第47話 とあるバーにおける迷子とお人よし
202X年、7月中旬 夜
梅雨のない札幌だけど、七月の夜は湿り気を少しだけ連れてくる。
いつもどおりの手順。いつもどおりのバイト。
カウンターには、常連が二人だけ。
長い脚を持て余しながら、何か凄い勢いでスマホを操作しているカオル先輩。
一番手前の席で頬杖をついているのが――カズネ。
「……センパイ、聞いてくださいよぉ」
脱力した声。
カウンターに顔を埋めそうな勢い。
「どうしました?」
「私、またバイト掛け持ち増やしちゃって」
カズネの肩が落ちる。
今日の彼女は、“明るい後輩”の仮面の隙間がちゃんと見える。
「増やしたんですか?」
「はい。えへ……へじゃないんですよね……へ。」
えらいぞ、一応わかってる。
「だって、全部中途半端でやめられないんですよね。
……“これ一本で頑張る”って、どうやったら決められるんですか?」
冗談交じりの彼女が、珍しく真顔だった。
視線だけが、少しだけ俺のほうへ逃げてくる。
なんか、胸のあたりに、ざらっと引っかかる。
俺自身も、多分いろいろ抱えすぎている自覚は、ないわけじゃない。
マスターが後ろから視線で刺してきているのもわかる。
うかつなことは言えない。
“こうするべきだよ”って言えるほど、何か決めて生きてるわけでもない。
「……ごめんなさい。すぐには、言えないです」
それが、今の俺の精一杯だった。
カズネは、ぽかん、とした顔をして――
次の瞬間、ふっと笑った。
「いえいえ~。センパイから“それっぽい正解”言われたら、私もっと迷ってたと思うんで」
「それっぽい正解、ですか」
「“自分の心が一番動くものを信じて選びなさい”とか、“どれを捨てるかが大人の選択だ”とか♡」
「あー……言いそうですね、誰か」
「でしょ?」
カズネは肩を竦めて、グラスを両手で抱える。
「でも、カズネさん、もし一個に絞ったら――」
「うん?」
「今の“気配り全部できるカズネ”じゃ、なくなるかもしれないですよ?」
「……やだ、それはそれで寂しい……」
ふっと笑う。弱くて強い笑い方。
「とりあえず、一つの考え方ですが」
言いながら、必死に考える。
何を言えば、ほんの少しでもカズネの肩を軽くしてやれる。
俺に今できることは何だ。
「今のバイトの中で“行くのがいちばんめんどくさいやつ”はどれですか?」
「え、めんどくさいやつ?」
「行く前に“あー……”って一回ため息出るやつはありませんか?」
「……コールセンターです」
「じゃあ、それは“やってるだけ”に分類していいと思いますよ」
「なるほど」
コールセンターまでやってんのかい。
「逆に、“今日入っててよかったな”って後から思えるのありますか?」
「カフェか、雑貨屋か、イベントスタッフかな……」
「そっちは、まだ“途中”なんじゃないですか」
三つもあんのかい。
うーん、と眉を寄せて、カズネがグラスに額をちょんとつける。
「決めなくてもいい、ってことですか?」
「今は、ですね。
……本当に“一本にしたい”って思える瞬間に出会った時は、たぶん迷ってる暇ないと思うんで」
「……そっか」
いつもの調子なら「情報源:センパイの人生グラフ」とか茶化しそうなところだが、今夜は、素直に頷いている。
「でも、どこかで“これ一本で行く!”って決めたいんです。いつか」
「だったら、今はその“いつか”のために、材料集めしてる時期なんじゃないですかね」
言いながら、“自分に言ってるっぽいな”と少しだけ思う。
「……材料、ですか」
「そう。“全部やってみた上で決めました”って言えたら、結構強いですよ」
「なるほど……」
一息吸って、カズネが顔を上げてくれた。
「じゃあ、もうちょっとだけ、ぐるぐるしながら頑張ります。
あ、でもコールセンターは辞めていい気がしてきました」
「それは早めに辞めていいと思いますよ」
「ですよね!今の悩んでる私が好きって、センパイが言ったってことにします」
「言ってませんけど?」
「言ってた~~♡はい論破~~♡」
空元気だ。
…解決できなくてごめん、カズネ。
カウンターの端で会話を聞いていたカオル先輩が、グラスを傾けながら言う。
「“これ一本で頑張る”って決められる人なんて、そんなに多くないわよ」
「そうなんですか?」
「“決めた気になってる”人は多いけどね」
「それは深いのか浅いのかどっちなんですか」
「どっちもよ」
カオル先輩が、意味ありげに笑った。
その時、入口で鈴が鳴った。
「お疲れー。……ん、いるじゃない、溶けかけの元気印」
「アキハせんぱーい……保護してください……」
「やだ。保護した瞬間に寄生されそう」
「ひどいっ!」
アキハは笑ってから、俺のほうを見る。
「いらっしゃいませ」
「うぃ。今日もジントニックで」
「承知しました」
氷を入れ、ライムを切り、ジンを注ぐ。
炭酸の泡が、細かく立ち上がる。
「この前もらった観葉植物、ちゃんと生きてるわよ」
「よかった」
思わずホッとする。
「葉っぱも増えた。新しいの、くるくるって丸まって出てきてる。
水やり忘れても、すぐしなびないから助かるわ」
「その条件で選んだつもりです」
「知ってる。
お母さんに見つかって、『あんたが買ったの?』って聞かれたけど、
『友達にもらった』って言ったら、ちょっとだけ機嫌良くなってた」
“友達”。
カテゴリーとしては、多分それが一番しっくり来る。
「植物と万年筆、同じ棚に並べてる。
あんた、わかってやってる?」
「何をでしょうか」
ジントニックを渡しつつ、問う。
「“毎日目に入るとこに置きなさい”って言ってるようなもんでしょ」
「……まあ、そうなったらいいな、とは思ってました」
「自覚あるならよし」
アキハが、すこしだけ口元を緩めて、グラスに口を付ける。
「――で。あんたは? ちゃんと寝てる?」
詰問モードの目になった。
バーでやるなよぉ。
せめて家でやってくれよぉ。
「ぼちぼち寝てます」
「ぼちぼち、って何時間」
「平均すると……四時間は寝てるかと」
「アウト」
即答。
グラスを、ことり、と置いて、指を折り始める。
怖いってば。
「最近さ」
「はい」
「一年生の面倒見てる時間増えたでしょ」
「……否定はしません」
「誰かの相談受けている時間も増えているでしょ」
「否定はできません」
「夏祭りの裏でも事務局の仕事してたでしょ」
「否定は」
「できないわよねぇ」
「いいことなんだけどね?」
口調は柔らかいが、目は笑ってない。
「最近、一年生のグループチャットでも、タマキの名前よく見るわよ?
