。会いたくない。言葉にされたくない。
腹も減らない。喉も乾かない。起き上がる理由が、どこにも見当たらない。
――ピンポン。
反射で身を固くする。出たくない。誰にも会いたくない。
音は二度鳴って、止んだ。助かった、と思った瞬間、カチャ、と鍵が回る音。
「何やってんのよ、アンタ」
「……何も」
「知ってる。だから来たの」
ナツキか。
「飯。食って、風呂入って、寝ろ」
「……子どもか、俺は」
ナツキは「うん」とだけ言って、キッチンの方へ消えた。
水が出る音。鍋が当たる音。包丁の“トン、トン”。
焦げない匂い。柔らかい湯気。
台所で鳴る生活の音って、こんなに安心の設計図みたいだったっけ。
「タマキ」
「……うん」
「座って。食べて」
テーブルの上に置かれたのは、雑炊。卵が半熟で揺れて、海苔の香りがする。
ナツキは当たり前みたいに俺の向かいに座る。
「……いらない」
「いらない、は受け付けません。はい、口開けて」
スプーンが差し出される。
子ども扱いをされるのはむず痒い。
けど、逆らうだけの理由もない。
ひと口。塩気がやさしい。二口目。体に戻り道が出来る。
三口目くらいで、喉が勝手に働くようになった。
なぜか涙が出る。
「……味、する」
「するように作った」
半分ほど食べたところで、温度が体の中に点々と灯り始めた。
指先まで血が行く。体が少し重くなる。人間に戻る重み。
「お風呂、沸いてるから」
「……入らない」
「入る。『はい/いいえ』で言うなら『はい』」
いつの間に風呂のスイッチ押したんだ、こいつ。
立ち上がるのに時間がかかる。
タオルを渡され、脱衣所へ押し込まれる。
鏡の中の顔は、思っていたより、何もなかった。色が薄くなっただけの顔。
「十分間入る。分かった?」
「……十分」
「“くらい”じゃなくて“十分”。タイマー付けたから」
言うが早いか、ドアが閉まる。
服を脱ぎ、湯船に浸かり、鼻から息を出すと、胸の奥に固まっていたものが、少しだけ溶けた。
何も考えないつもりだったのに、考えは勝手に湧いてくる。
“いくつのメッセージを無視したか”“どれくらい迷惑かけてるか”“今日の自分が、どれだけ嫌いか”。
タイマーの電子音。正直助かった。
湯船から上がって、リビングに戻ると、ベッドが整っていた。シーツが張り直され、枕カバーが換えられている。
テレビは消えたまま。部屋の音は小さい。夜の音はさらに小さい。
「……今日は来ないって」
「“来なきゃダメな日”の匂いがしたから」
どこで。
そんな顔をしたら、ナツキは肩をすくめた。
「既読も未読も、文面も、『返事しない感じ』にも、それぞれ体温があるの。
今日は“体温が落ちてる返事しない感じ”だった」
喜んでしまいそうな自分が嫌だ。
「でも、ナツキだって、テストが」
「だからテスト受けてから来たんじゃない、明日もちゃんと受けるわよ。はい、お水。飲んで」
「……うん」
ナツキが手招きする。
「横」
「……横」
言われたとおり、ベッドに横になる。
布団が、昼間より軽い気がする。
ナツキが、横に座って、背中に手を置く。撫でない。ただ、置くだけ。
「今日」
「うん」
「誰とも会いたくなかった」
「知ってる」
「なんで来た」
「“誰とも”の中に、私は入ってないから」
「……勝手だな」
「勝手に信用稼いできたんだから、勝手に使う」
何言ってるのかわからないけどわかってしまう。
「俺、今、性格が悪い」
「知ってる。HPが赤ゲージの時のあなたは、世界にトゲが生える」
「ナツキにも怒っている」
「知ってる。元気な時に文句言いなさい」
「通知がうるさい。返事が来てもムカつくし、来なくてもムカつく」
「知ってる。だからあっちに置いた。明日謝ればいい」
俺のスマホは、ナツキの手により、リビングに置かれている。
「タマキ」
「ん」
「来なかったら壊れたでしょ」
何でもないみたいに言う。
何でもないはずないのに。
何も聞いてないのに、どうして正解を知ってるのか。
「明日までには自力で直せた、はず」
「壊れそうな時は、壊れる前に呼んで」
「……壊れたら来ない?」
「壊れてたら、拾いに来た。今回は間に合った。次も間に合わせる。何度でも」
「息、して」
言われた通り、息を吸って、吐く。
もう一回。
もう一回。
「……ナツキ」
「ん」
「本当に、来てほしくなかったんだ」
「知ってる」
「でも、今はいてほしい」
「いるよ」
不思議と、それだけで、眠りのほうからこちらに近づいてくる。
枕元に置いた手の甲に、彼女の指が一度だけ触れて、離れる。
そこから先は、何もいらない。
呼吸の回数を数える。
五回目で、少し楽になって、十回目で、肩の力が勝手に抜けた。
暗がりの中で、眠りながら、考える。
俺は今、壊れていたのかもしれない。
何も聞いていないのにナツキは、それに気づいて、勝手に助けに来た。
ありがとう、を言わないまま、眠った。
◇
朝。
目覚ましより先に、ことん、と皿の音。
キッチンから、味噌汁の匂い。
テーブルに、おにぎりと卵焼き。
俺のバッグは、勝手に軽量化されている。要らない紙が抜かれ、充電器が巻かれ、ペンが生き返っている。
「シャワー、五分。歯磨き、三分。はい、いってらっしゃい」
玄関で靴紐を結ぶ俺の背に、ナツキの手。
背中を二回、バン、バン。
「行ける?」
「行ける」
嘘じゃない。
“普段どおり”かどうかは知らないけれど、“行ける”くらいには回復している。
視界の端から、灰色が抜けていく。
「帰り、合宿の買い出しも一緒に行く」
「俺、午後は施設課行って打合せしないと」
「じゃ、終わるまで近くで本読んでる」
「……ありがと」
「どういたしまして」
ドアを開ける。
「行ってきます」
背中越しに言ったら、
「いってらっしゃい」
――即答だった。
階段を降りる足が、ちょっと軽い。
ポケットの中のスマホが、静かにしている。
通知音は戻ってくる。
でも今日は、騒音じゃない。
アパートから外に出る時、胸の中に、ほんの小さな言葉が浮かんだ。
(……生きてても、いいのかも)
合宿まで、あと三日。
テストは後二つ。
……ちなみに学校に着いた瞬間、同じ講義を取っているアキハに、顔面掴まれて速攻でバレて怒られた。
周りの同じテストを受ける同級生がドン引くくらい怒られた。
ごめんて。…ありがとう。