“ご飯ごちそうになりました”“書類見てくれました”“撫でられました”」
「なんで一年生のグループチャット見てるんです?」
「私が情報提供しました!!」
カズネ、おま。
「――お人よしもいい加減にしなさいね。
全部拾ってたら、普通に潰れるわよ」
静かに刺さる言葉。
心当たりがないかと言われると、ある。
「私から見ると、こうやって注意して回ってるアキハさんの方が、
よっぽどお人よしだと思いますけどね」
つい、口をついて出た。
言ってから、“あ、今のはちょっとズルい”と思う。
「は?」
アキハが、グラスを持ったまま固まる。
横で、カズネが「ぷっ」と吹き出す。
カオル先輩も、グラスを揺らしながらニヤニヤしている。
「事務局全員のスケジュール管理して、仕事とレポートの締切把握して、
『無理するな』『寝ろ』『水飲め』って言って回ってるの知ってますよ」
「わかる気がします。アキハセンパイ、よく皆の相談乗ってくれてますし」
「そうそう。“私がやった方が早い”って顔して動いてるからねぇ」
カオル先輩も、楽しそうに追い打ちをかける。
「べ、別に、そんなこと……」
「“そんなこと”あるわよ」
カオル先輩がグラスを空にして、コースターの上に置いた。
「全部自分でやった方が早いって考えてるの、あんたら三人とも同じよ。まだまだね」
「三人?」
「アキハと、タマキと、カズネ」
「えっ、私もですか?」
「そうよ。“自分が気づいたからには動かなきゃ”って顔してるもの、いつも」
「……う」
図星を刺されて、カズネが“ぐぬぬ”顔になる。
「“自分がやった方が早い”“自分が止まると回らない”って思い込んでるから、
抱え込んで、結局キャパギリギリまで使ってから、“あーしんど”ってなる」
カオル先輩の遠慮ない追撃にアキハが、ぐぬぬ、という顔で眉間を押さえる。
「人に仕事振るのも技術よ?特に二年生の二人はいい加減覚えなさい」
「…………はい」
「…………はい」
俺とアキハ、揃って小さく返事をする。
そこへ、カズネが満面の笑顔で追い打ち。
「アキハセンパイもカオルセンパイも、優しいけど面倒な人ってカテゴリですよねー」
「ちょっと待ちなさい、なんで私まで」
「“優しいけど面倒”って、褒め言葉ですよ?」
「どの口が言うのよ」
「カズネはその“面倒な先輩”に可愛がられてる事、自覚しとくといいわよ」
「はーい♡」
その返事が天真爛漫で、でもちゃんとわかってる返事で。
こういうところが、カズネが人に好かれる理由だと思う。
やりとりを聞いていたマスターが、グラスを磨きながら、
「……フフッ」と、ほんの少しだけ笑った。
この店でいちばん多くの“面倒な優しさ”を見てきている人が笑うと、
それだけでお墨付きをもらったみたいな気持ちになる。
◇
終電が近づき、皆が帰っていく。
ドアベルが鳴り、静けさが戻る。
片付ける時間。
グラスを伏せて、クロスを掛ける。
照明が一段落ちる。
「お疲れさまです」と言いかけたとき――
マスターが、こちらを見ずに、低く囁いた。
「……早めに決めなさい。
でないと、決める前に溺れるわよ」
氷の欠片みたいな声だった。
「……」
「でも――沈む姿も、案外……退屈しのぎになるかもしれないわね」
ダウナーな声に、皮肉とも優しさともつかない響き。
どちらにしても、見捨てる言い方ではない。
返事はしない。
できない。
俺はグラスを棚に戻し、軽く会釈して、裏口から店を出た。
夜風は湿っている。
遠くで救急車の音。
歩きながら、胸ポケットを押さえた。
何を“選ぶ”か。
選ばないまま笑っていられる時間は、いつまでなんだろうか。
「……もうちょっとだけ、迷わせてくださいよ」
誰にも聞こえない声で呟いて、家への道を歩き出した。




